第7話 Allegria
東京の西には、都下と呼ばれる地域がある。都下は二十三区以外の市町村で構成される。多摩地区とも呼ばれている。中央線を背骨に、西武線、京王線、小田急線が並走していて、西に行けば行くほど家賃や物価が安くなっていく。
そのため、この辺りには地方から上京してきたバンドマンが多く住んでいる。バンドをやっている地元の学生も多く、レベルも高い。その中でも『東京ビートボックス倶楽部』は、同年代のバンドの中で頭一つ抜けていた。
その東京ビートボックス倶楽部主催のイベント『アレグリア』は、国分寺ONE(ワン)というライブハウスで不定期開催されていた。シルク・ドゥ・ソレイユが『アレグリア2』までやったので、それを無許可で名前を引き継いで『アレグリア3』『アレグリア4』と開催していた。今回は『アレグリア5』。5なのに3回目だった。
ふざけた名前だが、毎回かなり賑わっているイベントだ。『アレグリア3』から観に来ていた安島は、いつかは出演したいと思っていた。尾本くんから声がかかり、ついに『アレグリア5』にフリッカーズが出演することになった。安島は、今までのどのライブよりも気合が入っていた。
「もうちょっと、ナカ音なんとかなりませんか?」
リハーサルで、安島はPAに対してイラついていた。
『ナカ音』とは、ステージ上の音のことである。反対にフロア側の音は『ソト音』という。PAというのは、各楽器の音量と音質を調整して良い感じにする人である。
ライブハウスには必ずPAブースがあり、だいたいフロアの一番後ろにある。
『ソト音』は、フロアに向かっているスピーカーの音を調整するのでPAでも把握できる。『ナカ音』は、ステージの床に転がっているスピーカー・通称『ころがし』や、ステージ脇に隠れているスピーカーを調整しなければならない。なので『ナカ音』は、バンドメンバーからPAへ調整を依頼することになる。
「ギターを少し上げてください」
とか、
「ドラムを少しください」
とか、PAに調整をしてもらって、『ナカ音』を自分たちの演奏しやすい音にしていく。
『ナカ音』を作るのは意外と難しい。
今回の場合、ライブハウスの作りとアンプの向きが影響して、下手の安島には上手の美希子さんのギターがまったく聴こえなくなっていた。
この場合、『ころがし』から美希子さんのギターの音を返してもらって、聴こえるようにするのが正解。
しかし、安島は美希子さんのギターアンプの音量を上げるように指示をした。
全体のギターの音量が上がり、今度はベースの音が聴こえなくなった。
そこで祥太郎はベースアンプの音量を上げる。すると、今度はボーカルが聴こえなくなる。
『ころがし』から追加でボーカルを上げてもらう。すると、あっという間にステージ上が轟音になった。
轟音になると、歌も楽器も全体的にボヤけてしまって演奏し辛くなる。
「そもそも、下手ギターの音がでかすぎるんだよ! 少し下げろよ」
PAの兄ちゃんもイライラしながらいった。
安島は不満顔でアンプのボリュームを少しだけ下げて、ギターを掻き鳴らした。
「これでどうですか?」
「全然下がってない。ほとんど変わらない」
「でも、これ以上下げると音が変わっちゃうんだよ」
「それじゃあ、そのままやれば? もうナカ音はなんともならないよ」
一触即発の雰囲気だった。
時間がなくなり、フリッカーズのリハーサルは中途半端なままで終わった。
嫌な予感がヒシヒシとした。
本番で嫌な予感は的中した。
きっかけは、アレンジが完全に固まっていない『FANDANGO』(ファンダンゴ)という新曲だった。二曲目に追加していた『FANDANGO』で、安島が曲を見失い演奏が止まりそうになった。
その動揺がバンド全体に広がり、演奏がガタガタになった。
さらに3曲目の『orange juice』で安島のギターの弦が切れた。弦の切れたギターで必死に演奏を立て直そうとしたが、状況は悪くなっていく一方だった。
こんな状況で、何を言ってもウケるはずがない。祥太郎のMCはスベり倒した。
最後までいつ止まるかわからない、不安げな演奏が続いた。
フロアは冷え切っていた。ライブが終わっても知り合いからの拍手がまばらに鳴るだけだった。
