⑤
小岩井が帰ったあと、俺は近所の公園にいた。
俺はブランコに腰を掛け、手持ち無沙汰にゆるゆるとブランコをこいでいた。
空は青紫色に染まりかけていた。すでにカラスは飛び去り、夜の訪れを感じさせた。
小岩井の話を聞き終わったとき、動揺することはなかった。
昔から、俺の嫌な予感はよく当たった。
予言とは違う。いつだってどんなことが起こるのかはわからない。ただ言い知れぬ不安のようなものを感じるときがあるのだ。
今回もそうだった。小岩井から話を聞く前から予感していた。
それはずっと前から感じていた嫌な予感だった。具体的に言えば、黒河の事件のときからずっと。
だから今さら驚くようなことではなかったのかもしれない。
ただ、驚くことはなかったけれど、でも確かに嫌な気持ちにはなった。落ち込んでいる、といえるのかもしれない。
心が沈んでいる。そう自分で感じる。
小岩井は俺の様子を見て慰めの言葉をくれたけれど、彼女には悪いがそれで心が晴れることはなかった。
きっと本当のことを知ることができれば、少しでも心は晴れるだろう。けれど、本当のことを直接聞くのは怖かった。
日常が変わってしまう気がした。
なにかが壊れてしまう気がした。
誰かを失ってしまう気がした。
……すべてが、終わってしまう気がした。
なにが正解でなにが不正解なのか。それは充分に理解している。誰にだってわかることだ。
正しいほうを選ばなければ、きっと後悔してしまう。
けれど、正しい選択をしても、きっと後悔するだろう。
どっちに転ぼうとも、後悔することだけは変わらない。
どちらの道に進んでも後悔することは最初からわかっていて、けれど俺はどちらかを選ばなければいけない。踏みとどまることはできない。
なら俺が選ぶべき道は――。
俺は青紫色の空を見上げる。いつもと変わらない、夜の空が広がっていた。
☆
その日、また夢を見た。いつか見たのと同じ夢。
違うことといえば、俺がなにも喋らなかったことくらいだ。
地平線の彼方まで続く血色の湖と、後ろ姿の髪が長い少女。こちらへ来ないかという言葉。灰色の腕たち。突然消える少女。
すべてが同じだった。
理解できることは何一つなかった。
☆
七月が終わり、八月も中旬に差し掛かった。
小岩井と情報が交換をしてから、二週間ほどが経っていた。
その日は、その日もまた暑い日だった。
カンカン照りの太陽と、鳴き続けるセミの声。どこまでも澄み渡った青空と、小岩井の首筋を流れる汗。陽炎と、気怠さ。モワリとした気持ちの悪い空気と、ほんのりと日焼けした小岩井の柔肌。
焼けた硬い砂の大地が俺たちの足元に広がっていた。まるで地獄の中にいるかのようだった。頭上の太陽が恨めしい。
俺と小岩井は、俺の自宅前の公園にいた。
「ねえ、遠山」
小岩井が言った。
「どうした?」
「今度、プールでも行かない? こう、毎日暑いとまいっちゃう。かといって一人でプールに行くのは勇気がいる。だから今度、付き合ってよ」
「俺はかまわないけど、一緒に行く相手ならいるだろ?」
「え? 誰のこと言ってるわけ?」
「谷川水希」
「委員長?」
隣のブランコに座る小岩井が顔をしかめて俺を見る。
俺は小岩井と目を合わすフリをして、シャツの隙間から見える彼女の首筋に目をやった。普段の小岩井と違って、どこか色気を感じさせた。
「仲良いんだろ?」
「まあ、仲良い方だけど。いろいろあったし、なんか今は気まずい」
「……なるほどな。気持ちはわかる」
服部桃花の起こした事件の際、谷川と小岩井の間にはいろいろとあった。
谷川の証言によって小岩井が犯人である可能性は高まった。
性格上、谷川は大して気にしていないはずだ。対して小岩井は違う。
きっと谷川が小岩井にとっては不利となる証言をしたことに対しては、仕方がないと思っているのだろう。小岩井の口調からは、谷川に対する恨みはないように感じ取れた。
だが谷川が気にしているのではないかと、不安なのだろう。元のように仲良くやっていけるのか、それを心配しているのだ。
俺としては、二人には元の関係に戻ってほしい。そうなるのなら、できることはやってやりたい。
