ナイフを弄びながら、服部桃花は俺の方へと近づいてくる。

 俺は後ろに退がろうとして、背後は行き止まりだと思い出す。後ろにあるのは屋上へと続く冷たい鉄扉だけ。退がる場所などどこにもない。

 それがわかっていながら、けれど退がることしかできなくて。金属質な音とともに、背中にひんやりとした感触を感じた。

 命の危険が迫っているのを感じる。黒河に閉じこめられたときに感じたのと同じ、あの感覚。

 俺はポケットに触れる。そこにあるのは先輩と通話が繋がったままのスマホ。たった一つの命綱とも呼べるものだ。

 先輩は俺と桃花の会話を聞いていたはずだ。今頃は警察を呼んでいるだろう。

 なら今できることは警察が来るまで耐えることだ。

 問題なのは耐えられるかどうかのみ。これはもう運みたいなものだ。時間を稼ぐ努力もしながら、けれど最後は祈るしかない。


「桃花。俺たちの会話は全部、聞かれている」


 時間を稼ぐためにそう言った。

 けれど桃花に効果はなかった。彼は足を止めることはない。言葉すら発しない。

 階段の途中にいた桃花の足が、ついに階段を上りきる。そしてその手に握られたサバイバルナイフの切っ先が俺に向く。


「椎名先輩が俺たちの会話を聞いていた。今頃、警察に通報しているはずだ」


 効き目はないと知りながら、俺は会話を続けようと試みる。

 結果的に言えば桃花の足を止めることはできなかった。けれど、俺の言葉に反応を示した。


「椎名先輩って新聞部の部長だっけか」

「あ、ああ。そうだ」

「ふうん。……だからなにって話だけど」

「逃げなくていいのか?」

「逃げる?」

「警察が来るんだぞ」

「知らないね。だってその前に君を殺してしまえばいい」


 サバイバルナイフの切っ先が俺の首に触れる。冷たい刃だった。


「君を殺すなんて簡単なことだよ。このまま首にナイフを突き立てればいい」

「友だちを殺すのか?」


 皮肉なもので、口から出てきたのは桃花が言ったのと似た言葉。

 こんな質問に意味などない。だってもう答えは決まっているのだから。


「もう違う。ぼくと君はもう友だちじゃないよ。君がぼくを疑ったその瞬間から、友だちなんていう関係は終わったのさ」


 その言葉が胸に突き刺さる。

 その通りだった。

 もう友だちとは呼べない。そんなことはわかっていた。わかっているはずなのに、心に痛みを感じる。

 桃花の言葉が、俺たちの関係が壊れてしまったことを強く感じさせた。現実を突きつけてきた。


「……そうだよな。俺たちはもう友だちじゃない」

「だから簡単に殺せるんだよ」


 いっそ清々しいほどに凶悪な笑顔を浮かべる桃花。

 けれどそんな言葉とは裏腹に、すぐには刃を突き立てない。なにか理由でもあるのだろうか。


「だったら、なんですぐに俺を殺さない」

「……、」

「俺を殺すんだろ? 違うのか?」

「逆に聞くけど、君はどうして抵抗しないの?」

「さあな。俺にもわからない」


 言われて気がついたくらいだ。

 俺はどうして抵抗していないのだろうか。

 殺されそうだというのになぜか頭は冷静だった。頭がおかしくなってしまったのだろうか。それとも諦めているのだろうか。

 自分で自分がわからなくなっていた。


「死にたいのかな?」

「それはない」

「ならもっと抵抗してよ。こっちが楽しくない」

「お前の趣味に付き合うつもりはない」

「……、」


 桃花は俺の瞳をのぞいてきた。俺はその桃花の視線を見返す。彼の瞳は濁ることもなく、どこまでも澄んでいた。

 これほどに澄んだ瞳を持つ人間が、そしてこれほどに誰にでも好かれるような顔をした人間が殺人を楽しむ人間であると、到底信じられない。でも現実はそういう人間なのだ。

 黒河もそうだった。

 彼女もまた、およそ動物たちを笑いながら殺すような人間には見えなかった。

 やはり人は見かけによらないのだと、服部桃花と黒河凪沙を見て実感させられた。


「……君も狂人なのかな」


 ふいに、桃花がそう言った。


「狂人? 俺が?」

「だって君、こんな状態なのに心臓がバクついていない。怖がっている様子がない。死体の様子も簡単に口にした。……そんなの普通はありえない。何人もの人間の死体を見たり、何人もの人間殺した人間、死にかけた経験をいくつもしてきた人間でないと、そんな風にはなれない」


 そういうものなのだろうか。

 なら俺は普通じゃないということなのだろうか。


「そんな経験をしていない君が、そんな風にしていられるのはおかしい。……君が狂人なら納得できる」

「狂人、か。たぶん違うと思うぞ」

「なら狂人になる素質があるんだ。……ようやくわかったよ。あの人が君に目をつけていた理由が」

「あの人?」


 そういえば黒河もあの人と言っていた。

 俺はてっきりあの人とは桃花のことだと思っていた。でもどうやら違うようだ。

 ということはやっぱり複数人の人間からなる組織があるということだろう。

 月下香の印が関係しているということは、月下香の会に関係のある組織なのだろうか。

 月下香の会には生き残りがいたのか?

 その生き残りが黒河と桃花の言うあの人で、そいつが二人に月下香の印を渡したのか?

 いったいなんのために? 何をしようとしているんだ?


「……黒河も言っていた。あの人って誰なんだ」

「君はまだ知らなくていい」

「まだ?」

「ここから生きて帰ることができたのなら、いつか知るときがくる。あの人は君に期待しているからね」

「俺に期待……、」


 あの人とはきっと黒河や桃花のように狂人めいた人物なのだろう。そんな人間に期待されていると聞いても嬉しいとは思えない。むしろ不快感すら覚える。

 そもそもなぜ俺に期待しているのか。そして何の期待を持たれているのか。はっきり言ってまったくわからない。

 桃花のように俺を狂人か、あるいは狂人の素質があると思っているからか?

 だとしたら、それはまったくの見当違いだ。勘違いに決まっている。

 いいや、そうだと信じたい。


「そいつは俺の知ってる奴なのか?」

「さあね。ぼくに教える気はない。それを知りたければここから生きて帰るんだな」

「生きて帰る、ね。ならそのナイフをしまってくれないか?」

「無理だね」

「……だよな」


 あの人のことを知りたければ生きて帰るしかない。だけど、俺にそんなことができるのだろうか。抵抗という言葉をなくした身体が、生き残るために動いてくれるだろうか。

 サバイバルナイフの切っ先が首元から離れる。桃花がナイフを逆手に持って、振り上げる。その切っ先は俺の胸の真ん中を狙っていた。

 そこにあるのは心臓。潰れればポンプの役割を果たさなくなるのは当然のことながら、俺の命も尽きてしまう。

 完全に殺す気だった。

 避けなければいけない。でなければ死ぬ。

 身体は動くか。生きるための行動を起こせるか。桃花を突き飛ばすことができるか。

 自分自身に問いかけてみる。

 だけど、問いかけてみても答えは出なかった。考えたところで出るはずもなかった。

 そもそも、桃花に抵抗しない理由もわからないのだ。答えの出しようがない。

 だから俺は試してみることにした。今度こそ桃花に抵抗することができるのか、行動で試してみることにした。

 桃花を蹴り落とそうと足に力を込めてみる。足は思っていたよりも簡単に動いた。右足の裏が桃花の腹に食い込んだ。

 さっきまでの抵抗できなかった自分が嘘のように、あっさりと抵抗できてしまった。

 バランスを崩した桃花が一瞬だけ宙を浮く。そしてすぐに落ちる。階段の途中に身体をぶつけ、そのままゴロゴロと階段を転がっていく。

 昔、新撰組を取り扱ったドラマで見たことのある、池田屋事件の階段落ちのようだった。

 それほど高くはない階段だったこともあり、あまり酷いことにはなっていない。その証拠に桃花はすぐに起き上がった。


「……いやいやまったく。想像していたよりもよっぽど痛い」


 まるで自分から蹴り落とされに行ったとでもいうように、桃花は笑って言った。

 起き上がった桃花は、けれど無傷というわけにはいかなかったようだった。

 階段を転がり落ちる際に切ったのか、額の右側から血が出ていた。

 傷は浅いと思うが、なにせ頭に近いところからの出血だ。溢れ出た血液が顔の横を流れ落ちるほどの出血量だった。


「あー、どこかで切ったか」


 額に触れて血が流れていることを確認して、けれど桃花は慌てなかった。

 落ち着いた様子で制服のポケットからハンカチを取り出す。そして止血をするように額の傷へと押し当てた。白かったハンカチはみるみるうちに真っ赤に染まった。

 傷を押さえながらの桃花はその場に座った状態で、一つ下の踊り場から俺を見上げる。その顔はいつも通りの顔で、さっきまでの狂った笑みは浮かんでいなかった。いつも通りの少女のような優しい笑顔だった。

