第3話 脳が生み出す幻想と、幻想が生み出す芸術
【脳が生み出す幻想と、幻想が生み出す芸術(黒酸塊文庫)】
『第三章 前頭前野の損傷・欠損による能力変化の事例』
〈第二章にあった脳の断片図でも触れていたとおり、前頭前野は人格・思考を司る部位である。前頭前野が発達している人間ほど想像力や創造性に富んでいるという説は、一九七○年代に立証された。オーストラリアの脳科学者・デイビスを中心に行われた実験は、前頭前野の研究に大きく貢献し、脳科学だけでなく精神医学にも影響を与えた。現代でも反証となるデータは存在していない。
次の箇条書きが、実験の詳細である。
●先進国から無作為に約三十人ずつ選び、集まった一二○○人を被験者とする。
●被験者全員にIQテストを行い、個室で十二時間のあいだ脳波測定器をつけて生活させる。
●被験者は個室のなかで食事・読書・運動・休憩・実験協力者とボードゲームや雑談を体験。
●規定時間の終了後、被験者は実験の感想や、印象に残った部分を実験者に報告する。
この実験は、人間は一日のどこで頭を回転させているのか、人によって脳の使い方に差異があるのかを調べるために行われたものだ。前述のとおり、IQの高い者ほど前頭前野を働かす割合が多かったのだが、この実験が脳科学・精神医学界隈に多大な影響を与えた理由は、他にもある。
被験者のうち一人の実験結果が、思わぬ成果をあげた。
名前はエディ。職業は画家。ニューヨークのストリート街で生まれ育った黒人男性である。彼は十五歳の頃にギャングの抗争に巻き込まれ、流れ弾を頭に受けた。負傷後すぐに病院に運びこまれて奇跡的に生還したが、脳の前半分を失うこととなった。
前頭前野が除去されているのにも関わらず、エディはユーモア溢れていて、喜怒哀楽が豊かだった。IQは七○程度と平均以下であったが、記憶力が一般人より優れており、十二時間の体験をほぼ全て、克明に説明することができた。脳波測定器によると、記憶を司る海馬が異常なまでに発達していることがわかった。
ボードゲームや雑談など、一般人が前頭前野を働かす場面では、後頭葉や側頭葉といった他の部位を働かせていた。本来は前頭前野が担う役割を、他で代用していたのである。デイビスは追加調査として脳機能障害者や精神疾患者を集めて、前述の実験をベースに能力調査を行った。そして、新しい被験者たちに共通点がみっつあることを発見した。
●新しい被験者にIQテストを行ったところ、九○パーセントが平均以下だった。
●一般生活や、指示された作業をこなすのが難しく感じる等、社会不適合の傾向がある。
●八五パーセントの人間は特定の分野に関して、一般人より早く要領を掴む傾向があった。
この研究結果だけでも十分な発見であったが、デイビスは頭を悩ませていた。「特定の分野」に、一定の法則を見つけることができなかったのだ。エディと同じように前頭前野を失った人間でも、記憶力が低い者や平均程度の者がいた。被験者の生い立ち、人間関係、生活バランスなどを照らし合わせても、共通するものはほとんど見られなかった。
唯一わかったのは、前頭前野を損傷ないし欠損した者に、芸術的才能をもっている傾向があるということだった。被験者に小説・音楽・絵画・映画といった芸術活動を行わせたところ、独特の感性をもった作品が多い傾向にあった。
そのなかでも特に優秀な人間は共通して「神が自分のそばにいる」という感覚が――〉
ふいに、甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。
「真守さん?」
県立図書館の二階で昨日買った本を読んでいたら、誰かに肩を叩かれた。
せっかく昨日買った本を読んでいたのに。これから面白くなろうというところで、僕は栞を挟んで、後ろを振り向く。
「奇遇ですね」
そこにいたのは、昨日出会った少女だった。
「紗耶香……だっけ?」
「はい!」
「本当に奇遇だね。紗耶香も図書館によく来るの?」
「静かだから本に集中したいときは使ってます」
「僕もそうだよ」
「隣の席、いいですか?」
言うやいなや、紗耶香は僕の真横にあるテーブルに手荷物を置き、イスを引いた。
まぁ、隣で本を読んでいる分には迷惑かからないだろうし、別にいいかな。
そう思った矢先だった。
「あ、そうそう。真守さんってこの本読んだことあります? 小説におけるインパーソナルセオリーについて書かれている本なんですけど、あ、インパーソナルセオリーっていうのは日本語に訳すと『没個性論』という意味になるんです。小説って自己表現として書かれがちなんですけど、あえて自分を意識の中心から外して創作することで――」
「あぁ、うん……」
「そこで問題になるのが『そもそも自己表現とはなにか?』についてなんですけど――」
「そうなんだ……」
「私たち人間は唯一無二の思考をもっているようにみえますけど、ものすごく細かく分解していけば、実はどれも似たり寄ったりで――」
「たしかにねぇ……」
「つまりオリジナリティというのは創作原子の集合体という――」
「あ、ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」
「あっ……」と驚きと悲しみが混じった声が聞こえたが、無視して立ち上がる。顔を見ると気持ちが揺らいでしまうだろうから、そのまま目を伏せて足早に図書館の出口へと向かった。
トイレの近くにある自販機で、紙コップのジュースを買う。
「はぁ……きっつい」
トイレなんてのは嘘だ。
ため息が出てしまう。今日は読書に集中したいのに、計画が狂った。図書館だったら静かにしてくれると思っていたが、紗耶香は少々うるさすぎた。
「黙ってりゃ、可愛いんだけどなぁ」
「あの」
「うわぁ! さ、紗耶香!」
独り言を言ってたから、びっくりした。紗耶香に聞かれていないかと心臓がドクドクと脈打つが、少女はそれどころではないといった表情で、僕を見つめていた。
「私、お邪魔ですか?」
「あぁ……ええと……」
上手く言えなかった。読書の邪魔だと思っていたことは確かだからだ。
「私、今日は帰りますね」
「あっ……あうぅん……」
肯定も否定もできず、情けない声を出してしまう。
「私、友達いないんです。ブサイクだし、人との距離感わからないし……。これ以上、真守さんに迷惑かけるわけにはいかないですよね。私、帰りますね」
「ま、待って」
背を向けた紗耶香を呼び止める。このままだと、もう二度と会えない気がしたからだ。
「紗耶香ちゃんは可愛いし明るいし、一緒に居て楽しいよ。また遊ぼう」
なにを言ってるんだ僕は。だんだん顔が熱くなっていく。恥ずかしすぎて消えてなくなりたい気持ちが出てくるも、紗耶香を落ち込ませたくない思いのほうが心を占領していた。だって、少女を困らせてはいけないからだ。
紗耶香は豆鉄砲を喰らったような顔をして、その顔を段々とほころばせていく。
よかった。なんとか機嫌をなおしてもらえたよう――
ちゅっ。
柔らかい感触が、唇に当たる。
「えっ、えへっ。えへへへへへ……。お詫び、です」
急に近づいた紗耶香は、壊れたような笑い方をして、再び距離をとる。
あまりの突然の出来事に、固まってしまった。
ただただ、びっくりした。それ以外の感情は出てこなかった。
甘酸っぱい香りが遠のくのを感じながら、ただじっと立っていた。
結局、その日は読書に身が入らなかった。
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