どうしたものか、と考え、思いつく。
「小岩井は谷川と二人で行くのが不安なんだろ?」
「……不安というか、なんというか」
「ならこうしよう。俺と谷川と小岩井。三人でプールに行くんだ。そして俺が仲介役として、お前ら二人を仲直りさせてやる。どうだ?」
「……それなら、まあ」
「よし。じゃあ、それでいこう」
もう八月も中ほどになってしまったが、夏休みの予定が一つ決まりそうだ。
そうとなれば、まずは目の前の問題を解決しなくてはいけない。結果的に嫌な気分になろうとも、楽しい予定があるのなら頑張れそうだ。
そう、これから俺はやらなければいけないことがある。そのために小岩井をここへ呼び出しのだ。
「ところで、話って?」
ゆらゆらと小さくブランコを揺らしながら、小岩井が言った。
「大事な話って言っていたけど」
「ああ。……結論から言うと、もう調査はやめないか?」
「どうして?」
「あれから考えたんだ。それで、やっぱり俺には無理だってわかった。あの真実は受け止めきれそうにない。……それに、終わらせたくないって、思ってしまったんだ」
俺は嘘をついた。
それは自分のためでもあるし、なにより小岩井のためでもあった。
「……でもさ、でも――」
「俺さ、好きなんだよ」
小岩井の言葉を遮って、俺はそう言った。
頭上の青空を、飛行機が通っていく姿が、小さく見えた。
「これは誰にも言ってない。小岩井が初めてだ」
「……、」
「だから、壊したくないんだ。たとえそれが間違ったことだとしても、それでも終わらせたくないんだ。最低な男だと思ってくれてもいい。だから、もうやめよう。……壊さないでくれ」
「……そっか」
小岩井は小さく口にした。彼女の声色はどこか寂しそうで、俺は心を痛めた。
きっと、小岩井は俺に失望したのだろう。だからこんな、寂しそうな顔を見せるのだろう。
俺自信が彼女にそんな顔をさせてしまったかと思うと、いたたまれない気持ちになる。それでも、俺は嘘をつかなければいけない。小岩井のために。
「わかった、もう終わりにしよっか」
「……悪い」
「気にしなくていいよ」
小岩井ブランコから降りると、ブランコから離れる。
ブランコはゆらゆらと揺れていた。
小岩井は空を見上げながら言う。
「わたしもね、嫌だなぁって思ってたんだよね。だから、ちょうどよかった」
俺はブランコに座ったまま、彼女の後ろ姿を見つめる。短めの髪が、少しだけ風で揺れていた。小岩井の表情を、俺は見ることができなかった。
「ねえ、遠山」
「なんだ?」
「わたしね、わたし……。やっぱりなんでもない」
「なんだよ、それ。気になるだろ」
「いいの。大したことじゃないから」
小岩井が振り向く。
彼女は笑っていた。その笑顔が儚げに見えたのは気のせいだろうか。
「プール、楽しみにしてるから」
「……ああ。俺も、楽しみだ」
俺と小岩井、別れた。
ここから先は、俺の仕事だ。
☆
呼び出し音の後に、相手が電話に出た。
「話があります。今夜、お化けハウスで会いましょう」
そう言って、俺は電話を切った。
窓から見える空が、暗くなりはじめていた。
俺はカーテンを閉めて、部屋をあとにした。
☆
小さな頃は夜が怖いと思っていた。
お祭りの帰り、母親に手を引かれて歩く夜道。脇道の先の暗がりが怖かった。なにか得体の知れないものがその先にいるような気がして、母親の手を強く握った記憶がある。
高校生になった今、暗がりを怖がることはなくなった。母親の手を握らずとも、夜の街を歩けるようになった。
これが大人になるということなのだろうか。
俺はまだ、大人になれたという自覚がない。
夜道を歩き、人気のない坂道を登る。空には星がいくつも瞬いていた。
坂道の先にあるのは古びた洋館。その外観から、子どもたちの間では【お化けハウス】と呼ばれている。
昼間よりも夜のほうがその呼び名がぴったりとはまる。
俺は門を見上げ、そして乗り越えた。
☆
かつて動物たちの死体でいっぱいだった部屋は、月明かりに包まれていた。
