どうしても。
目を、開く。
真っ白な天井がそこにある。見飽きるほどに見た、壁紙と電灯。
どうやら俺はうたた寝をしていたようだ。
正面に置かれたテレビが何事か作業的な声で話しているのが聞こえた。おそらくニュースか何かだろう。
これがあるということは、俺の下にあるのは寝室のベッドではなく、リビングのソファーだ。
「…あ、やべ。付けっ放しだった。」
眠りに落ちる前はなにかバラエティとかをやっていたはずだ。
好きな芸人とかが出て、面白かったのに…。最後まで観れなかったなぁ。
霧がかかった頭のまま身を起こす。
「…あー、よく寝たわ。」
部屋の中は暖房も入れていないのにポカポカと暖かい。
あくびをしながら外に視線を移すと、昼下がりの強い日差しが、ベランダに続く窓から入り込んでいた。
通りで部屋が明るいわけである。
まだ重たい頭を持ち上げて、伸びをする。
バキバキと、骨の軋む音が聞こえて深く息を吐き出した。
それにしても懐かしいものを見た。
さっきまで見ていた夢を思い出す…。
ふっと唇が笑顔の形を作った。
あの頃はあんな青臭すぎる恋愛をしていたんだっけか。
あーあ、自分のこととはいえ恥ずかしいったらありゃしない。
そんなことでひとり喉を鳴らした。
あの頃に帰りてぇーなんておっさん臭いこと考えて、上機嫌になったのと。
春ももう終わる頃の陽気な昼間の日差しと、そんな中でうたた寝をした、いい気分。
なんだかいつもより頑張れそうだ、なんてばかな事を考えて俺は大きく伸びをする。
そのうちのどの音を聞きつけてか、キッチンの方からルシアがひょっこりと顔を出した。
「あ、起きたんですか洋介さん。丁度今、起こそうかと思ってたんですよ。」
そろそろ時間でしょう?そう言いながら微笑むルシアの手には調理用具が握られている。
「…、そうだな、確かにもう時間だ。」
うるさいリビングの時計を見れば、準備を始めるにはぴったりジャストな時間帯だ。
あのまま目を覚まさずに寝てたら寝過ごして遅刻するところだった。よかったよかった。
今日の夜は夜勤で、明日の朝は早番で、昼間は通常勤務。
そんな無理なスケジュールを立てなきゃならないほど仕事が溜まってるのだ。早めに出勤して間に合うようにしなければ。
寝過ごしてる場合なんかじゃ無いのだ。
あ、でもルシアがいるからいいのか。起こしてもらえるし。
「…?」
キッチンの向こうでルシアがこてんと小首を傾げた。
寝起きのふわふわした頭のまま、ずるずると立ち上がって。こうしてリビングの中央にあるテーブルまで体を引きずって行く。
そうして、ルシアの立つキッチンを気まぐれに覗き込んだ。。
コンロの前に立つルシアは、じゅうじゅうと鳴るフライパンを菜ばしなんかで器用にかき回していた。
その鉄板から中身を少し拾いあげて、皿にに移しているところだ。
おそらく俺の為に軽食なんかを用意してくれているのだろう。
この子はいつもそう。
俺はルシアに軽く「今日は夜勤だ」と告げただけだというのに。
ちょうどいい時間に軽食は完成しているのである。
こういう気遣いに自らの手を惜しまない。そんな姿をも携えたこの大蛇には、頭が上がらなくて困るほどだ。
彼女のもつ、尊敬できる部分の一つであると思うし、いくら俺だってしっかり感謝もしている。
だけど…。
「ルシア、悪い。それ弁当とかにできねえかな。」
「…はい?」
今日はどうにも食欲がわかない。
俺の言葉にルシアは軽く瞠目して、言葉に詰まったようになる。
そして半秒経過したあと、火を止めてこちらに小走りで駆け寄ってきた。
寄ってきたルシアはつま先で立って俺の額に自分の手をあてがう。
ルシアの冷たい手が触れて、瞬間的に体がぶるり痙攣した。
冬とかはゴメンだなとか頭のどこかで思いながらされるがままにしていると、どこか固いルシアの声がした。
「洋介さん大丈夫ですか? 熱は…ないみたいですけど、少し顔色が悪いですよ?」
縦に割れた金色の目が不安げに揺らいでいる。
何を言ってるんだ、たっぷり睡眠もとってこれからの夜勤を乗り切るため意気込んでるというのに。
懐かしい夢も見て、むしろ元気が出たぐらいだ。
それでもルシアがこう言うんだからホントなんだろう。
顔色が悪い、ねぇ。…熱じゃないならなんだ?
