カルテット番外編「贖罪」

椎堂かおる

第1話

「慈悲を垂れる甲斐もあるまい」

 静まり返った広間で、その声は、極めてひそやかにシュレーの耳に届いた。竜の舌が耳朶を舐めていくような気配とともに。

 シュレーは正神殿の最奥の部屋に集められた高位の神官たちを、ゆっくりと順に見渡した。

 誰もが眩いほどの白い衣装に身を包み、白金の杖を携えて広間の中心に向かい、いびつな環を作って佇んでいる。神官たちの顔ぶれは、高位の神官職を叙任され、自分の生来の名とは別の、神話の天使の名で呼ばれる者ばかりだ。シュレーを入れて28人。すでに見慣れた光景だった。

 その場にいる誰もが、沈黙のまま、広間の上座にいる音無き声の主に視線を向けている。

 円陣の中でも、とりわけ背の高い1人が言葉の紡ぎ手だった。その、まだ若く、堂々とした体躯の神官の名は、星々の声聞く者、ノルティエ・デュアスという。

 ノルティエ・デュアスは、微かに満足げな表情で、一堂を見まわしていた。遠目にも、ノルティエ・デュアスの鋭い灰色の目が、並々ならぬ自信に満ち溢れているのがわかる。

 それもそのはずだ。まだ若年とはいっても、ノルティエ・デュアスは神殿種の28人の天使たちの、「長兄」だと言い伝えられる天使であり、その転生体である「彼」は、この場の最高権力者なのだ。

 天使たちには官職上の上下関係はないが、暗黙のうちに、個人どうしの間での序列があった。そういう視点で眺めると、ノルティエ・デュアスは自分以外の天使たちをほぼ完全に服従させていると言ってよかった。その事実が、彼を、次期大神官候補のひとりと目される地位に押し上げているのだ。

 自分の言葉に反論する者が誰もいないのを確認してから、ノルティエ・デュアスは末席に立つシュレーと視線を合わせてきた。シュレーはそれに気づき、微かに片眉をあげた。いやな気分だった。

「東南部の争乱はすでに数十年に及びつつある」

 ノルティエ・デュアスは珍しく、喉から発せられる本物の声で話している。シュレーから目をそらすことなく、淡々と説明する声には、広間にいる他の誰でもない、シュレーだけに何かを伝えようとするような、挑戦的な色合いがある。

「かの地の気象条件と、長年の食料事情を鑑みるに、争乱のもとは人口問題にすぎぬ。事態の解決は容易である。競合するうちの一部族を滅亡させて、均衡を復旧させればよい。根本の問題が消えうせ、腹が満ちれば、下民どもも愚かに争い騒ぐのをやめるだろう」

 シュレーには、こちらを見たまま言い置いたノルティエ・デュアスが、にやりと笑ったような気がした。

「ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス」

 シュレーが伏目がちになって目をそらすと、ノルティエ・デュアスの声が追ってきた。

「そう思うだろう」

 ノルティエ・デュアスの優しげな猫なで声を聞き、シュレーは視線をあげた。

「どの部族を滅ぼす予定か、お聞かせ願いたいものです、ディア・フロンティエーナ・ノルティエ・デュアス。紛争に関っているのは、当程度の規模の地方小王国にすぎない。人口といっても、どれも同じようなものです」

 無表情に、シュレーは応えた。ノルティエ・デュアスが目を細める。

「現地から、はるばる、正神殿に嘆願に来ていた者たちがいるそうだ……その者と会ったのではないか、ブラン・アムリネス」

 杖を自分の肩に預け、ノルティエ・デュアスは面白そうにシュレーを見た。

「カスガル族の首長は長年神殿に尽くしてきた、信仰篤い者とのことだったので、会いました。紛争での敵対部族の暴虐を嘆いており、神殿からの助力と慈悲を……」

「古い部族だ。それでよかろう」

 シュレーの言葉が終わるのを待たずに、ノルティエ・デュアスは言い捨てた。

「……それ、とは?」

 儀礼的に問い返したものの、シュレーはノルティエ・デュアスが、あえて問いかけるまでもなく、嘆願の事実を知っているのだろうと思った。ノルティエ・デュアスは神殿で起こる出来事に神経質であり、耳が早い。なんにでも聞き耳をたてている。

「滅ぼすのは、その部族でよい。もう、じゅうぶん生きたであろう。新たな血に土地を明け渡させよ」

 ノルティエ・デュアスは微笑んだ。シュレーは驚かなかった。

 ノルティエ・デュアスは、普段から、シュレーを眼の仇にしている天使の1人だ。かの部族がブラン・アムリネスに慈悲を求めたことが、面白くなかったのだろう。

「次の月が満ちるまでには、呪いを差し向けるよう、手はずを整えよう。平和の教えに跪かぬ部族は、呪いによって、ことごとく滅ぼし尽くす。生き長らえた部族のものたちも、神聖神殿の教えに従わず、争いつづけるというなら、時を置かずに同じ死の呪いを与えると告げ知らさせよう。それで連中も大人しくなるだろう。我々はいま、エルフどもの和平について協議中であり、辺境の小王国などには長くかかずらわっておれん」

