第5話 少女のお詫び

 紗耶香が帰ってから数時間ほど経って、菊池先輩にチャットを飛ばした。

〈先輩、今家に行っても良いですか?〉

〈ああ、構わないが。様子を見に来るにしては早くないか? まだ三日か四日目だぞ〉

〈ちょっと相談したいことがあって〉

〈なんだ小説のことか?〉

〈いえ、恋愛……というか、異性関係についてですね。女性にしか話せない相談なんです〉

〈なるほど。この間お世話になったしな。夕食後なら来てもいいぞ〉

 紗耶香の異常性について、母に相談してもダメだった。

「それだけ好きってことでしょ? アンタくらいの歳だったらよくあること」

 今までのことをすべて、包み隠さず教えたつもりだが、なぜかこの反応。住所を教えてもいないのにやってくるのを不思議に思っていなかった。それどころか紗耶香をいたく気に入った様子だった。

「私ね、アンタは結婚どころか彼女もできないと思ってた。でも、安心したわ。ひとりぼっちの老後ばかり想像してたけど……本当に良かった。しかもあんな良い子で。アンタ絶対に手放しちゃダメだからね」

 ……だから、菊池先輩に頼るしかなかった。

 夕飯を食べたら、すぐに菊池先輩のところへ向かった。電車に乗って二駅ほど揺られ、十分ほど歩く。きっちり正方形をかたどっているモノクロなマンション。正面の入り口から見て三階右側の明かりがついているのを確認して、僕は敷地内に入った。オシャレでいて、いかにも新築を感じさせる。金をかけているだろうに誰でも出入りできるほどセキュリティが甘いのは、田舎だからだろうか。

 自動ドアをぐぐりぬけ、エレベーターで三階へと向かい、三○一号室の玄関前へと立つ。

 ピンポーン。

 チャイムを押すと、部屋の中からどたばたとした音が聞こえてきた。そういえば行く前に連絡を入れていなかった。夕食後とは言っていたけど、すぐに来るとは思わなかったのかもしれない。ちゃんとチャット飛ばすべきだっ……、

 ドンッ!

「やぁ、真守君! ……って、あれ?」

「いててて……」

「あぁ! すまんすまん! ドアにぶつけてしまったのか。私としたことが」

「いえ、大丈夫です。それより、やけにハイテンションですね」

「とりあえず、なかに入って聞いてくれ!」

 菊池先輩に手招きされて、部屋のなかに入る。

「煮詰まっていた小説が、ようやく書き進められるようになったんだ!」

 廊下を歩いている間も、菊池先輩のハイテンションはとどまるところを知らなかった。

「よかったですね」

「これも真守君のおかげだ!」

「僕の? まぁ、死にかけてたところを助けたりはしましたけど」

「私は感謝しているんだ。そうだ、お礼をしなきゃな」

「お礼というよりも、お詫びでしょう。まだ痛いですからね」

「お詫び……」

 居間へのドアを開けようとしたところで、菊池先輩がぴたりと動きを止めた。

「どうしたんですか?」

「……あぁいや。そういえば今、茶菓子が切れていることを思い出してね。ちょっと買いに行ってくるよ」

「そこまで気を使わなくても良いですよ」

「いやいや、申し訳ない。買いに行く。真守君は居間でくつろいでいてくれ」

 菊池先輩は居間に入るやいなや、キッチンの下でがさごそしていた。

 しかし、だいぶ綺麗だな。この間来た時は、空の弁当箱や菓子パンの袋が散乱していた。ゴキブリが産卵していてもおかしくないくらいのゴミ屋敷だったのに、その名残すらない。同じ六畳間なのに広さが全然違うように感じるし、白を貴重とした壁紙は心なしか輝いて見える。天井についているプロペラ(「シーリングファン」というらしいが、面倒くさいので僕はいつも「プロペラ」と呼んでいる)も景気良く回っている。さすがの菊池先輩も、自分の生活態度を見直しているようだ。これなら、定期的に生存確認をしなくて済むな。

「十五分程度で戻ってくる」

「その荷物はなんですか」

 菊池先輩は肩に、やたら大きなバッグを下げていた。いわゆるボストンバックと呼ばれるそれはぱんぱんに膨らんでいて、丸太のような形をしている。

「あぁ……えーっと、ゴミだ。ついでに捨ててくる」

 菊池先輩はバツの悪い顔をしながらそう告げて、そそくさと部屋から出ていった。

 部屋を綺麗にしてはいるが、面倒くさがり屋な性格は治っていないようだ。今はまだ掃除くらいはしているけれども、またいつ自堕落な部屋に戻るかわからないな。やはり定期的に訪問するべきだろう。

 一人になると、途端に静かになる。僕は相談さえできれば良いのだから、茶菓子なんていらないんだけどなぁ。菊池先輩のハイテンションに圧倒されて忘れかけていたが、相談しに来たのだ。段々と思い出していくにつれて、気分が落ち着かなくなってくる。