でも別にだるいわけでもないしなぁ。
「いや…? 特に何も?」
「そう、なんですか?」
「そうそう。…あ、もう準備しなきゃ…。」
そうだそうだ。思い出した。
せっかくジャストタイミングに起きたのに無駄になるとこだった。
さっさと支度しなきゃとはやる思いを抑え、心配そうな視線を送るルシアに曖昧で気持ちばかりの笑みを返す。
「なんか今、物食う気ぃしなくてさ。」
へらりと笑って誤魔化してみるが、ルシアは重たい無言を保ったままだ。
こんな事で怒る奴ではないと思うけど、気を悪くしただろうか?
「いや、せっかく作ってくれたのにホント悪いとは思うんだ…。」
「いえ、洋介さんが食べたい時に食べるのが1番だと思いますから。」
慌てて苦笑いつつ弁解するとルシアはパッと綺麗に表情を変える。
安心させるような、そんな穏やかな笑みだ。
その意図通り、すこしホッとする。
しかしそんなやりとりにむず痒い思いでもあったりするのだった。
これではどっちが年上かわからない。あ、ルシアの方で合ってんのか。
「じゃあ、頼むな。」
「お任せください。とびきり美味しいお弁当にしてみせます!」
そう意気込んでルシアはすぐさまいつもの弁当箱を取ってくる。
材料はいくらか揃っているのだし、ものの数十分もせずに出来上がる事だろう。
「ははっ、楽しみにしてる。」
「いつも通り」な彼女特有のオーバーなアクションに頬の筋肉が緩む。
そうしてくれることに、何故だろうか胸の内が落ち着いて呼吸がなだらかになる。
やっぱり、今日は調子がいいのではないだろうか。
たしかに食欲はないが、気分はいいし、こんな単純なことの有り難みをちゃんと実感できる。
さてさて、ルシアが弁当箱を詰めてくれている間に準備を済ましてしまおう。
俺は近くにあった干したてのワイシャツを手に取った。
シワひとつないそれは、大分前にルシアが取り込んで畳んでくれたのだろう。
まるで売り物のように綺麗にたたまれていた。
それを片手に寝室に向けて足を進める。
中に入って、ドアを閉めるその時。
ルシアになその気遣うような金色の目が、背中に刺さって痛かった。
………………幕間………………
それから時計の長針が半分回ったころ。
俺は大体のルーティンワークを済ませて、最後にネクタイを締める。
いつも通りカバンを持って、最近タンスから引きずり出した薄手のマフラーを首に巻く。
「ルシア、俺そろそろ出るぞ。」
「あ、ハイ。今すぐ行きます。」
そう声をかけてから、玄関へ向かう。
いつも通り、玄関口でしばらく待てば後ろをルシアがついてきた。
「じゃあこれ。お夜食にでもどうぞ。」
先ほど詰めていたものだろう。使い込んだ弁当入れを差し出してくるルシア。
その中にはきっと、やっぱり使い込んだ弁当箱が入っていて。
開けば先ほどの作りたての惣菜が所狭しと詰められているのだ。
「ん。…サンキュ助かる。」
「いーえっ。洋介さんのためですから。」
それを受け取りながら、珍しく礼なんか言ったりしちゃうぐらいに今日は絶好調だ。
なんかやれる気がする。明日の朝じゃなくて明後日の朝ぐらいまでやれる。
俺はそんな心意気だというのに。
どうしてかルシアの方は顔を曇らせたのだ。
自らの服の裾を軽く握った指や、変に体を強張らせて愁眉を寄せるその姿が、ルシアという人を際立って儚くみせた。
「洋介さん、本当に大丈夫ですか? なんだか元気ないです。」
そんなルシアから出てきたのはこんなセリフだ。
それをやけに寂しそうに言うから、ずっしりと重い空気が流れる。
少々、居心地が悪い。
「そうか? 全然大丈夫だけどな。食欲ないのも多分アレだ、寝起きだったからとかだ。」