 ノルティエ・デュアスは珍しく、重苦しいため息をついた。

 大陸南部の大部族、エルフ四部族を調停するのは、大神官から、ノルティエ・デュアスに与えられた仕事だった。

 忌々しげに言うからには、調停がうまく進んでいないのだろうとシュレーは思った。

 ノルティエ・デュアスが大神官の機嫌をそこね、調停に必要な命令書に言質がとれないという噂が聞こえていたから、おそらく、そのあたりが不機嫌の種なのだろう。

「残念だが、ブラン・アムリネス、大神官台下に泣き付いても無駄だ。あくまで下民どもに慈悲を垂れたくば、以前の様に、自分の命で間に合わせるがいい」

 ノルティエ・デュアスは翼の意匠で飾られた杖を掲げ、軽く天井を仰いで左胸を覆う仕草をした。神殿の壁画にある、瀕死のブラン・アムリネスの絵姿を真似ているのだろう。

 広間に天使達の忍び笑いがもれた。滅多に声を立てることもない連中が、わざわざ声をたてて笑うとは、わざとそうしているとしか思えない。ノルティエ・デュアスへのご機嫌取りとは、ご苦労なことだ。

「……そのような愚かなことは二度とは繰り返さないでしょう」

 シュレーは笑いさざめく白い群れを見渡し、微笑みながら応えた。

「弟よ」

 ため息とともに、ノルティエ・デュアスは芝居かがった口調で言った。

 神殿の者たちは、自分より年下もの者を弟、年上の者を兄と呼ぶ慣習を持っていた。だが、シュレーは目の前にいる連中に、肉親としての情を感じた事は一度もない。おそらく、ノルティエ・デュアスも、他の天使たちもそうだろう。シュレーを肉親だと認めたことなど、ほんの一度もありはしない。

「慈悲が勝ちすぎるのは、お前のためにならない。下民どもにあまりに情けをかけると、皆、お前の濁った血のことを思い出す……」

 ノルティエ・デュアスが言うと、居並ぶ天使たちが囁き交わす羽音が、あちこちから溢れ出るように聞こえはじめた。

 シュレーは心の耳を閉ざした。なにも考えず、心をかたく閉じていれば、悪意にみちた囁き声も遠くの出来事のように感じられる。

「次の転生までの辛抱だ、哀れなブラン・アムリネス。下賎の血で汚された女の胎(はら)から生まれたのも、次の世のための試練と思え。我が身を嘆くあまり、自ら命を絶つことなど考えるな。お前の今生が一日も早く終わることを、皆で祈ってやろう」

「ご親切に、兄上方……ご心配いただかずとも、神聖なる血に恵まれぬこの体の寿命は、そう長くはありますまい」

 顔を上げ、胸を張ったまま、シュレーは淡々と応えた。

「それが、お前の運命の唯一の救いだ」

 ノルティエ・デュアスは頷き、広間の天使達を見まわした。誰もが納得したように頷き交わしていた。

 神殿種は代々長命の種族である。シュレーが血をうけたエルフたちも、大陸のなかでは比較的長命な種ではあるが、百年以上も生き続ける神殿種には及ばない。混血の神殿種がどれほどの寿命を生きるのかについては、何一つ記録がない。そのようなことは起こり得ないというのが建前だからだ。

 たとえ、神殿種の女が混血児を生んでも、その子は生まれてすぐに闇に葬られる。つまり、神殿の外で生まれた自分は、他の混血児よりも格段に運がよかったのだ。

 そう思うと、なぜかとても可笑しく、シュレーは静かに笑いを噛み殺した。軽くうつむいて微笑みがちでいるシュレーの態度を、天使達は恭順の姿勢と受け取り、満足したようだった。

 それすら、いつもの事だ。

 神殿での暮らしに慣れるにつれ、シュレーは、その場には関りのないことに気がそれることが多くなってきた。

 気をそらせて、こみ上げる怒りをやり過ごしている。もともとは、それが始まりのはずだが、今ではただ無気力なだけのようにも思えた。いちいち腹をたてるのが面倒くさい。

 今の自分は、煮えたぎる憎悪の淵に、無気力という名の薄い濡れ紙一枚で蓋をして、その上に立っているようなものだと思った。ふとした気の迷いで、足もとの紙を踏みぬけば、吹き上げる怒りで我を忘れるだろう。

 自分の手に、この天使たちの命を奪うための武器があり、それが許されるなら、一人残らず息の根を止めてやりたい。まずは、あの、ノルティエ・デュアスからだ。

「次の議案を……」

 話題を変えようとしているノルティエ・デュアスを遠目に見つめて、シュレーは件の天使が、自分を呪いながら息絶える様を想像してみた。

 ……気持ちがいい。

 シュレーは、そう思っている自分が空恐ろしかった。

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