はっきりいって、最低なライブだ。
「安島は?」
ライブが終わって、楽屋から出てきた本吉に聞いた。
「なんか、楽屋の椅子の上で体育座りしてましたよ」
「それは……、邪魔だな。ちょっと呼んできて」
「わかりました」
本吉が呼びに行くと、すぐに戻ってきた。
「フロアに行くのは、嫌だっていってます」
「ガキか、あいつは。ちょっと行ってくる」
楽屋に入ると、小さな丸いパイプ椅子の上で器用に体育座りしている安島がいた。
うつむいて膝の間に頭を埋めている。
「おい、やりやがったな」
声をかけると、安島が顔を上げた。
「近藤さん、ほっといてください」
「このぐらいで、へこんでんじゃねぇ。上手くいかない時もあるのがライブだって。何がダメだったかは、後でゆっくり考えろ」
「はい」
「楽屋でずっとそんな顔してると、他のバンドの邪魔だから行くぞ」
「はい。ギター片づけたらフロアに行きます」
安島は頷きながらいった。
フロアに戻ると、ステージでは東京ビートボックス倶楽部がライブをしていた。
圧巻のライブだった。
三人とは思えない演奏の厚み。歌もコーラスも、ライブ運びも完璧。
尾本くんのMCは、天才的な間で面白いように笑いを取っていく。
熱気と笑顔が、フロア全体を埋め尽くしていった。
そんなフロアの一番後ろの壁に寄りかかりながら、抜け殻のような顔で安島はステージを見つめていた。
近くの居酒屋に入り、打ち上げに参加する人数を告げると、奥の四人掛けテーブルが五つ置いてある座敷に通された。二十三人っていったんだけど、まぁ、いいや。
「生ビール、三つ」
ヨロズが店員に注文した。
打ち上げ場所を確保しに来たブリンキンの三人で、とりあえ先に乾杯した。
出演バンドは精算があるので、まだライブハウスに残っていた。
「安島くん、大丈夫かな?」
ナカキヨが、ビールを飲みながら心配そうにいった。
「大丈夫だよ。このぐらいで潰れるなら、最初からミュージシャンなんて目指さない方がいいね」
お通しの、わかめとタコの酢の物を突きながらオレが答えた。
「CD制作からここまでが、順調すぎたんだよね」
メニューの揚げ物コーナーを見ながら、ヨロズが答えた。ポテトフライを頼むつもりだろう、きっと。
一杯目を飲み終わる頃に、みんながやってきた。
「ありがとうございます」
尾本くんはそういって軽く会釈をすると、俺たちとは逆の奥の席に座った。
祥太郎と美希子さんが先にやってきた。
「あれ、安島と本吉は?」
「二人は忘れ物がないか、楽屋に確認に行きました。すぐ来ると思いますよ」
祥太郎がオレの横に座りながらいった。
「なに飲む?」
ヨロズはメニューを渡した。
「え~、どうしようかな~。お酒飲んじゃおうかな~」
美希子さんは歌うように悩んだ。
フリッカーズは普段、ほとんどお酒を飲まない。本吉が付き合いで少し飲むぐらい。
「今日はオレも、男らしくビールを飲みますよ」
「私はこれにします。カルーアミルク」
全員に飲み物が届くと、ぎゅうぎゅうに詰まった座敷の奥で、尾本くんが立ち上がった。
「まだ、来てない人もいるみたいですが……、今日はみなさんありがとうございました。前回よりも動員が伸びました。次回はもっと伸ばしていきたいと思います! その時はまた、みなさんの力を貸してください! それじゃあ、お疲れ様でした。乾杯!」
「かんぱーい!」
テーブルを超えてグラスが重なり、打ち上げがスタートした。
「安島くんと本吉くん遅いね。あ、生ビール、もう一杯お願いします」
ナカキヨが追加注文しながらいった。
「迷ってるんですかね? ん~、ビール、マズッ」
しかめっ面をしながら、祥太郎が答えた。
「こんな近いのに迷わないだろ。オレも、もう一杯ビール」
そんな事を話していたら、安島と本吉が来た。
なんだか、本吉が苦虫を噛み潰したような表情をしている。
「遅くなりました」
そういうと、安島はギターを置いて、ナカキヨの隣に座った。
「なにしてたの? 時間かかってたね」
「なんでもないです」
安島の様子も、少し変だった。真っ青な顔をしている。
「きゃッ! どうしたの! その手?」
ナカキヨが安島の手を見て、声を上げた。
右手がグローブのように腫れ上がり、紫色になっていた。
「安島さん。やっぱり病院に行きましょう」
荷物を持って、立ったままの本吉がいった。
「いや、大丈夫だから。本吉も早く座れよ」
「ダメだろ、それ。たぶん折れてるぞ!」
オレはそういうと、時計を見た。二十三時を過ぎている。
救急病院を探すよりも、救急車を呼んだ方が早いだろう。
「ナカキヨ、救急車呼んで! 美希子さん、キッチンから氷をもらってきて!」
ナカキヨは慌てて電話を取り出した。美希子さんはキッチンの方に駆けていった。
オレたちの席は騒然となった。異変に気が付いた尾本くんがやってきた。
「どうしたんですか?」
「安島が右手を骨折してるみたいなんだよ。なんでだか知らないけど……」
「階段の壁を、殴ったんですよ」
「本吉、言うなっていったろ」
安島は青い顔をしたまま、本吉を睨み付けた。
「安島さん、やっぱり隠すの無理ですよ」
「あと五分で救急車が着くって」
電話を切ると、ナカキヨがいった。
「じゃあ、誰か救急車に乗って安島についていって欲しいんだけど……」
「オレが行きますよ」
祥太郎が立ち上がった。
「じゃあ、残ったビールは僕が飲んでおくね」
ヨロズは祥太郎からビールを取り上げた。
「じゃあ、安島と祥太郎は外で待っておいて」
「ギターは……」
安島が心配そうな顔をした。
「帰ってくるまでここに居るから大丈夫だ」
終電で帰るつもりだったけど、こうなったら仕方ない。
祥太郎は安島を連れて、外に出ていった。
「わたしも外で待ってる」
救急車を呼んだナカキヨも、外についていった。
「大丈夫ですか?」
尾本くんが聞いてきた。
「もう、大丈夫だと思うよ。ありがとう。とりあえず、座ろう」
立ちっぱなしだった本吉は、祥太郎が座っていた席に座った。
「なにがあったの?」
祥太郎のビールを飲みながら、ヨロズが聞くと本吉が答えた。
「いや、何があったか僕にもわからないですよ。僕が楽屋から出て来たら、PAの人と安島さんが言い争いしてて」
目の前にあった水を一口飲むと、本吉は話を続けた。
「止めに入って、なんとなく収まったと思ったんで、居酒屋に向かったんです。んで、ライブハウスの階段を登ってたら、前にいた安島さんが鬼の形相で振り返って。殴られると思って身構えたら、僕じゃなくて壁が殴られてました」
「あそこの壁、コンクリートだよな」
「そうです。すごい音がして、手も腫れてきて。病院に行こうって言ったんですけど『大丈夫だ、行かない』の一点張りで」
「大変だったね、本吉くん」
ヨロズはねぎらった。
「本当ですよ。僕もなんか飲んでいいですか?」
「いいよ、いいよ。じゃんじゃん飲んじゃって」
打ち上げを楽しめるような気分じゃなかった。当たり障りのないことを話しながら、連絡を待っていた。
二時間後、祥太郎から電話がかかってきた。
「終わりました」
「どうだった?」
「小指と薬指が折れてるみたいです。手術の必要があるかは、もう一回検査しないとわからないみたいです」
「そうか。安島はどうしてるの?」
「気が抜けたのか、待合室の椅子で寝てます」
「そうか、じゃあ、気を付けて帰ってこいよ」
「それなんですけど……」
「どうしたの?」
「オレもアジも財布をギターケースに入れてるんで、金がまったくないんですよ」
「マジか。病院の金は?」
「それは明日でいいっていわれました。保険証もないし」
「ってか、お前ら、いまどこの病院にいるの?」
「そういえば、ここ、どこだろう。聞いてくるんで少し待っててくださいね」
「いや、いいよ、いいよ。聞かなくて。タクシーで帰って来い。タクシーなら後払いで払えるから」
「了解しました」
電話を切ると、どっと疲れた。オレがついていけばよかった。
一時間後に、二人は帰ってきた。
安島は空いている座敷に倒れこむと、何も言わずに泥のように眠った。
祥太郎は財布を忘れた無能さを、いつまでもいじられていた。
空が白み始めて、始発が動き出すと打ち上げは解散となった。
帰り道が同じ本吉が、安島をアパートまで連れていくことになった。
長い長い一日が終わった。あと二日で十月が終わろうとしていた。
そういえば、今日、これからバイトだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます