オレンジが見えない



「洋介、ちょっといいかな。」




 そう切り出されたのはあのオレンジの教室から2年の年月が経ったころ。

 ドライブの帰りだったかな。車を俺の家の前で止めて、そいつは静かにそう言った。



「ん、何? なんか大事な話?」


「そう、めちゃくちゃ大事な話。」



 俺の座る助手席方面のドアから降りようとしていた体を止めてそちらを返り見れば、運転席で何か苦笑いするそいつがいた。



 …めちゃくちゃ大事な話、ねえ。

 何事かと思いつつも、ドアを閉めて助手席に座りなおす。

 横に座るそいつに視線をむけた。



「なんだよ改まって、なんかまた資格とかの話か?」



 あれから双方とも、別々のところではあるが大学に進んで。

 まだまだ勉強とかそう言うのに縛られてた。

 どっちかといえば体育会系で、頭はそこそこだったそいつは、将来のためだとかで資格とか取るのに躍起になってたっけ?



 からりと笑った俺は、それが役に立つとか立たないとか、取るべきか取らないべきかとか。そんな相談を受けた経験が何度もあった。

 だから今回もそれだろうとアタリをつけたのだけど。



 そいつは苦笑いのままそれを否定する。



「いや、今日はそれじゃなくて。」


「じゃあ何だよ。俺明日一限取ってんだけど。」



 違うなら何なんだ。

 なんにせよ、これは長くなるぞ…。

 俺はカーシートの背もたれに寄りかかってため息をついた。



 明日は大学の必要科目が朝一番にある。

 それに出席する為、今日は寄るところに寄らずに真っ直ぐ家に帰るところなのだけど。



 しかしまぁ頼りない恋人の相談だ、今日のところは仕方ないと諦めた。



 もはや夜空の高いところに登ってやがる月が目に入ったから。

 今夜も月が綺麗だから、なんて柄にもない理由で。



「あ、悪い。えっと…、そのな。」



 さっきの俺の言葉を話を急かすものだと受け取ったのだろう。

 焦って何か言葉を探し始めたそいつ。

 しかし、口を開いたり、閉じたりを繰り返しているだけで一向に言葉が出てこない。

 何か言いにくい事なんだろうか。



「…、何だよ辛気臭えな。お前は昔っからホントに。」


「…ごめん。」



 そう、昔からこいつはダイジな話とかそう言うのが苦手なのだ。

 うまく言葉を引き出せないというか、ヘタレというか。



 ホントに変わらねえな、あの夕焼けの日もそうだった。

 あいつが渋って、俺が急かして。

 殆ど同じじゃねえか。



 俺は笑ってそいつの肩を小突いた。



「なあに怖気おじけ付いてんだ? 大事なことなら腹割って話そう。なんつったって俺たち、だろ?」


「あ…。」


「大丈夫、お前がそういうダメなやつってことはちゃんと知ってんよ。」



 俺は、知ってる。良いところもそうだけど、それよりもっとお前がどれだけダメなやつかってことを。きっとこの世の誰よりも。



 頭の悪いお前は、馬鹿の癖によく悩んで、でも無駄にカッコつけて一人で抱え込むんだ。

 そして最後はクソみたいな答えを見つけて走ってしまうんだ。

 馬鹿で正直で口下手で、要領悪くて取り柄なんて体力ぐらいのものだ。



 …だから俺がそばに居てやらなきゃだろう?

