ライター少女

クロスグリ

第1話 夢とは呪い

 本当に死んでいると思った。

 だって、うつ伏せに倒れて、びくともしていなかったのだから。

 菊池先輩――本名、菊池瑞希――の手首を掴んで脈拍を測る。どうやらまだ息をしているようだった。

 急いで救急車を呼べばまだ間にあ――、

「あぁ、真守君か。おはよう」

 ついさっきまで死体のごとく横たわっていた人物から、のんきな声が聞こえてきた。


「真守君、私はもうダメかもしれない……」

 乱雑にまとめられたポニーテール――誇張じゃなく、馬の尻尾に匹敵する長さ――が、蛍光灯の光を反射しながら揺らめく。

 夏休みが始まって数日。たったそれだけの時間で菊池先輩は、作家志望特有の病に悩まされていた。青白い顔は痩せこけていて、新手の化粧かと思うほど、目の隈が酷かった。

 ずっと自宅マンションから出ず、パソコンとワードソフトはつけっぱ……睡眠時間はゼロ。その小説にかける狂気は見ていて背筋が冷える思いだが、僕は文芸の道を志す後輩として、妙に惹かれるものがあった。実際、先輩が書く短編小説は高校三年生の技量とは思えないほど、綺麗だ。

 しかし、そんな菊池先輩にも弱点がある。長編小説を書けないのだ。今まで書いた小説は最大で二万文字。本人もそれを気に病み、夏休み中に十万文字の小説を書くのを目標に……いや、「出来なかったら死ぬ」とまで公言した。

 そして夏休みが始まり、飲まず食わずで文字通り死にかけていた菊池先輩を、僕が介抱しているというわけだ。最初はチャットアプリに既読マークがつかないのを少し気にしていただけだったが、菊池先輩の両親が不在であることを思い出し、嫌な予感がして駆けつけた。何度インターホンを鳴らしても出ないので近隣の住人を通して管理人に連絡し、なんとか救出できた。台所には調味料しかなかったので、コンビニで弁当を買って食べさせて、現在に至る。

「恋愛が……書けない」

「うーん、恋愛って女性のほうが得意な印象がありますけど」

「……それじゃ、真守君は私の作品を見て、どう思った?」

「まぁ、ちょっと不自然ですよね」

「だろ!? それじゃダメなんだよ!」

「そんなこと言われても……参考資料を増やしてみては?」

「そういう問題じゃない。私自身が恋愛を経験できていないのが原因なんだ」

「ってなると、恋愛をするしかないじゃないですか」

「なんだ真守君。協力してくれるのか?」

「いやぁ、恋愛は取材目的でやるものではないと思いますが……」

「じゃあどうすればいいんだ!」

「もう想像で書くしかないのでは?」

「それは私の主義に反する。いいか、良いキャラクターなくして良い小説はありえない。良いキャラクターを書くには、緻密な心理描写が必要不可欠だ。自分が動かすキャラクター一人ひとりの役に入りきって書かなきゃいけないんだよ。物書きも一人の役者なんだ!」

「役に入りきって、戻れなくなっても知りませんよ」

「作家として当然のリスクだろう。私は、あの日から普通を捨てた」

 菊池先輩は小学生の頃、街の文学コンクールで金賞を受賞した。ジュニア部門ではあったが選考員からの反響は凄まじかったようで、現役プロの作家から「高校生よりすごい」と言わしめた。その日以降、クラスメイトや教師から一目置かれるようになり、家族も、親戚も……誰もかもが、菊池先輩が将来小説家になるものだろうと期待を寄せはじめた。

 それは本人も同じだった。好きなものを仕事に出来るのなら、これ以上の幸せはない……いかに小説を愛しているのかを、毎日のように語っていた。まるで、何かに呪われたかのように。

 そんな先輩を、僕は放っておけなかった。

「もうこんな時間か。どうする? 泊まっていくかい?」

「取材対象にはなりたくないんですけど」

「ふふ、冗談だよ。玄関まで見送ろう」

 菊池先輩が部屋から出ようとしたので、立ち上がる。ふと、部屋の隅に石油ストーブが置いてあるのを見つけた。

「ストーブ?」

「ん、どうかしたか?」

「なんで夏なのにストーブを置いてるんですか? 寒がりでしたっけ?」

「あぁ、火が見たくてね。気が滅入った時に、ストーブに火を灯すんだ。めらめら燃える炎、肌に染みこむ熱……私の心にも、火がつくような気がしてくるんだ」

「アロマキャンドルじゃダメなんですか?」

「火は大きい方が良いに決まっているだろう。執筆中はいつも最大火力にしているから、かなり健康に悪いが」

「真夏にそんなことをすれば、誰だって倒れますよ。っていうか、いつも長袖だし」

「長袖は私のポリシーだ」

 外に出ると、太陽は山の向こう側に飲みこまれているところだった。空は深みを増して、夜の準備を始めている。藍色の雲に朱色が混じって、まるで巨大な炎のようだった。

「夏休み中はずっと一人なんですか?」

 菊池先輩の両親は現在、父方の実家で過ごしているらしい。来年から大学生活を向かえるのだから、今のうちに慣れておきたい……と菊池先輩は交渉し、ひとり暮らしをすることになった。最初は難色を示していた両親も、一ヶ月間も毎日のように土下座されては、渋々出ていくしかなかった。もちろん、ひとり暮らしの予行演習というのは建前だ。菊池先輩はただ、誰にも邪魔されずに小説を書く時間が欲しかっただけだ。

