上司と部下の攻防
先ほど買った缶コーヒーを舐めながらふーと長い息を吐いた。
安堵と脱力で抜けきっていた気が少しばかり戻り始めている。
未だ横できいきいと吠え続けている矢鎚の横っ面を、勢い任せにどついてやりたくなるぐらいには思考が正常に戻りつつあった。
「どーなんですか!ハッキリしてくださいってば! もしかしてマジなんですか? ガチなんですか?」
わんわん吠えながら身を乗り出してくるからうるさくてかなわない。
そんな耳元で騒ぐな、俺の鼓膜を破る気か。
ついつい持ち上げてしまった手のやり場を俺は机に置いた缶コーヒーにもう一度向け、一気に煽る。
地声がもともと高いこの女性社員の怒鳴り声ってのは聞いていて心地よくなるものではないのだ。耳が痛い、もちろん物理的な意味で。
近くに置かれた観葉植物もうるさそうにはを揺らしている。
俺はそいつの気持ちも汲み取って、矢鎚を黙らせるために敢えて説教くさい言葉を選んだ。
「お前なぁ…、社会人になったらそういう若者言葉使うんじゃねえよ。同僚とかなら良いけど俺お前の上司…。」
空になった缶をため息まじりに机に下ろす。
黙らせるためとは言え、これは俺の個人的な本心も入り混じっているのは事実だ。
少しは反省しろとお叱りの意味を込めたのだが。
なんと矢鎚はむしろ胸を張って高らかに笑ってみせたのだ。
「またまたァ、固いこと言って〜。」
「固いかなぁ⁈ 俺普通のことしか言ってないだろぉ⁈」
10と幾ばくか離れた部下が気さくに話しかけてくれるのは喜ばしいことだが、気さくが過ぎるのも困ったものだ。
いやね、俺も多くを望んでるわけじゃないのよ。すこしばかり気を使ってくれと…。
そう小言を続けようとして、小さく喉を鳴らした矢鎚に遮られる。
彼女はその笑みを唐突に引っ込めて、悲しそうに目を伏せる。
そして、呟くように口を開いた。
「……私たち半月前の地獄を共に闘った戦友じゃないですか。」
その言葉で、一気に俺たちを囲う空気が冷める。
その寒さからか体の芯から震えが這い上がってくる。
半月前、か。
過ぎたこととはいえ、恐ろしいその事件の記憶は未だ俺を蝕んでいるようだ。
ぎりっと己の奥歯が鳴るのが聞こえた。
「あれは酷かったな…。」
俺は苦虫を潰した液をぐつぐつ煮詰めて凝縮した飴玉を噛み締めたような顔でそう吐き捨てる。
そう、それはまさに果てないデスマーチだった。
上司のパソコンでバグが発生し、そのデバックを押し付けられたことにそれは始まる。
通常業務にプラスで舞い込んだ予定にない仕事。三時間後に迫る納期。緊張の走る部署内。エラーの続く処理画面。スケジュール通りにいかない現実、基礎用語すら理解しないメンバーの発覚、予想外のトラブル、etc……、etc……。
会社に寝泊まりを繰り返し、結局あの時は二週間は帰れなかった。
あれがサビ残なんて俺信じない。
「でも。」
呟くように言って、矢鎚は正午の明るい日差しの中こちらを真っ直ぐに見つめた。
「…戦い抜き、…生き残ったんですよ、私達。」
そう言って隣で笑う矢鎚。
それは、あの日の功績を労うようであり、悲惨な戦いを悼むようであり。
…生還を喜ぶようでもあった。
その表情はさながら歴戦の戦士だった。
そんな矢鎚が緩やかに俺に向けたのは、拳だ。
俺も同じくふっと笑みを作った。
確かに俺たちはあの戦いの中、手を取り合った、背中を預けた
二週間休まず戦い続けたお前のような同志を持ったこと、それがなにより誇らしいと思うよ。
そちらに拳を伸ばす。
「ああ、そうだな…。…でもそれとこれとは関係ないだろ。雰囲気で誤魔化すな。」
「ちっ。」
「オイ舌打ち。」
じとっと矢鎚をたしなめると、またもや部下にあるまじき舌打ちの音。
伸ばされた矢鎚のそれを通り抜け、俺の拳はそのままの流れで矢鎚の頭に落とす。
あだぁっ!と言う間抜けな声に続いて、矢鎚は頭を抑えてその場でしゃがみこんだ。
ぽかっと太鼓みたいないい音がしたな。中身詰まってないんじゃねえか?