 お前のことを止めてやれるのなんて、俺ぐらいしかいないんだし。



 だから…。

 俺はニィッと口の端を持ちあげて笑ってみせた。




「お前は俺を信じてりゃいーの。」




 ハッとそいつが目を見張って息を呑み込むのがわかった。



 …いくら気の知れた関係とはいえ、大分恥ずかしいことを言った。

 言葉にしてしまった後でそれを思い返してして急に頰が熱くなる。



「ま、まぁ、そういう事ッ! ほら、何だよ さっさと言えって。」



 慌ててそう付け足して、顔を背ける。

 しかし、視線を移したその先の車のサイドミラーに俺の真っ赤な顔が映されているではないか。

 くぅ、更にも増して恥ずかしい。



 そう、気の知れた。至る所まで暴いて重なり合った、俺たちだ。

 ずっと隠れつつも寄り添って生きてきたそいつと俺。

 その間には何か信頼と言うか安心というか、そんなような名前のものがあいだにあるから。




 だから…






「実は俺、好きな女ができたんだ。」







 こんな言葉が出てくるなんて夢にも思わなかったのだ…。





 一瞬、何を言われているかわからなかった。

 横に座るそいつを見たまま、固まる。



 はぁ? イキナリ何言ってんのこいつ。空気読めよ。なんか信頼とか愛情とか確認し合ってこれからもよろしくみたいな雰囲気だったじゃん? そういう時にさぁ……そんな冗談、全然笑えない。



 笑えねえよ…、だからこそ、



 だからこそ、タチの悪いそれであってくれと、ざわつく胸で願っていた。



 でも、結局そいつは俺の方を見なかった。

 おれたちの視線は合わなかった。

 望んでた答えは、…返ってこなかった。



 縋るように車のハンドルに顔を伏せて腕で顔を覆う、その表情は読み取れない。

 ただ引きむすんだ唇だけがやけにはっきりと見えた。



 わなわなと震えるそれが、冗談とかそう言うものじゃないと……物語っていたんだ。



「ごめん、洋介…ごめん、ごめん。」



 そいつは泣きながらそう言って、それでも何とか笑顔を作ろうとと口角をひくつかせていた。



 こんな夜だからか、伏せた顔が陰で覆われてそれ以外は見えない。

 頰に伝ったのは涙だろうか汗だろうか。それすらも。

 見えない、見えないままだ。



 凍ってしまった俺の隣で、うわごとのように、懺悔のように、そいつは繰り返す。





 ごめん、洋介ごめん、本当にごめん。許して、許してくれ。お前はずっとそばにいてくれたのに、こんな裏切るような真似してごめん、ぜんぶぜんぶ俺が悪い、でも…。

 ごめん、なんでもするから。俺と…。




 俺と。




「別れてくれ。」




 ばきばきと、耳の奥で何かが壊れる音がした。

 目の前が全部真っ暗になって、呼吸が止まる。



 真っ暗な夜の闇に僅かばかりも拾えないあの日の色が、頭の中で赤い風に攫われた。











 ………………幕間………………







 そのあとのことは、覚えてない。

 そいつの目が最後まで俺を見なかった事だけは、瞼の裏に焼き付いていたけれど。

 それだけだ。記憶にあるのはそれだけ。



 俺はなんて言ったのか、あいつはなんて答えたのか。…それすらも何一つ覚えてない。



 ただ、その日からそいつと会うことはなかったから…。

 多分俺はあいつの言葉を受け入れて、ちゃんとうなずいたんだろう。



 嫌だと袖を引く理由なんて一つもなかった。

 世間から日の目を浴びないこんな関係より、そちらの方がいいに決まってる。




 こうしてその初恋を失って、14年。

 その経験は一度に限らずその次も、その次も似たようなもんだった。

 俺に人を見る目がないのか、運がないのか、わからないくらいにいつも決まってこんな感じだ。



 実は同時に付き合ってる彼女がいたとか、昔いたそれとヨリを戻したとか。



 いざとなって全然ダメで、ホテルに置いてかれた時なんて酷かった。

 泣くことさえしなかったが悔しくて惨めで…。

 どうしようもなくやり場のない、その胸の内をどうやって凌いだかなんて。思い出したくもない記憶だ。



 まあそりゃあ野郎よか女の方がいいわな。

 当たり前だ。それが正常なんだから。

 大体俺はこんな収入も少ないサラリーマンのおっさんだ。秤にかけるまでもない。

 そちらを選ぶことが正しくて。俺の方が間違いで。



 そんな、当然のこと。



 でも俺は本当に…、なんてそんな情けなくてみっともない言葉に意味なんかない。

 だから、咬み殺すしか他にないのだ。

 呑み飲んで、なかったことにする他に…どうしろというんだ。



 少なくとも、俺には何もできない。できなかった。

 逃げることも、許すことも、終わることも、…それを恨む事だって。





 細くて、柔らかくて、正常で、

 そんな理由でいつも俺の大切なもんを奪っていく。



 あーあ、だから…
















 やっぱり女って苦手だ。

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