窓の傍に誰かいる。腰まで伸びる黒の髪の少女。見慣れた後ろ姿だった。
俺は部屋に足を踏み入れ、その異変に気がついた。
足元に赤い線があった。その先をたどり、俺は言葉をなくす。
腕から血を流す、小岩井の姿があった。
彼女はその場に倒れ、呻くこともなく、その瞳を閉じていた。
「さっき、私がやったのよ。でも、安心して。気を失っているだけだから」
窓際の少女が言った。
俺は小岩井に駆け寄ると、彼女の傷を確認する。
肩に刃物で刺したような傷があった。傷の深さはわからなかったが、どうあれ病院に連れて行くべきだろう。ポケットからハンカチを取り出して、肩口を縛って止血した。
凶器を探して辺りを見回し、けれど見つからず、窓際に立つ少女を見る。相変わらず後ろ姿を晒している彼女の手にはナイフが握られていた。ナイフが月明かりにギラリと輝いた。そして、切っ先からはポタポタと血液らしき赤い液体が滴り落ちていた。
「……どうして」
俺は窓際の少女の背中に声をかける。
「どうして、小岩井がここに?」
「貴方と同じよ」
「同じ……?」
「彼女は言っていたわ。貴方に嫌われることになったとしても、自分がすべてを終わらせに来たと」
「……、」
俺が手を引くと話したことで、小岩井をこんな目に遭わせてしまったようだ。彼女には悪いことをしてしまった。本当はこうならないために、彼女を事件から遠ざけたかった。逆効果だった。
小岩井の性格を考えればわかることだ。俺は馬鹿だ。
「貴方も終わらせに来たのでしょう?」
窓際に立つ少女が言った。
「悪かったな」と気を失っている小岩井に謝ってから、俺は立ち上がってその少女に少しだけ歩み寄った。
俺が近づいてきたと知ってか、少女が振り返った。
椎名琴音は澄ました顔で、俺の顔を見つめてきた。
俺はその目を見つめ返す。
先輩はナイフを持っている。対する俺は丸腰だ。
黒河凪沙とやりあったときも、服部桃花と対峙したときも、状況は同じだった。今日まで生きていられているのは、きっと運が良かっただけだ。三度目の正直などという言葉もある。警戒して損はないはずだ。
「警戒する必要はないわ」
俺の警戒を察してか、先輩が言った。
そして手に持っていたナイフを俺の足元へと転がした。金属質な音が、月明かりだけの暗い部屋に響いた。
それでも、俺は警戒を続ける。
安心したところをブスリと刺されるのはごめんだった。
「……俺がなにをしにここへきたのか、先輩はわかっていたんですね」
「……、」
「小岩井がここへ来る前から……、俺が先輩に電話をしたときから」
いや。もしかしたら、もっと前から、先輩は知っていたのかもしれない。俺が先輩を疑うことになることも、こうして相対するときがくることも。すべて、知っていたのかもしれない。
黒河や桃花が言っていた【あの人】の言葉から想像すれば、その可能性は高い。むしろこうなるように誘導されたといっても過言ではないのかもしれない。
「さあ、どうかしらね」
月明かりを背後にして立つ先輩は、その容姿も相まって、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
俺はその様子に心を奪われそうになり、けれどなんとか平常心を保つ。
「それで、話ってなにかしら」
わかっているくせに、先輩はとぼけるように言った。
けれど、俺はそれを問い詰めない。意味がないことだと、わかっていたから。
だから俺はかまわずに口を開いた。
「先輩。あなたが一連の事件の黒幕ですね?」
「理由は? どうしてそう思うのか、一から話してくれないかしら」
先輩なら、そう言うと思っていた。
先輩と一年半も過ごしてきたのだ。先輩の言いそうなことぐらい、予測できる。
先輩はそういう人なのだ。
「……わかりました」
そうして、俺は先輩に語り始めた。
これが先輩との最後のときだと、心のどこかで思いながら。それでも俺は言葉を口にすることにした。
すべてを終わらせるために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます