第7話

「それにしても自転車というには、すこぶる便利じゃの」

 翌日。学校の帰りにライオネスを捕獲すると絵美の家に向かった。ライオネスは自転車のカゴに乗りながら風を切っている。

「あんまり身を乗り出すなよ。曲がるぞ。落ちるなよ」

「のあぁぁぁ」

 急カーブの下り坂にライオネスは、おおよそネコとは思えない叫び声をあげた。すごい格好で踏ん張っているが、なんだか楽しんでいるようにも見える。

 絵美の住んでいた県営団地は、オレの家から自転車で十分ぐらいのところにある。五階建ての鉄格子のついた戦艦のような、重苦しい建物が三十棟以上ある。ずいぶん昔からあるみたいで、物心がついたときにはすでに古い団地だった。

「B-9の403号室だな」

 みさから教えてもらった部屋へ行くと、表札はなく部屋番号の下には「柳田」とマジックで書いてある。たしか絵美の家は母子家庭だったはずだ。兄弟がいるのかはわからないけど、おばさんはきっとショックを受けているだろう。

 一つ大きく深呼吸をした。これから、遺書を渡すと思うと、どうしても気が重くなる。

「どうしたのじゃ」

「まったく、いやな役目だよな、これ。キハチにはめられたぜ。そういえば……」

 思い出したのでライオネスに釘を刺した。

「絵美のおばさんの前では絶対にしゃべるなよ。趣旨がわからなくなるからな」

「大丈夫じゃよ。吾輩は口が堅いで有名じゃ」

 そういうことじゃないんだけどな。まぁ、いいや。

 インターホンを押して、しばらくすると扉が開いた。

「あんた、誰?」

 かなり明るめに脱色された茶髪で、疲れた顔のおばさんが顔を出した。下着のようなキャミソールにカーディガンを羽織って、目の下には強くクマが入っている。おばさんからは香水とお酒の匂いがする。南国の果物が少し悪くなったような、ムッと甘ったるい嫌な臭いだ。葬式の時に見た人とはまるで別人だった。

「あの、絵美さんと同じクラスのものですが」

「帰って」

 絵美のおばさんが玄関を閉めようとしたから、あわててオレは隙間に右足を突っ込んだ。

「ちょっと待ってください。絵美さんの遺書があるんですよ」

「何するのよ。そんなのあるわけないでしょ」

「これです。ちょっと見てください」

 オレは強引に、手紙を絵美のおばさんに渡した。おばさんはドアの向こうで遺書を読んだ。

「これ、」

 おばさんは震えながら言った。

「どこにあったのよ」

「これは、このネコが持ってきたんですよ」

 オレはライオネスを抱えるとおばさんに見せた。

「にゃあ」

 ライオネスは猫らしく鳴いてみせた。

 おばさんはうつむいて肩を震わせた。あまりのことに悲しくなったんだろう。そりゃそうだろう。と、思ったその時、おばさんは近くにあった傘をつかむと大きく振りかぶった。

 やばい。

 玄関から右足をひいて半身をひねった。傘はオレのわきをて地面を叩いた。バキっと大きな音がして、傘が大きく曲がった。その音に、手の中にいたライオネスがビクッと震えた。

「あのバカ娘! 死んだだけでも迷惑なのに、こんな遺書なんて残しやがって。私にどれだけ迷惑かければ気が済むのよ!」

 なんか、思ってたのと、反応違くね? おばさんはこっちを睨むと言葉をつづけた。

「やっぱり絵美はバカ男の子だわ。あんなのいなけりゃ、私はもっと自由だったし、こんな薄暗い団地に住まなくてもよかったし、こんな気持ちを、味わわなくても、良かっただろうしぃ!」

 おばさんは叫びながら、もう一度傘を振り上げて殴りかかってくる。マジかよ。気が狂ってるぜ、この人。もう一歩下がろうと身を引くと、背中が壁に当たった。しかたない。オレはライオネスを踊り場に放り投げた。振り下ろされる傘を右手の甲で受け流すと、態勢を崩したおばさんのみぞおちに右ひざを軽くあてた。ウグッ、と唸っておばさんはひざまづいた。

「ババア。逆上してんじゃねぇぞ」

 ライオネスは踊り場に無事着地したようだ。びっくりした顔でこちらを見ている。黒目がいっぱいまで大きくなっている。

「あんたがどんだけ苦労したのかしらないけど、そんなんだから絵美が自殺したんじゃないのか? さっきから、あんた自分の話ばっかりしてるだろ」

 軽くだが、キッチリみぞおちに入れたので、おばさんは息ができないだろう。ちらっとこちらを見たが、そのまま咳き込んだ。

「苦しいだろ。でもな、絵美はたぶん、それ以上苦しかったんだろうよ」

 オレがそう言うと、おばさんは憎憎しげに顔を上げて言った。

「あんたに何がわかるっていうのよ」

「あぁ、何にもわかんねぇよ。オレは絵美でもないし、あんたでもない。何もわかんない。けど、あんたがクズだってことぐらいはわかるぜ」

 絵美のおばさんの隣に落ちていた遺書を拾うと、オレは続けた。

「あんたと絵美の間に何があったのか知らないけど、娘にそりゃないぜ。親だろ、あんた」

 オレは踊り場のライオネスを抱えると階段を駆け下りた。

 体中が粟立つようにイガイガした。テレビの中にしかないと思っていた腐った世界が、こんな近くに存在していると思うと吐き気がした。右ひざにおばさんの感触がまだ残っている。そこからオレも腐り始めている気がした。最低な気分だ。

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