ちょっと本気で心配になってきた。
そんな些か失礼なことを考えながら憐れみの目を送る。
すると矢鎚は涙目になりながら俺を恨めしそうに睨んできた。
「そっちこそ誤魔化さないでくださいよっ!どーなんですか美人ちゃんと付き合ってるんですかっ!」
「…、それはその、アレだ。」
「なんだと!極刑に処す!」
「まだ何も言ってない!」
俺が答えに言い淀むと、矢鎚はスラリと鉄パイプを構えて立ち上がった。
ひっ、と息を呑んで見上げれば、今すぐそれを振り下ろさんばかりの殺気を湛えた形相ある。
こらやめなさい、社内殺人とか笑えねえから。
ていうかその鉄パイプどこから出したの。
悪いこと言わないからしまってこい。ほら振り上げない振り上げない。
命からがら何とか説得してその場を収める。
万年仕事漬けのこの職場では、若者勢の殆どが時折呪文のように「リア充シネ」と呟く。
この矢鎚もその中の一人である。
クリスマスやバレンタインの来るたび荒れ狂う奴らの信条はこうだ。
「リア充を許すな」。
告白されたなんて許されるはずはない。
しかも相手は美人ときたら本気で殺されかねない。
…なんて言ったもんかなぁ。
「…えーと、アレだアレッ。親戚の子だ!ウチで預かる事になって…」
「嘘をつけぇえええ!」
パッと思いついたことをそのまま口に出すと、間髪入れずにそう叫ばれる。
どうしてバレたんだ⁉︎ と固まる俺に矢鎚は指を突きつけはっきりと断言した。
「あんな美人外国人ちゃんと同じ血が砂上さんに流れてるものかっ!」
「くっ、言い返せないッ!」
だって関係を否定できる材料しかない!
俺とルシアの間に顔面偏差値に確固たる差があるのは明らか。
そもそも外国の血なんか流れてねえし。
あいつの青い髪も金の目も白人ぽい肌も俺は持ち合わせてねえもん。
遠い親戚にしたって無理な話だ。
ぐるぐる頭を回すがもはや言い返す気にもなれずに白旗を上げて撃沈する。
机に突っ伏した俺を見下ろして、矢鎚は裁判官のような顔で俺に発言を促した。
「で、正直なとこ何なんですか。」
「…好きって言われたけど断った。」
「死ね果報者が。」
「はーい聞き逃しませーん、上司に死ねとは太え野郎だ。出世街道とはオサラバだと思えー。」
素直に答えたというのになぜそんな暴言吐かれねばならんのだ。
ていうか上司によくそんな口叩けたもんだなお前の図太すぎる神経どうかと思うよ。
じろり視線をやると、矢鎚はまさにあっ!という様な顔で口に手を当てている。
そして急にこちらに向けしおらしく頭を下げた。
「サーセン砂上さん。」
「清々しいほど謝る気ねえな。」
ペコリと綺麗に45℃下がった頭からはらはらと黒髪が垂れる。
俺は若者言葉やめろって言ったばかりだろうが。トリ頭め。
「で、なんで断ったんスか。」
「…続けんのかよその話。」
謝罪とも呼べない言葉を吐き出したことで満足したのかパッと顔を上げた矢鎚の顔には再び笑顔が張り付いていた。
悪びれる様子などカケラもなくこちらを見る。
正直これで流せればいいと思ってたんだけど…。目論見が外れたな。
俺は顎に手を当てて頭を巡らせた。
何でってそんなこと聞かれても、まず出てくる答えを言うわけにも行くまい。
俺はそれを省いた答えをそのまま声に出す。
「…そりゃ初対面だし。美人局かと思うだろ普通。」
「十中十、それでしょうね。」
俺の言葉に素直に同意してうんうんとうなづく矢鎚。
100%じゃねえか…、別にいいけど少しぐらい否定してくれよ。
この際、形式だけでもいいからさ。
そんな思いも虚しく前言を訂正する気のない矢鎚の視線は別のところに移っていた。
長机の上の包みだ
それは俺の愛用する弁当箱。ルシアが来る前まではその中に白米と梅干しが目一杯に詰まっていた。
しかし今は米と、色とりどりの小分けカップに分けられたいくつかの惣菜、果物など中身は様々だ。
今は綺麗になくなっている弁当箱を見て矢鎚が目配せをする。
「…最近弁当のクオリティが上がっておられますがそれは?」
「そいつがくれる。」
「皆の者ー、であえーであえー。」
「オイコラ静かにしろバカ!」
なにが琴線に触れたのか、急に大声を出す矢鎚の口を慌てて押さえつけた。
他にも飯食ってる奴もいるんだぞ!
そいつらならまだしも、この部屋で仮眠とってる奴らは手がつけられん。
あいつら
ほらっ!部屋の温度下がり始めてるから! 絶対零度の視線を感じるでしょうが!
それに気づいたのかサァッと眼鏡の奥の顔が青くなった。
恨みつらみの篭った絶対零度の視線にしゅんと小さくなった矢鎚が大人しくイスに腰掛ける。
三徹目の人間の恐ろしさには勝てなかったようだ。
矢鎚は反省したのか今度はコソコソと耳打ちしてくる。
「ホント詐欺とかじゃないんですか? 逆に本気でで心配になってきました。」
俺はその質問に苦笑った。
そうそう、俺も始めはそう思ったんだよ。でもさ、
「違うっぽいんだよなぁ…。」
そもそも人じゃないし。
金は価値のないものって言ってたし。
餌ぐらいの価値しかないんじゃないか? うわっ言ってて怖くなってきた…。
太らせてから食べようってんじゃないよな?
いやいや、そんなはずは…。いやいやいや…。
……帰ったら聞いてみよう。
深く思慮に耽る俺をみて矢鎚はニヤニヤとからかうように笑った。
「ほほぅ成る程。さては砂上殿、お付き合いをなさるおツモリですかい?」
「だから変な喋り方やめろ。…んなつもりはねえよ。」
ありえない、それが正直な感想。
俺は、意味のない色仕掛けのような悪戯を、毎日飽きずに仕掛けてくる彼女のことを思い浮かべた。
いや、大胆すぎて色気もクソもないんだけどさ。大体、全く興味ないし。何度も言うが全くサービスにはなってない。
直感で答えても、真面目に考えて答えを出しても、恋愛感情なんて湧いてこないのに。
どうして付き合うなんてできようか。
「えー、美人なのに?」
まあ確かにちんくしゃなお前の数百倍は美人だな。でも、
「好みじゃねえもん。」
男じゃないし。
「おっぱい大っきいって聞きましたよ?」
まぁ見た感じこちらもお前の倍ありそうだ。
ここだけの話、結構触り心地もよかった。
しかしだ、
「別にどーでもいい。」
男じゃないし。
「そんな美味しいご飯もらっても?」
うん、あいつ来てから体重増えたのが密かな悩みだったりするぐらいには、胃袋もがっしり捕まれてるけどさ。
「関係ないだろ、てか犬かよ俺は。」
男じゃないし。
ふー、とこれ見よがしに長いため息をついて肩をすくめた矢鎚。
それを横目で見ながら俺は大あくびをする。
「畜生には変わりないでしょう?」
「まぁ、そうかもな。」
ぺっと吐き捨てるようにそう言って矢鎚が遠い目をした。
俺もその横に同じ目を並べる。
どうせ俺は会社に飼われる畜生だよ。
お前もだけどな。
俺が自虐的に笑って片肘をつくと、矢鎚の方は額に手をあてがって大仰に眉を寄せた。
「可愛くてお弁当も作ってくれて、詐欺じゃない。何が不満だというのでしょう。」
男じゃないことかな。
飛び出そうになるその言葉をなんとか呑み込んで、矢鎚のセリフを黙殺した。
確かにルシアはスペックが高くて、見目もさることながら、性格も好ましいところが多いのも事実。
こうして暮らしてみて知った事だが、彼女は明るく気さくで勤勉で。
ひたすら一途な姿勢には胸を打たれる時もある。
俺だってルシアが嫌いなわけではないのだ。
性格自体に問題はない、不満だってない。
恋愛に発展しないだけ。
そこらへんを諦めて本当にただの同居人になってくれるとこちらも嬉しいのだけど。
「ゼータクがすぎるんじゃないですかー? これだから魔法使いは!」
「あ、今の悪口だろ? それ知ってるぞ、この前ネットで見た。」
「いえいえそんな彼女いない歴=年齢の砂上さんにぴったりな暴言吐いたりしません。」
「絶対その気じゃねえか。」
素知らぬ顔でそう言って完璧なビジネススマイルを貼り付けた矢鎚に俺は呆れた声を返す。
ていうか今の時代、彼女いないイコール童貞っていう考えはどうかと思うぞ。
いや、まあ童貞だけど。
彼女はできたことないけど何回か恋人は作ったことありますー。
それなりの経験もしましたー。
万年芋メガネのお前と違って俺は非処……、ゲフンゲフン。
「ていうか、そんな話どこで聞いたよ。」
「え、ウチの部長様サマが今度紹介してほしいから聞きに行ってこいって。」
「
急にすんと無表情になった矢鎚が出した名前に驚愕する。
それは同じ会社の同じ部署。俺の直属の上司の名前だ。
自分を幾つだと思ってんだあのおっさん。今年で55超えるだろ。
子供が四人もいて今度末っ子が大学入るとか言ってなかったか?
軽いジョークならまだしも本気で血迷ってんなら奥さんに刺されるぞ。
「砂上さんにその気がないなら是非部長に紹介してあげてください。」
俺の肩に手を置いて、どこか諦めた目で矢鎚が笑う。
やさぐれるようなそんな顔だ。
置かれた手が、次第にギリギリと俺の肩を締め上げていく。
俺はふっと強気な笑みを作った。
頰に流れる冷や汗とかは見えないことにしてくれ。
「そんな不倫の片棒担ぐの嫌だ…。絶対嫌だ‼︎」
「やだなぁ私だって担いでるのに、ねェ?」
逃げられるとお思いで?
矢鎚がこちらにまたもや魔女のような笑みを向けた。
俺を道連れにする気か。いいだろう相手になってやる。
一連托生? 死なば諸共? んなこたぁ知ったこっちゃないな。
引きずり落とそうったって簡単にはいかないぞ。
俺にはこの俊足があるからね。
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