「…、でも。」
そう軽く応えるのに、ルシアの方は納得していないのか、口をもごもごとさせて言葉を探している。
ただ食欲がないだけ。そのほかはむしろ絶好調なぐらいだ。
体は軽くて、今なら歳を忘れて跳ねまわれるだろうし。
視界も頭もハッキリ良好。きっとどんな小さなミスも見逃すまい。
そう思うのに、ルシアは眉尻を下げてこちらを見上げるのだ。
その様子が気にかかるが、カチカチうるさい時計がリビングから急げと叫んでいる。
俺は後ろ髪を引かれながらも靴を履き始めた。
すると、一拍遅れてルシアが背中越しに名前を呼んだ。
「…洋介さん。」
「なんだよ。」
振り向かずにそう返事するが、後に続く言葉はない。
疑問に思いつつも手を止めず靴を履き終わって立ち上がった。
「洋介さん。」
その時もう一度同じトーンで名前を呼ばれた。
俺は振り向く。
そして、
「だから何……ッ。」
パッと視界に広がったのは見慣れた玄関の間取り……ではなく、
…ルシアの鼻筋だった。
何度か間近で見たことのある白い肌。
それが今、俺の目の前の全てを覆って、そのほかのものを隠している。
それほど近くに、それはあった。
柔らかな感触が唇に軽く触れて、離れる。
たったそれだけのこと。
なのにその一瞬がどうにも長くて、目を見張った。
吸い付くわけでも、啄むわけでも、ましてや食らいつくようなものとは、違う。
ほんの少し交わるような、掠めるような、唇を合わせただけのキスだ。
ただそれだけで、離れていくルシアの顔。
突然のことに驚いて固まる俺の目が次に映したのは、半歩引いて体を離した彼女の姿だ。
「何があったのか、わかりませんが…。」
不器用な笑みがそこにあった。
いや、それはもう笑みと言っていいのかわからない。
声だって変に震えて、音や大きさにばらつきがある。
綻びすぎてボロボロでヒビの入ったそれだ。
…どうしたって、彼女の美しさには似合わずにいる。
一体なにが、彼女をそうさせているというのだろう。
「元気、出してください。」
消え入りそうな、掠れた声でそう告げた。
強張ったままの体を震わせて。
俯いてきゅっと小さくなるルシア。その綺麗な双眸が、台無しなぐらい暗く翳っている。
もしかして、キスしたことを怒られることを怯えているのか?
どんなに考えても今の俺にはそのぐらいの答えしか浮かんでこない。
いや、確かにそりゃ許さねえけどさ。
付き合っても無いのにそういうのホントどうかと思うぜ。
外国じゃ普通だったのかも知れねえが、ここは日本だぞ? よく覚えとけ。
…と、まあ普通ならそう怒ってたとこだけど。
今の俺は上機嫌だから、特別に許してやるよ。
そうだな、気の利くうまい弁当に免じて? とか。そんなのでいいや。
でも、これで味を締めるなよ?
…今回だけだからな。次は許さん。
「…ルシア。」
できるだけ優しく、ルシアの頭を撫でた。
これで彼女にまとわりつく暗雲を払ってやれればいいのだけど。そんなことを考えながら。
ハッと目を見開いてルシアが顔を上げる。
「…ッ。」
少し表情を和らげて嬉々としてこちらを見上げたルシアだった。
…その表情がそのまま凍りつく。
まるでオバケでも見た子どものようだ。
どっちかと言うとお前のがモンスターなんだから、そんな顔すんなよ。
オバケに怯えるモンスターとか
大体、今目の前にいるのは人間の俺だしな。
小さく短息して、俺は踵を返す。
「行ってくる。」
俺はそう言い残して玄関の扉を開けた。
扉が閉まる瞬間、小さく伸ばされた手が見えたけど…見えなかった事にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます