第2話 紗耶香との出会い

 夏は暑い。ちょっとした用事で外出するのなら、朝に出発して、昼前に戻るのが良い。

 眠い目をこすりながら、新旧入り混じった住宅街の中を歩く。

 いわゆる「田舎」と呼ばれるこの町が、僕は嫌いだ。たしかに駅前に行けば多少は賑やかだし、買い物に困った覚えはない。高校で知り合った友達が「俺の地元なんか、最寄りのコンビニまで徒歩一時間かかる」と言った時は、簡単にワガママを言うもんじゃないと学んだ。

 しかし、僕はどうしても、この町を見ると少しだけ心が痛む。

 新築の二階建てマイホームの横には、誰が住んでいるのかわからない木造建築物が身を潜めている。バイパス沿いに建っていたスーパーやゲームショップは何年も前に潰れ、商店街はシャッターで埋め尽くされている。これでも県内では栄えているほうだ。

 町のあちこちが、壊死している。衰退の痕は段々と広がり続けて、いつか死に至る。きっと、その時は突然訪れるのだろう。父が突然、病に伏せたように。病院生活のなかで突然、亡くなったように。

 僕はまだ十七歳で、食べ盛りの年頃と言われる。しかし、時々だが、自分はもうすぐ死ぬのではないかと思う時がある。テストで満点を取った時だったり、自作小説を先輩に褒められた時だったり、そんな時に、死神の気配を感じるのだ。「成長している」イコール「死に向かっている」という事実だと思えて……かつては栄えていた町が退廃しているのが、僕の未来を暗示している気がしてならないのだ。

 社会情勢のことなんかよく知らないけど、町も人も、働きすぎておかしくなっちゃうんだと思う。目の前ばかり見ていて、横を見なくなってしまう。そればかりか上も後ろも気にせず、ついには前さえも見えなくなっていくんだ。父がそうだった。

 昨日の菊池先輩は、脳裏に焼きついた父と、同じ顔をしていた。

 一週間後とは言ったけど、やっぱり今日も様子を見に行こうかな。

 ……いやいや、昨日の今日なのだ。さすがにお節介すぎるだろう。

 でも、連絡くらいは入れ……

 ドンッ!

 頭に、鈍い衝撃を受けた。

 ずっと見ていたはずのアスファルトはどこかへ消えて、かわりに青空が視界を埋め尽くした。ドサッ、という音とともに、尾てい骨に痛みが走る。

 そして、甘酸っぱい香りが、鼻をくすぐった。

「あだっ、いだだだ……」

 尻もちをつき、額を抑える。

 なにが起きたんだ?

 ぐらつく景色のなか、最初に映ったのは茶色のショートブーツ。黒いタイツ。青のチェックスカート……白ブラウス。首元にはリンゴのチョーカー。清楚系と姫系を融合させたような見た目だが、一際目立ったのは、右手首につけているシュシュ――本来は髪留めに使うもの――だ。ピンク色の花模様で、触り心地の良さそうに「ふわふわ」を体現している。

「す、すいません……」

 視線をどんどん上にあげていって発言者の顔を見た時、こみあげてきた怒りが霧散していった。今にも泣き出しそうな、幼気な少女が、そこにいたからだ。

 背丈は僕より少し小さい程度だから、年齢は大差ないだろう。しかし、顔だけ見るとまた違った感想を抱く。ブラウスに負けないほどの白い小顔と、潤んだ瞳……まるで何かの規律だと言わんばかりに切り揃えられた、ぱっつんロングヘアー。女性とは思えず、女子とも思えず。少女という言葉が、ぴったりはまる見た目だった。

 そんな有害性ゼロ・ロリポップ少女が、今にも割れてしまいそうな勢いで、あたふたしていた。スカートがふわり、ふわりと踊るたびに、リンゴの匂いが波のように押し寄せてくる。

 こんな子から、鈍い衝撃を受けたのか……? という疑問すらも消え失せた。男として、少女を安心させねばならなかった。

「よく見てなかったこっちが悪いよ」

「いえいえ! 私もよそ見をしていたので。どこかおケガは?」

「いやぁ? どこも……」

「おててとか大丈夫ですか?」

 座りこんだまま、右手を地面から引剥してみる。うっすらと血が浮き上がった手のひら。それを見るやいなや、少女は息がかかりそうなまでに近づき、手首を掴んできた。ブラウスから主張するふたつの山々に、僕の指先が触れそうになる。全身の血流が一段と速度を上げた。

「まぁ大変! これじゃ本読みづらいですよね」

 本? なぜに、本?

「とりあえず絆創膏買いに行きましょう!」

 僕の頭上に出現したクエッションマークに気づかないのか、あるいは無視しているのか。とにもかくにも有無を言わさぬ勢いで、手首を強く引っ張ってくる。

 不注意からケガをさせてしまった。だから絆創膏を贈る。至極当然の流れのようでいて、どこか違和感を感じる展開に、なかなか立ち上がる意志が湧かなかった。

 しかし、だ。男は脳髄が止まろうが、筋肉繊維が引きちぎれようが、絶対に動かねばならぬときがある。

「ちょっと、そんなに急かさなくても大丈夫だよ」

「でもぉ……」

「ほら、立った。コンビニだったら、ちょっと先のほうにあるよ」

 少女を、困らせてはいけない。


 商店街の真隣にあるコンビニ。その外にあるベンチに二人で座ることになったのだが、どういうわけか僕はすみっこに追いやられていた。

「んもう、あんまり動かないでくださいよう」

「だって、距離が……」

「距離が?」

「ちょっと、近すぎない?」

「だって、離れてたら絆創膏、貼りづらいじゃないですか」

「僕がもっと手を伸ばせばいい話じゃん」

「私がケガさせたんですから、気を使わせるわけにはいきませんよ」

 むしろ、気を使っちゃうんだけどな。

「はい、これで大丈夫ですよ!」

 手に貼りつけられた絆創膏を見て、少しほっとする。もしかしたらピンク柄だったり、適当なフルーツのイラストが書かれていると思っていた。少女だったら「可愛らしい」の一言で済むかもしれないが、男が身につけていたら格好悪い。なんなら包帯でも巻いてほしいね。強そうに見えるから。

「わわわ。絆創膏から血がにじみ出てますね。痛そうです……」

「大げさだなぁ。大丈夫だって」

「でも、お出かけの邪魔をしちゃいましたよね……」

「本屋へ行くだけだから、そんなに困っちゃいないよ」

「そう、本屋っ!」

 がばっと立ち上がって突然声を張り上げる少女。ベンチの後ろで立ち読みをしていた男性の驚く顔が、ガラス越しに見える。

「あ……私も、本屋さんに用事が、あったんです」

 恥ずかしくなったのか、急にトーンダウンした様子を見て、思わず笑ってしまった。「それなら一緒に行く?」という言葉に、少女は「はい! はい!」と元気よく答える。商店街を通り抜けたところに大型スーパーがあり、そのなかに本屋がある。僕たちは雑談混じりに目的地へと向かうことにした。

 少女の名前は、長坂紗耶香。僕の一個下――十六歳の高校一年生――だ。

「……だから、嬉しくって。つい大声出しちゃいました」

 紗耶香には友達が少ないらしい。趣味は読書なのだが、クラスメイトに本の虫は紗耶香だけらしい。J・POPも知らず、ゲームも知らず。とにかく大衆的な娯楽や嗜好品といったものとは無縁……という話を聞きながら、歩いていた。

 趣味は読書、音楽はジャズやブルース系。「ボサノバはジャズなのか? サンバなのか?」といった話を延々と聞いていたら、なんとなく友達が出来ない理由が理解できた。内容の八割が理解できないうえに、発言の咀嚼をする隙を与えないマシンガントーク。いや、もしかしたら友達がいない分、話す機会があると爆発してしまうのかもしれない。

 なんにせよ、聞いている側としては非常に疲れる。そりゃ僕だって最初は熱心に聞いていたのだが、十分経った今では般若心経とまったく変わらない。

「そもそもですね、ジャマイカ発祥のレゲエも、もとを辿ればジャズがなければ生まれなかったわけです。それならレゲエをジャズの一部として見れるかというと、確かにそう思える曲はある反面、まったくジャズを感じない曲があるのも事実で――」

「あー……、みんな違って、みんないいよね」

「……真守さん」

 紗耶香の声を聞いて、数歩で後ろを振り向く。真顔で立ち止まる紗耶香を見て、脊髄にひんやりとしたものを感じた。

 まずい、テキトーに聞き流していたのを悟られてしまったか――

 その瞬間、胸に衝撃を受けて、身体がよろけた。

「その考え、すごくヒップホップですっ!」

 おおう。さすがに意味がわかんねえ。

 胸元に紗耶香の顔がある。両腕を背中に回してがっちりホールドしている様は、はたから見れば微笑ましかったり、羨ましい光景かもしれない。彼女が出来たことのない男子にとっては夢にまで見る経験をしている……はずなのに、なぜだか気分が盛り上がらなかった。

「ちょ、ちょっと。恥ずかしいから抱きつくなよ」

「あ、すいません。つい」

 紗耶香は抱きつくのはやめたが、離れない。今度は右腕に捕まり、柔らかいものを押しつける。このまま歩けというのか。女の子にくっつかれるのには慣れていないが、僕は世間がいうところの「元気な男の子」なのだ。元気が溜まりすぎて、変な気になるまえに離れてほしい。……嫌とは言えないのが、また恥ずかしい。

 そのまま歩を進めて、目的地へと着く。

 駅前にある百貨店に着き、エスカレーターで三階へ上がる。フロアの約半分が本屋となっていて、他にはオモチャ屋や服屋が並んでいる。食品売場を除けば、この百貨店のなかで一番場所をとっているのは本屋。大抵のものは通販サイトで済ませているが、新書はこの本屋で買うことにしている。だって、買わないと潰れてしまうのだから。

「へー。真守さんは、いつもここで本を買ってるんですね。いいなぁ」

「うーん? そうだけど?」

 ちょっとだけ感心している紗耶香を見て、思わず首を傾げる。たしかに、ここらでは他の追随を許さないほど品揃えは良い。しかし、数年前に潰れたバイパス沿いの本屋のほうが、量も質も圧倒的によかった。そこが潰れたから仕方なしに来ているだけだ。

 紗耶香は、この地区に住んでいないのかな? この町で本屋といったら、駅前の百貨店と相場が決まっている。歳が近いのに見かけた覚えはないから、最近引っ越してきたのかもしれない。夏休み明けはクラスメイトが増えたり減ったりするからな。

 視線を上下左右に動かす紗耶香と一緒に、新書コーナーへと向かう。

「あ、私が欲しかった本がありました」

 平積みされたハードカバーを、紗耶香が指さす。

 タイトルは『脳が生み出す幻想と、幻想が生み出す芸術』……もし目の前に鏡があったら、僕の豆鉄砲を喰らったような顔が映っていたことだろう。だってさ、

「それ、俺も買おうと思ってたんだ」

「本当ですか? うふふ、奇遇ですね」

「まぁ~最近流行ってるしね」

 時は芸術。今は自己表現で生計を立てられる時代となった。

 最近は動画サイトやブログ運営を基盤に、金を稼ぐ人が増えてきた。特に動画サイトでは音楽や映画といったアーティストたちが集まっているし、ドキュメンタリーやネタ動画といったお笑い芸人のようなことをしている人も多い。僕だって今を生きる若者だが、好きなことを仕事にできる可能性が大きい時代だと思う。みんながみんな、個々の芸術を追究しているんだ。

 そんな時代だからこそスポットライトを当てられたのが、一九七○年代の脳科学者・デイビス。様々な芸術作品を脳科学・心理学の観点で、研究し続けた偉人だ。僕らが買おうとしている本は、デイビスが提唱した芸術論の入門書にあたる。

 ちなみに価格は税込みで二七○○円。いくら流行っているからとはいえ、ミーハー精神で買うには少々高すぎる。学生なら尚更だ。僕は小説創作の肥やしにしたいから買うわけだが、もしや紗耶香も……?

「紗耶香って、なにか作ったりしているの?」

「はい。部活動はしてないんですけど、趣味で小説を書いてます。真守さんは?」

「実は僕もなんだ」

「ほ、ほんとですかー!?」

「ちょ、ちょっとちょっと!」

 紗耶香は僕の手を掴み、ぶんぶん振り回す。それに抵抗して右腕に力を入れて紗耶香を止めようとするも、勢いは加速していく。この華奢な身体から、どこにそんなパワーがあるんだ。仕方なしに、顔を思いっきりしかめて痛がっているふうを装うと、ようやく手を離してくれた。痛いのは嘘じゃない。さっきコンクリートにぶつけた部分を思いっきり圧迫されてるから。

「あ、すいません。嬉しくって。小説書いている友達がいなくて……」

「ここ、本屋だから静かにね」

「はい……」

 うつむく紗耶香を見ると、なんだか悪いことをした気になる。普通に注意しただけなんだがなぁ。美人って得だ。だから、フォローしたくなる。

「僕も小説仲間少ないからさ、嬉しいよ」

 紗耶香の頭を軽く撫でる。わしゃわしゃと手を何往復かさせた後に、急に顔が熱くなってきた。なにやってんだ俺は。自分のやっていることを自覚するのに比例して、動かしていた手が段々と硬直してくる。

 このまま続けていると石像になってしまいそうだったので中断し、欲しかった本を手にとって、レジへと向かう。紗耶香がついてくるとか、もうどうでも良かったのだが、後ろから足音が聞こえてきたので、ちょっとだけ安心した。

 会計を済ませて下りエスカレーターに乗っている途中まで、同じ調子だった。お互い一言も交わさず……というか、僕がなにを喋っていいのかわからなかった。

 今更だけど、どこの高校なのかくらい聞いておこうかな。

 そう思った瞬間、肩に柔らかい感触が乗っかってきた。

「今日は色々と迷惑かけちゃって、すいませんでした」

「全然迷惑じゃなかったよ。そこまで気にしなくても大丈夫だから」

「いえいえ、本当にすいません。今日は退散します。このお詫びは、またいつかしますので」

 そうおじぎをして、紗耶香は立ち去っていった。

 今日は……って、また会えるもんなのかな。同じ本を買った仲だし、また会いたいけどさ。

 胸の奥底にしこりができたような気持ちになってきたが、買った本を眺めていたら、そんなものはどこかへ吹き飛んだ。早く家に帰って読もう。

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