第2話

「おーす、師匠」

「ミスター・ミヤギと呼べ、ボウズ!」

 勢いよく道場の扉を開くと、青い道着に赤帯をまいた小さいじいさんが、大きな目を見開いて叫んだ。

 この小さいじいさんはオレの空手の師匠、御年七十五歳の宮城鉄郎みやぎてつろうだ。孫のユーヤに三戦さんちんの型を教えているところのようだ。

 空手道宮城道場は沖縄剛柔流おきなわごうじゅうりゅう空手道の流れをくむ道場だ。師匠が四十年前に始めた。弟子は今、オレと孫のユーヤ六歳の二人しかない。師匠は世間に影響を受けやすい性格らしく、『空手バカ一代』という漫画が流行れば流派を極真空手にしたり、『ベストキッド』という映画が流行れば、たまたま同じ苗字の人物が出ていたので、自分のことを「ミスター・ミヤギ」と呼ぶことを弟子に強要させたり。

 そんなことが続いたので、愛想をつかせた弟子はどんどんやめていったらしい。空手自体はかなりの実力だったと言っていたが、まぁ、それも自分で言っていたので本当かどうかは怪しいもんだ。そんな適当さを、オレは嫌いではないけど。

 師匠との出会いは、小学五年の時。公園でスカウトされた。キックベースをやっていたオレの腕を捕まえて、師匠はこう言った。

「強くなりたくないか。ボウズ」

「ちょうど、そう思っていたところだよ。じいさん」

 とっさにオレはそう答えてしまった。師匠は言った。

「わしのすべてを伝えられる逸材を、ついに見つけたよ」

 その日以来、オレは週に二回宮城道場へ通うことになった。同じ時期にあと二人、オレと同じようにだまされたであろう小学生がいたけど、親に止められてすぐやめた。

 中学二年の時には、もともといた高校生の先輩が受験でやめたので、ついに弟子がオレ一人になった。さすがにこんな状況じゃ、師匠が道場を閉めると言い出すであろうと思ってこちらからやめると言わずに待っていたら、なにもないまま三年が過ぎてしまった。いまだに道場が閉まる気配はない。一応、去年に初段をもらって今は黒帯だ。師匠は、空手は段位じゃない、と言っている。オレもそうだと思っている。

「ボウズ、ちょっと来い」

「どうしたんですか? 赤帯なんか締めちゃって」

 師匠は普段、稽古の時は黒帯を締める。赤帯を締めるのは大会とかオフィシャルな場所だけだ。

「今年でお前も十五の年だろう」

「いや、もう十六歳です」

「え、そうなの」

「春で高校に入学して、夏で十六歳になって、今は秋です」

「うーむ。時が経つのは早いな。予定が狂った。本来なら、元服の時に教える予定だったのだ」

「何するつもりなんですか、いったい」

「そろそろお前も元服だ。ついに宮城流の奥義を教えてやる。と、言う予定だったんだよ」

 師匠は遠くの方を見つめながら言った。遠くといっても、道場の壁だけど。

「なんっすか、それ」

「いいか、わが宮城流には古流柔術に流れを基にした奥義があるのだ」

「古流柔術!」

柳生心眼流兵術やぎゅうしんがんりゅうへいほう。かの合気道の開祖、植芝盛平うえしばもりへいも学んだとされている」

「柳生心眼流兵術!」

「ついに、ボウズに教えるときが来たのだ」

 師匠はひと呼吸置くと、力強く言った。

「技の名は、虚空三段蹴り《こくうさんだんげり》!」

「虚空三段蹴り!」

 ウサンクサイ。かぎりなくウサンクサイ。しかし、オレの血は俄然たぎった。

 師匠から虚空三段蹴りの説明があった。虚空三段蹴りは、いわゆる交差法、カウンターで、相手の回し蹴りを左跳び蹴りでいなした後に、右回し蹴りと右前蹴りをくらわすという、とてつもない技だった。普通に考えたら、地に足が着いていない状態、つまり踏ん張れない状態では威力が半減するにきまってる。

「そう思うだろう、しかし、右回し蹴りはこめかみに、右前蹴りはみぞおちに決めることによって半減した威力でも相手に致命傷を与えることができるのだ」

「師匠、それできたの?」

「あぁ、できたさ。遠い昔のことだがな。進駐軍に毎晩ケリをくらわせてやったもんさ」

「師匠、前も言ったけどね、今七十五歳だから、終戦の時に五歳なの。無理だからね、アメリカ兵にケリくらわすの」

「ウソじゃないもん! できたんだもん!」

 これ以上、師匠とじゃれあっていても仕方ない。師匠は近くにあった踏み台に乗って背伸びをすると、サンドバックの右上、ちょうど大人のこめかみあたりと、サンドバッグのど真ん中、みぞおちあたりにビニールテープをバツの字に張り付けた。

「よいか、今からわしがこのサンドバッグの横から回し蹴りに見立てて、竹刀でボウズを打つ。ボウズは左跳び蹴りで竹刀をいなして、右回し蹴りで上のバッテンを蹴り、同じ右足で駆け上がるように真ん中のバッテンを蹴るのだ」

 オレはうなずくと、猫足立ちの構えをとった。師匠が振りかぶると、オレは飛び上がって、左回し蹴りで竹刀をいなす。よし、このまま右回し蹴り、っておい、絶対無理だよ、こんな体勢から。オレの右回し蹴りは目標だいぶ下をポスっと軽い音を立てて叩いた。

「無理だ、こんなの絶対」

「無理じゃないもん! できたんだもん!」

「うそつけ、絶対無理だよ、これ。どうせまた、どっかで漫画かカンフー映画に影響受けたんだろ、ジジイ!」

 オレがどんなに反抗したところで、師匠がいったんやると決めたらできるようになるまで終わらない。それから、みっちり二時間もひたすら虚空三段蹴りの稽古をした。絶対やめてやるからな、こんな道場。

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