第6話 少女の熱意

「あー! 書けない! 主人公の、男の気持ちが全然理解できない!」

 ぼやぁとした脳髄に、そんな声が響いた。

 寝ていたのか、気絶していたのか。自分じゃ判別できないが、意識を失っていたことだけはたしかだった。菊池先輩が原稿用紙に向かって大声を出しているのを見て、あれは悪夢だったのかと思ったが、すぐに楽観思考であることに気づいた。

 ソファの足元に、僕の衣類が散乱している。上着、シャツ、ズボン。そして、トランクス。股間は未だに湿っぽく、竿の根本にズキズキとした痛みがある。下腹部はびっくりしたような、締めつけられるような感覚が残っている。あのとき感じた紗耶香の体温も、手首を見たときの恐怖も、全部リアルなものとして覚えているのが、なによりの証拠だった。

 夢であってほしかった。服を拾って着るたびに、視界が滲んでいった。

「真守君! 質問がある!」

「…………」

 僕が大変な目にあっているとき、菊池先輩はなにをしていたのだろう。小説の執筆となると目が入らなくなるのは知っているけども、せめて心配くらいしてくれてもいいじゃないか。意識するまでもなく、僕は抗議の視線を送る。

「泣いている場合じゃない! また執筆が行き詰まってしまったんだ!」

「菊池先輩は、なにも思ってないんですか!」

「えっ……」

「俺、ここで最悪な目にあったんですよ!」

「えっ?」

 紗耶香と出会ってから、さっき起こったことを、菊池先輩に向かって吐き出した。

 初体験は、僕の思い描いていたものにならなかった。趣味の合うような子で、段々仲良くなって、いつの間にか付き合って、ひょんなところから互いの愛を確認したくなって……。一方的に近づかれて、急に恋人ぶられて、急に襲われるなんて、初体験としては最悪じゃないか。

 紗耶香への悪口は、挙げたらキリがなかった。

 思いつく限りの悪態を吐瀉物のごとく撒き散らしていると、菊池先輩が唖然とした表情を浮かべていることに気づいた。そりゃそうだ。自分の家で性犯罪が行われたのだ。僕がなにを喋っても、一切耳に入ってこないだろう。頭を冷やさなくては。

「……すいません。いきなり大きな声出しちゃって」

「…………」

「先輩?」

「……もっと……っ……熱っ…………しな……っ……」

 菊池先輩は僕を見ていなかった。どこでもない、しいて言えば空気中の雑菌でも眺めているような面持ちで、自室へと入っていった。菊池執筆は、執筆時に精神が不安定になることが多い。びっくりさせすぎたのだろう。悪いことしてしまった。

 原稿用紙がテーブルの上で乱れていた。裏になっているもの、テーブルの下に落ちているもの、折れているもの、破れているもの……どういう書き方をしたら、こんなふうになるのか不思議だ。整理整頓しとけと言いたいところだが、さっきのこともあるし、僕が片付けよう。

 そう思って腰を下ろしたときだった。

 ……あれ?

 また、あの匂いだ。

 今度は発生源をすぐに特定できた。床に落ちた原稿用紙。そこに文鎮のごとく居座っている小瓶があった。赤く光を反射するそれは、最初はハートの形をしていると思ったが、手にとって見てみると、りんごをかたどっていることに気づいた。

 嗅いだことのある香りだった。甘酸っぱくて、どこか清涼感を漂わせる、焦げ臭いにおい。

 ……焦げ臭い?

 振り返る。菊池先輩の自室から煙が出ていた。

 なにがあった?

 そう思うと同時に、僕の身体は動いていた。白い壁のなかに埋まった、でっかい板チョコみたいなドアへと向かい、金色のドアノブを回して菊池先輩の自室を開け放つ。

 そこにあったのは、人の形をした炎だった。

「先輩、なにしてるんですか!」

「アァッ……アアァッ…………!」

 菊池先輩は燃えていた。長い髪の毛が火の粉となり、舞い上がって僕の肌に熱を与える。そのたびに強烈な硫黄臭が鼻から入りこみ、思わず両手で顔を覆う。近くにいる僕ですら焼けそうな暑さなのに、菊池先輩は静かに立ち尽くしていた。

「今水を持って――」

「ヤ……メッ……!」

 居間に戻ろうとした瞬間、左腕に焼けるような熱さを感じた。

「マモル……クンッ……!」

 掴まれた腕を離そうとしたけど、力が強くてできなかった。

「ショウセツ……トハ……ナニカ……ワカッタンダ……!」

 今度は両肩を掴んで僕を見つめる。

 生きているのが信じられなかった。全身は焼け、アゴや頬が爛れ、露わになっている骨すらも焦げている。それなのに、瞳だけは炎に負けぬほど、きらびやかに僕を見据えていた。

「ツタエテ……クレッ!」

 両肩にぐっと力を入れられ、押し倒された。

 全身を密着された状態で、一歩も動くことができなかった。身体のあちこちに、じりじりとしたかゆみを感じたと思ったら、段々と刺されるような痛みへと変わっていく。煙が鼻へ口へと侵入し、内臓の全てが出てきてしまうほどの吐き気を感じた。

 熱さに狂ってしまいそうだった。

 咳が止まらない。

 痛い。

 痛い。

 痛い。

《ピー、ピー。火事です。火事です。避難してください》

 …………、

 ……。

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