 気がつくと、貧乏ゆすりをしている自分がいた。いかんいかん。心が乱れた状態で相談をしても、言いたいことがぶれる。深呼吸でもして落ち着こう。

 鼻から吸って。

 お腹を膨らませて。

 口から出す。

 鼻から吸って……、

 ふいに、甘い酸っぱい香りがしていることに気づいた。

「りんご?」

 辺りを見回すが、果物は見当たらない。

 居間には、何もない。お菓子らしきものもない。あるのはテレビ、ソファ、カーペット、テーブル、そこに積もった原稿用紙とホコリ……。今まで勘違いしていたが、この部屋は綺麗なんじゃなくて、単になにも置かれていないだけだ。雑誌や本すらもない。菊池先輩は僕と同じ作家志望。だから、手の届く位置に本を置いてあるはずなんだ。この間来た時も、僕の部屋以上に本が散らばっていた。

 まぁ、僕が来るということで必死に片付けていただけかもしれない。菊池先輩の自室を覗いたら、ゴミ屋敷だったりするのかも。チャイムを鳴らした時、焦ってたしな。

 そんなことよりも、原稿用紙だ。タイプライターすら使われなくなった現代で、手書きで何を書いているのか気になる。手にとって読んでみると、小説のようだが、なんでパソコンで書かないのかわからない。気分転換なのか、近代の文学作家になりきりたいのか。なんにせよ、珍しいことをする人だ。

 タイトルは『夢の少女』……行き詰まっていた作品のタイトルだ。

 ガチャッ。

 原稿を読もうとしたとき、ドアが開く音がした。

「あ、おかえりなさ――」

 居間のドアを開けて、一直線に伸びる廊下の先。そこにある玄関に向けて声をかける。しかし、先輩を出迎えるはずだった僕の声は、喉が詰まったように中断された。

 そこに立っていたのは、別の人だったからだ。

「こんばんは」

「さ、紗耶香……?」

「えへへ、来ちゃいました」

「え、なんでここが……え、なんでここに……?」

 想定外の来訪者に、思考が停止しかける。

 なぜ、紗耶香がここに来たのか。

 なぜ、紗耶香がここに来れたのか。

 ふたつの疑問が卍固めのように雁字搦めになり、頭を締めつける。現在の状況、情報が飲みこめない。手も足も、目も口も。肺すら動かせなくなった。

 だから、紗耶香が靴を脱いで部屋にあがりこむのも、止めることはできなかった。

「奇遇ですよね。散歩してたら真守さんを見かけたので、来ちゃいました」

 奇遇なんかじゃない。

 そうだ、家に来たときだって、奇遇なんかじゃないんだ。

 はなから後をつけていないと、ありえない現象なんだ。

 ――だから相思相愛になるために、あの日ぶつかったんですよ。

 紗耶香の言葉を思い返す。家だけじゃない。図書館のときだって、もしかしたら曲がり角でぶつかったのも、すべて紗耶香が意図的に接触してきたのではないか?

 気がつくと、紗耶香の顔が目と鼻の先にあった。

 そのまま唇同士が触れようとしていた。背中に冷たいものが走る。それが電流へと変わり、脊髄を震わせる。

 ドンッ!

 我に返ると、紗耶香は尻餅をついていた。

 無意識に伸びた両手を見て、自分が倒したのだということを理解した。

 罪悪感なんか欠片も湧かない。ただ恐怖だけが身を包んでいった。

「どうして……」

 紗耶香の疑問に、なにも答えることができない。荒くなった呼吸を抑えるので精一杯だった。

「あぁ、そっか。照れてるんですよね? 私と真守くんの仲なんですから、遠慮しなくてもいいのに。恥ずかしがらなくてもいいんですよ」

 かかとに、引き戸のレールが当たる。勝手に後ろへと下がっていく足は止まることを知らず、廊下から居間へと身体を引き戻していった。

「その、ここ、他人の家だから、今日、のところは、帰って、くれないかな……?」

「私、邪魔ですか?」

「他人の家、だから……」

「そうなんですか。お詫び、しなきゃですよね」

 立ち上がって近づく紗耶香をどうにか視界から遠ざけたかった。そう思った瞬間に、「ぽふっ」という音ともに、視界が揺らいだ。背中の柔らかい感触を受けながら、目に映るプロペラを見つめる。

 あれ?

 ソファに足を引っかけて転んだと気づくのと同時に、再び紗耶香の顔が目の前に現れる。満月のように丸い電灯が、紗耶香を暗く照らす。影がかかる表情。うっすらと浮かび上がる微笑が、僕をしっかりと捉えた。

 抵抗したくても、さっきのようには押し返すことはできなかった。右手首にいつもつけているはずのシュシュが、今日はつけていなかったからだ。ピンク色の花模様によって隠れていたそこには、シワと呼ぶには苦しすぎるほど無数の傷跡があったからだ。

「じっとしていれば、すぐ終わりますから」

 紗耶香がシャツの下から手を入れてくる。

「お詫びに、はじめてをあげます」

 いらない。そんなのは。

 それでも、拒んだらなにをされるのか怖かった。だからじっとしているしかなかった。

 天井のプロペラがくるくる回る。

 羽が残した残像がだんだん滲んできて、視界がぼやけていく。

 いつの間にか、なにも見えなくなっていった。

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