「うん。料理とか洗濯とか、今まで親に任せていたものを日常的にこなすのは、意外と面倒だと痛感している」

「そもそも、ちゃんと家事はできているんですか?」

「できていないから、こんな事態に陥ったんだ」

「ちゃんとやってくださいよ……。僕だって心配するんですから」

「なら、定期的に様子を見に来きてくれないか? 私自身も不安だ」

「まぁ、たまにならいいですけど……。菊池先輩の両親に見つかったら大変なことになりませんか?」

「私が男を連れこむなんて夢にも思わないだろう。可愛げがないからな」

 たしかに菊池先輩は地味な顔だ。化粧は校則違反なのだけど、ほとんどの女子がバレないようにメイクしている。菊池先輩は見た目の時点で周囲から浮きがちなのだが、その様子を母親は黙っていられない。化粧のしかたを教えようとするも、菊池先輩はいつも「メリットがない」と一蹴しているとのことだ。

「まぁ、バレたらバレたで、その時考えればいいさ」

「恋人同士じゃないって、わかってもらえるのに骨が折れそうですけどね」

「まぁ……そうだな……」

 菊池先輩は気の抜けた返事がしつつ、明後日の方向を見つめていた。

「どうしたんですか?」

「いやぁ、月が綺麗だな……と思ってね」

「本当だ。満月ですね」

「…………」

 菊池先輩は満月を仰ぎ続ける。とろんとした目で虚空を見つめている様は、今にも融けて蒸発するのではないかと、こちらを心配させる。やはり一泊するべきか悩んでいると、菊池先輩は「アッ」と身体を震わせ、僕の方に視線を向けた。

「すまん。少しぼーっとしてた」

「もう……大丈夫ですか? 同年代の女性を介護とか、二度とやりたくないですよ」

「大丈夫大丈夫。今日はありがとう。次はいつ会えるかな?」

「そうですねぇ。明日は欲しい本がありますし、しばらくはそれを読みたいので、一週間くらい先ですかね」

「なるほど。それじゃあ今度は、本の感想でも聞かせてもらおうかな」

「その時はお詫びを用意してほしいですね。結構疲れたんですよ」

「お詫び……」

「ははは、冗談ですよ。気にしなくても大丈夫です。小説のネタにしますから」

 菊池先輩に背を向け、右手を上げながら別れを告げる。


 自宅までそう遠くはない。電車に乗って二駅ほど移動し、駅前の商店街を抜けて、住宅街の狭い道を十分ほど歩けば、我が家の屋根が見えてくる。

「ただいま」

「ちょっと、どこ行ってたの。遅くなるなら連絡くらい入れてちょうだいね」

 母さんが少し不機嫌そうな声で出迎える。心配だったら、そちらから電話をよこせば良いのに。

「ごめん。部活動のことで先輩の家に行ってて。思いの外、時間を食っちゃった」

 ちっとも申し訳なさそうな態度で返事し、玄関で靴を脱ぐ。ふと、焼けたコーヒーのような匂いが鼻腔を刺激した。煙たいのは焙煎に失敗したから……と、この匂いをはじめて嗅いだ人なら思うだろう。

「線香」

「ああ。お父さんにあげてたの。寂しそうだったから」

 腫れぼったくなった目で、母は微笑む。寂しかったのはどっちなんだか。

「もうやめたら? コーヒーの匂いがする線香って、なんだか気分が悪くなる」

「でも、お父さんはコーヒーが好きだったから」

「そうでもなかったと思うけどな」

「なに言ってるの。毎日一リットルくらい飲んでたじゃない。家で仕事をする時はいつもそうだったでしょ?」

「それは好きとは言わないだろ……」

「好きじゃなかったら、あんなに沢山飲まないわよ。身体壊すくらいなんだから」

「父さんが死んだの、本当にコーヒーのせいだと思ってるのか?」

「お医者さんが、そう言ってたでしょ?」

「…………」

 父さんの話をすると、いつも変な空気になってしまう。大抵は僕が「お前は父さんのことをなにも分かってない!」と大声を出して終わるのだが、怒るのも嫌だったので早々と話題を変えることにする。

「明日は朝から本屋に行くよ」

「そう。なら少し渡しておくわね」

「お小遣いが残ってるから、それで買うよ」

「いいのいいの。真守は良い大学に行って、良い仕事に就くんだから。そのための投資を惜しんじゃダメでしょ。ちょっとお財布取りに行ってくるわね」

「お金、あんまり余裕ないんだろ?」

「スーパーで余計なものを沢山カートに入れちゃうくらいの余裕はあるわよ。そうそう、真守の好きな、りんごのドライフルーツ買っておいたから」

 母さんは背を向けて、二階へと向かっていった。

 ……「小説家になること以外は興味ない」ってバレたら、卒倒しそうだな。

 台所にあったドライフルーツを持って自室に戻り、動画サイトを巡回して一日が終わった。

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