第2話

 その後、いくつかの議題が話し合われ、天使達の会議は終わった。

 誰からとも無く、天使たちは広間を出て行った。ひそひそと囁き交わす、言葉ではない何かが、耳の奥に触れては流れ去っていくのが感じられる。人々が聖楼城(せいろうじょう)と呼ぶ、この正神殿には、つねに、神殿種たちが囁き合う静かな気配が満ちている。

 気を引き締めて、心を閉じていないと、翼は飛び交う声を無制限に拾い集めてしまう。神殿種の証でもある、背中の翼は、なにかと便利なものでもあるが、制御するのには骨の折れる代物だ。

 生まれた時からの付き合いである、この寄生生物に手を焼いているのは、どうやらシュレーだけのようだった。純血の神殿種たちは、翼を手なずける苦労というものと無縁らしい。これも、血の薄い自分ならではのことだろう。

 シュレーは広間の天井を見上げた。本物の空かと錯覚するほどの高さに、星空を模した天井画が描かれた丸天井が見える。月明かりで青ざめた群雲(むらくも)の合間に、白く輝く星々が瞬いている。

 それは、ただの絵であるはずだが、ほんとうに瞬いているように見えた。

 シュレーが生まれるはるか以前から、この広間を飾っていた絵だというが、どうやって描かれたのか、見当もつかない。いつ見ても、不思議なものだ。

 シュレーは謎めいた天井画を、ぼんやりと見上げた。そこはかとなく気だるい。

「野育ちのお前には、夜空が懐かしかろう」

 呼びかけられて、我に返り、シュレーは広間に目を戻した。灯りの落ちかけた広間には、誰もおらず、戸口に立っているノルティエ・デュアスがこちらを見ているだけだった。

 白羽の杖を肩に凭せ掛け、ゆるく腕組みした姿で、ノルティエ・デュアスは黄金で飾られた大扉に背中をあずけている。どことなく煤(すす)けた黄金の扉には、創生神話の物語を題材にした浮き彫りが、桝目ごとに筋書きを追う形で彫り込まれていた。ちょうどノルティエ・デュアスの肩口に、二つの卵を抱いている竜(ドラグーン)がいるのを、シュレーは遠目に眺めた。

「エルフ四部族の争乱調停は、いかがですか」

「あの者たちは、数を頼みにして、忠誠に欠ける。やはり滅ぼすべきだったのだ」

 ノルティエ・デュアスは、さらりと応えた。その言葉尻に、過去の出来事を仄めかす何かがあるのを感じて、シュレーは眉をひそめた。

「あなたは呪いがお好きだ、ディア・フロンティエーナ・ノルティエ・デュアス」

「お前のように、下民に垂れる慈悲はない。あれは我々によって生み出された被造物にすぎない。生かすも殺すも、我々の自由だ」

「我々の自由、ではなく、あなたは自分の自由にしたがっているのではないのですか」

 皮肉のつもりはなく、本心からシュレーは言った。

「……同じことだ。私は神殿種のために働いている。私が良かれと思うことを行えば、皆もその恩恵を受ける」

 じわりと笑って、ノルティエ・デュアスはシュレーの視線をやすやすと受けとめた。

「ブラン・アムリネス」

 ノルティエ・デュアスの翼が放つ囁き声が、シュレーの耳元にまとわりついた。

「お前はその名に相応しくない。本当にブラン・アムリネスの転生体なのか。お前は、ブラン・アムリネスの記憶を持っているのか。私の知るお前は、今のお前とは別人だ。皆は疑っている。お前は、我々の弟ではないのではないかと」

「……偽者だと? だったら、どうだというのです。さっさと本物のブラン・アムリネスを探したほうがいいのではないですか。私には、民に与える慈悲もない。あなたは、邪魔者もなく、次々とお好きなように大陸の部族を滅ぼせるというわけだ。そうして力を振りかざしてみても、民がいなければ神殿種も生きられないでしょう。あなたがやっているのは、自殺と同じことだ。それと知りつつやっておられるなら、お好きにどうぞ」

 シュレーは、聖楼城に似つかわしくない大声で応えた。沈黙の支配するこの城では、大声で喚く事も珍しい。ノルティエ・デュアスが驚いて目を見張るのがわかった。

「……無作法だぞ」

 押し殺した囁き声が、シュレーの耳に届いた。ノルティエ・デュアスが、動揺して翼を振るわせる羽音が混ざっているような気がした。

「エルフ四部族も滅ぼされるおつもりか」

「私はそれを推していた。だが、大神官台下が反対なさったのだ。命拾いをしたな、ブラン・アムリネス」

「どういう意味か、わかりかねる」

「エルフどもを滅ぼすための呪いを解き放てば、その血を受けたお前も、無事では済むまい。台下は、そのご懸念のためだけに、エルフ四部族の絶滅に反対なさっていたのだ」

「…………」

 シュレーは言葉を失った。それを祖父の情愛と受けとっていいのか、分からなかったからだ。そうなのかもしれないと思っていた時期もあった。この世界にたったひとりの肉親として、自分のことを見守ってくれているのだと。だが、そう思って頼るには、祖父はあまりにシュレーに無関心だった。

「つくづくお前はあの部族を愛しているようだ。お前が創造したのだから、思い入れがあるのは分かるが、身を盾に庇うほどの見所が、いったいどこにある?」

 シュレーは、ノルティエ・デュアスの言葉に、一瞬、唖然とした。

 エルフ族を創造したのが、ブラン・アムリネスだなどと、そんな話は聞いたことがない。創生神話では、全ての部族は二つの卵から生まれたと伝えられている。大陸の部族である以上、エルフ諸族もそのはずだ。

 そんなことを信じていたわけではないが、神殿の天使が、特定の部族を創造したという話は、俄かには受け容れがたい話だった。

「皆はお前が偽者だと疑っているようだが、私は違う」

 ゆっくりと、ノルティエ・デュアスは体を起こし、広間の薄闇を渡って、シュレーのほうへ歩み寄ってきた。

「お前はいかにもブラン・アムリネスだ。今も昔も同じように、やり様が汚い。身を盾に庇うのはお前の心が優しいからではなく、計算高いからだ。そうすれば我々が退くと読んでいる」

 一、二歩先で歩みをとめて、ノルティエ・デュアスはシュレーと向き合った。長身のノルティエ・デュアスと睨み合うと、まるで頭上から見下ろされるような感じがした。

「我々が一目置いているのは、お前自身の価値にではない。この頭の中に眠っている、ブラン・アムリネスの秘密のためだ。それを手に入れるまでは、お前を見限ることができない」

 白羽の杖の先で、ノルティエ・デュアスはシュレーの僧冠を叩き落した。磨かれた大理石の床を転がって行く僧冠を見送ってから、シュレーはもう一度、ノルティエ・デュアスの灰色の目を見上げた。

「秘密など知らない」

「……嘘をつくな。お前は知っている。思い出せないでいるのは、お前が、血の濁った出来そこないだからだ」

 ノルティエ・デュアスの顔は、鋼鉄でできた仮面のようだった。僧形で絢爛豪華に飾られ、薄闇のなかに青白く架かっている。ノルティエ・デュアスは、見下すというより、シュレーを対等の生き物として見ていないように思えた。

 神殿種の、支配民に対する感情には、命も心も持たない無機物でも眺めるような、ひどく冷めた気配がある。彼らの心の中には、支配民を蔑む気持ちは存在しない。忌み嫌っているのではなく、自分たちより遥かに下等であると確信していて、彼らの言葉に真面目に取り合う気にもならず、幸福を願ってやる考えもないというほうが近い。

 ノルティエ・デュアスをはじめとする、天使たちがシュレーを嫌うのは、彼らの守ってきた神聖な血筋が、そんな取るに足らない生き物の血と交わってしまったという異形さ、不完全なものに対する嫌悪感に他ならない。

 シュレーの顔を見おろすノルティエ・デュアスは、鳥かごの中で飼われている、めずらしい鳥でも覗きこむような表情だ。人ではないものが、なぜ自分と同じ言葉を話すことができるのかと、いぶかしむような目つき。

 シュレーは右手に携えた杖で、目の前の天使を殴り倒したいような衝動を感じた。

「あなたは、ノルティエ・デュアスの記憶を持っているとでも? 本当に? 何百年も前に死んだという、本当に存在したのかどうかも分からないような者の記憶を?」

 思わず口走ってから、シュレーはしまったと思った。無意識に一歩退いて、シュレーはノルティエ・デュアスの無表情な顔を睨んだ。教義への反抗には厳罰が用意されている。ノルティエ・デュアスがシュレーを排除したいのなら、それを使えば至極簡単に事が済む。

 少し遅れてから、ノルティエ・デュアスは、ゆっくりと唇を歪めて笑った。シュレーは己の未熟さを思った。時々、自分の感情の流れがわからなくなる。自分が激昂していることも、どこか遠くの他人の心のようにしか感じられないのだ。

「憶えているとも、ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス。この世界が始まった日のことも、お前が初めて死んだ時のことも、私は憶えている。それゆえ私はノルティエ・デュアスと呼ばれている。他の天使たちもそうだ……哀れなブラン・アムリネス、お前だけが、何もかも忘れたのだ」

