第8話
「ボウズ、気が立っておるな」
サンドバッグを叩くオレを見て師匠は言った。が、無視してサンドバッグを叩き続けた。キハチとみさに会うまで時間があったので、オレは道場に来た。とにかく、無心になるまでサンドバッグを叩いて、この腐った気持ちを何とかしたかった。
「昔の人はよくこう言ったもんだよ。『若者よ、ハンバーグはひき肉料理の王貞治』だってな」
「おい、ジジイ。お前は今、いったいオレに何を伝えようとしたんだ? ハンバーグが福岡ダイエーホークスってことか。日ハムだろ、どっちかといったら」
ついついサンドバッグを叩く手を止めた。
「殺気立つ若者には、偉人の名言の一つでも教えてやりたくなるもんさ」
おどける師匠を見て、なんだかバカらしくなってしまった。オレは大きくため息を一つした。
「師匠。親って言うのは、子供が可愛いもんじゃないのかよ」
師匠はサンドバッグの横にあるお気に入りの樫の木でできた椅子に座ると大きな目でオレを見た。
「すべての親が、自分の子供が可愛いというわけではないのかもしれんな」
「そうなのか」
「そうじゃ。親になるということは、子供が生まれれば勝手になるもんじゃない。親とてただの人間だ。子供はどんな親だろうと育つ。しかし、親が本当の親になるためには、子供と向き合わねばならん。親の中にも、自分のことしか考えられん人間もおるのだ。人間は環境と状況に合わせて自分を変えていかねばならん。何も変化しないということは、緩やかな死だ。一度止まると、人間はなかなか変化できなくなる。動かぬことは楽だからな。楽な方に流れるのは人間の業だ。しかし、業を克服することも、人間の営みの一つだ。業に対する行い一つで、人間は鬼にも仏にもなる」
頭の中に、絵美のおばさんが襲いかかってきたときの顔が浮かんだ。あれは鬼の顔だ。
「ボウズは何のために強くなる? 強いとはなんじゃ? 相手より早く動き、相手より強く叩けば、強いということになるか?」
師匠はオレの目を見た。オレは首を振った。
「そうだろう。武道とは前進するときに、大切な何かを決断するときに、後悔しないために行う訓練だよ」
オレは黙ってうなずいた。師匠は立ち上がると、近くにあった竹刀をもってサンドバッグをバンバンと叩いた。
「さて、ボウズ。虚空三段蹴りの稽古だ。目に見えるものにとらわれすぎるな。目を閉じて、心の目でこの竹刀を感じるのだ」
オレはゆっくり目を閉じて、竹刀の気配に全神経を集中した。今なら心の目で見れる気がした。と、思った瞬間、左ほほに鋭い衝撃が走った。
「いってー」
いきなり顔面を竹刀で叩かれて、倒れこんだ。目の前がチカチカする。
「できるわけないだろ、こんなの。目を開けてたってできないんだから」
「いやぁ、なんか、この流れで目を閉じてみたらすごい才能を発揮して、いきなりできたりするかなと思って。若い力って、すごいっていうじゃん、テレビとかで」
「若い力って、そういうのじゃないよね、絶対」
「ってかさ、なんでできないのかな。虚空三段蹴り。わしは昔できたのに……」
「あ、今、ウソついたでしょ。絶対できなかったよね、昔も今も」
「ウソじゃないもん。昔はできたんだもん!」
結局、虚空三段蹴りができるようになる気配はまだ見えてはいない。
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