 杖によりかかって、ノルティエ・デュアスは面白そうに言った。

「……なにひとつ憶えていないのか、ブラン・アムリネス?」

 ノルティエ・デュアスが堪え切れないという風情で、うっすらと唇を開き、低い笑い声を立てた。その歯列に鋭く尖った犬歯が混ざっているのを見て、シュレーは背筋が粟立つのを感じた。竜(ドラグーン)の末裔。

「惨めだな。やはり、お前は、早く死んだほうが幸せだ」

 言い終えると、ノルティエ・デュアスはゆっくりと身を起こし、足音もなく、広間を横切って出ていった。金糸で絢爛豪華に飾られた外套を着た後姿が、厳かに揺れるのを、シュレーは横目で見送った。

 金の大扉が閉じられる音が重々しく響き、薄暗い広間には、シュレーだけが残された。

 深く息を吸いこんで、シュレーは天井を仰いだ。天井画の星々は、静かに瞬いている。自分の呼吸の音がうるさく耳につくように思えて、シュレーは息をとめた。

 聖楼城に連れてこられる前、どこか、こことは違う場所で見上げた、本物の星空のことが思い出された。

 風も凍り付くほどの寒い夜には、時折、星々が氷を払い落とす音が聞こえるのだという伝承を、荒野に住む山羊飼いたちから聞いたので、その話が本当なのかと父に尋ねてみた。

 寡黙な父は、話しかけても返事をしないことが多かったが、その時に限って、知りたければ自分で確かめてみろと答えた。

 シュレーは夜中じゅう起きて、たったひとり荒野に立っていた。夜空には、手を伸ばせば掴み取れそうに、無数の星が輝いていた。

 あの時も、自分の呼吸のせいで、星がたてる音を聞き逃すのではないかと思って、目眩がするまで息を止めた。堪え切れずに吐き出した深い息は、荒野の夜気に白く凍りつき、吸い込んだ空気は肺を刺すように冷たかった。

 だが、そうやって、明け方まで一睡もせずに待っていても、星はこそりとも音を立てなかった。日の出前に起き出してきた父に、それを報告したが、父はそれについては何も言わず、さっさと井戸までいって水を汲んでこいと、シュレーに言い付けた。

 あの話は、結局、嘘だったのだ。

 知っているなら、なぜ、確かめろなどと言ったのか。父がそう言うのだから、確かめられるのだと期待をかけていた。その音を聞き取れば、誉めてもらえるような気がしたのだ。それを話せば何か言ってもらえるだろうと。

 ……また関係のないことを考えている。

 息苦しくなって、シュレーはとめていた息を吐き出した。

 この広間でも、吐いた息はうっすらと白く見えた。

 自分の吐く息が霧散してゆくのを、シュレーは黙って見守り、呼吸を整えた。

 転がり落ちた僧冠を拾いに、シュレーは広間の奥へゆっくりと歩いた。床に転がっていた僧冠を拾い上げて、シュレーはそれを眺めた。白羽に添えて、天秤の意匠を飾った紋章が、僧冠には刺繍されている。ブラン・アムリネスの紋章だ。

 この名は今まで何人かの神殿種によって受け継がれてきたもののはずだ。その誰もが、ブラン・アムリネスという天使の記憶を継承しており、それを転生の証として、この官職を叙任されてきたのであり、今、この位にあるシュレーも、そうでなければ筋がとおらないはずだ。

 しかし、シュレーには、ブラン・アムリネスの記憶など心当たりがなかった。シュレーがブラン・アムリネスであると、大神官が決めたというだけだ。

 嘘だ。嘘ばかりだ。この古びた城にあるのは、長年降り積もった欺瞞だけだ。

 ノルティエ・デュアスにしろ、他の天使にしろ、自分ではない者の記憶など、持っているわけがないのだ。誰も彼も、したり顔で嘘をついている。この世界を守っているというのも嘘、民を愛しているというのも嘘。竜(ドラグーン)の末裔だというのも嘘だ。なにもかも嘘、連中の守っているものの中に、真実などひとつもない。ただ、それを暴く者が誰もいないだけにすぎない。

 それなら自分が何もかも暴いてやる。神殿種が守ってきた、虚栄だけのこの世界も、白い石で欺瞞を覆い隠しただけの、誰も救わない神殿も、なにもかも滅ぼし尽くし、背中に白い羽根を生やした連中を、一人残らず抹殺する。生きている甲斐がないほど卑しいのはどちらの方か、はっきりさせてやる。

 こみ上げる衝動に耐え切れずに、シュレーは拾い上げた僧冠を、大理石の床に叩き付けた。絹で作られた華麗な僧冠は、投げつけられた衝撃で、簡単にひしゃげた。その面(おもて)を飾る白羽の紋章を踏みにじると、シュレーは僧冠を投げ捨てたまま、足早に広間を後にした。

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