 額から出血をしながら、それでも桃花は笑っていたのだ。

 桃花の変化に俺は困惑するしかなかった。

 桃花の姿はもう狂者のそれとは違っている。狂気がすっかり抜け落ちてしまっている。


「実はさ、こうなることはわかってたんだ」


 そして何事もなかったかのように語り始めた。本当に心の底から楽しいとでも言いたげな口調だった。

 思いついた最高に笑える悪戯を語る子どものように、どうしてか桃花は楽しそうだったのだ。


「ぼくの背後は階段だった。もし抵抗されて突き飛ばされたのなら、階段を転げおりるのはわかっていたんだよ。だから身構えていたんだよ、こう見えてね。でも、それでも思ったよりは痛かった」

「……お前、どうしてそんなに楽しそうなんだよ」

「ん? そんなこと決まっているよ。楽しいからだよ」

「俺にはわからない。この状況で笑える理由がわからない」

「教えてあげるよ。ぼくがそういう人間だからだ」


 答えになっていないと思った。けれどちゃんとした答えを聞いても、結局は理解できないだろうなとも思った。

 だからそれ以上、追及することはやめた。


「ついでにもう一つ教えてあげる」

「……なんだ」

「君はさ、さっきまで抵抗しなかったよね? 抵抗できなかったと言った方がいいかな」


 困惑する俺をよそに、桃花は急に話を変えた。それがまた俺を困惑させる。


「君はその理由が自分でもわからないと言った。そして今、君は抵抗できた。その理由がわからないでしょ?」

「……ああ」


 桃花の予想は当たっていた。

 あっさりと身体は動いた。まるで最初から抵抗しようと準備をしていたように、身体は簡単に動いたのだ。

 その理由を俺は知らない。わからない。


「それはね。たぶんぼくが殺さないとわかっていたからなんだよ。事実、首にナイフを当てていたときは殺す気はなかったしね。でもさっきのは違う。殺気を込めて君を刺そうとした。そしたら君は抵抗できた。つまりそういうことだよ」

「……どういうことだ」

「和樹君は鈍いね」

「こう見えても勘はよく当たる方なんだけどな」

「本当? ……君はさ、ぼくが狂者だと知ってなお、心の奥深くではまだ信じようとしていたんだと思うよ。ぼくが狂者ではないと、ね。だけどぼくからの殺気を感じて心の枷が外れたんだ。狂者だと、敵だと君の身体が判断したんだよ。だから君はぼくを階段から蹴り落とした」


 桃花の言うことは正しいのだと思った。反面、本当にそんな理由で俺が抵抗できるようになったのか、疑問視している自分がいた。

 結局、自分でもわからない行動理由に、答えなんて出せるわけがないのだ。


「どうして、殺す気はなかったんだ?」


 俺はもう一つの疑問を投げかける。

 桃花は悩む様子を見せなかった。

「調べるためだよ」

「調べる?」

「そう。君があの人の言うように、狂人としての素質があるのかどうかを調べるためだよ」

「何のために」

「それは、じきにわかるよ」

「じきにって……、」


 この部分に関しては信じていいものか悩む。本当にいつかその答えを知ることができるのだろうか。


「さて、言いたいことは言えたかな」


 そう言って、桃花が立ち上がった。そして近くに落ちていたサバイバルナイフを拾い上げ、背中の方にしまった。

 額の傷は押さえたままだ。


「……もう、殺す気はないのか?」


 そう聞くと、桃花は静かに頷いた。


「気が削がれたんだよね。もういいやっていうか、なんというか。まあそんな感じ。だから安心していいよ。……そう言っても信じてもらえないかもしれないけど」

「自首するのか?」

「うーん。それはないかな。というか、たぶんできない」

「なんでだよ」


 桃花は笑って誤魔化した。俺には理由を言いたくないようだった。


「ねえ、和樹君」


 代わりに、俺の名前を呼んだ。その瞳が俺の瞳をとらえる。


「ぼくは君と友だちごっこできてよかったと思っているんだ。意外に楽しかったからね。それも今日でおしまいだ。別れのときってやつさ」

「お前、急に何を言いだすんだ?」

「いやさ、さよならだけは言っておこうと思って」

「さよなら? 逃亡でもする気か?」

「……さあね。ただもう会うことはないだろうね」


 そう言って、桃花は額に押し当てていたハンカチを外した。自分で額に触れて傷を確認している。

 遠くから見た感じでは出血は止まっているようだった。頭の傷は小さくても出血量が多いが、止まるのもはやいと聞いた。その通りのようだ。

 桃花も出血が止まっていると知り、真っ赤に染まったハンカチをポケットにしまい入れた。

 そして、桃花がもう一度俺を見上げた。


「じゃあぼくはこれで消えるよ」


 階段の下にいた桃花はそう言って俺から視線を外し、階段をおりていこうとして、途中で足を止めた。もう一度、俺の姿を見上げる。


「あ、そうだ」


 桃花がポケットから取り出したのはひし形の木板だった。花の模様が彫られたそれは、間違いなく月下香の印だ。


「これを渡しておくよ」


 桃花が月下香の印を放り投げる。木板は放物線を描いて俺の元までたどり着いた。けれど俺はそれを受け取れず、手から溢れてカラリと音を立てて床に落ちた。

 それを拾い上げて顔を上げたときにはもう、桃花の姿はどこにも見えなかった。ただ、階段を下りていく足音だけが妙に響いて聞こえていた。

 その音が聞こえなくなるまで、俺はその場から動かずにいた。いや、動くことができなかった。

 やがて、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。警察がやってきたようだった。

 そのときになって、俺は急に力が抜けた。屋上へと続く鉄扉に背を預け、床に座り込む。

 床が妙に冷たく感じた。



 ☆



 結果だけを言うのでならば、服部桃花の姿を見つけることはできなかったらしい。

 俺は職員室で、警察官からその報告を聞いた。

 どうして俺が職員室にいるかと言うと、やってきた警察官曰く安全性を考慮してということらしい。

 警察官の言う通りだとは思う。職員室には大人が何人かいるし、今の学校で一番安全といえる場所ではあった。

 ともかく、どうやら桃花は逃げ切ったようだった。

 それがいいか悪いかと言えば、悪い結果だと言えるだろう。なにせ殺人犯が野放しになったのだ。悪い結果としか言いようがない。

 最後に見た桃花の様子からきっと遠くへ向かったのだと思う。もう会うことはないと言っていたし、俺の知らないところで生きていくつもりなのだろう。

 けれど、高校生にそんなことができるのだろうか。

 ただ遠くで暮らすわけじゃないのだ。警察から逃げながらの生活だ。困難は多いように思えた。

 かと言って心配しようとは思わない。

 なぜなら服部桃花は殺人犯なのだから。早く捕まってしまうべきなのだ。罪を償うべきなのだ。


「君を家に送っていくよ。もしかしたらのことがあるからね」


 そう言って、警察官が俺を職員室から廊下へと連れ出す。そのまま一緒に昇降口へと向かった。

 俺の靴は昇降口にあるからだ。

 廊下には生徒の姿がない。みんなとっくに下校を終えているのだ。

 いつの間にか、雨の音は止んでいた。傘はもう必要なさそうだ。

 廊下を歩きながら俺は考える。

 ポケットに入っている二つの月下香の印。これを警察に渡すべきかどうか、それを悩んでいた。

 前回は先輩が渡すべきではないと言った。警察に信用されるかわからないからという理由だった。

 だが二つの事件が月下香の印に関係していることがわかった。そろそろ警察にすべてを話してもいいのではないだろうか。

 今、ここに先輩はいない。小岩井もいない。相談できる相手がいない。

 さて、どうしたものか。

 そう思いながら歩いているうちに、昇降口にたどり着いてしまった。

 考え事は一旦すみに置いておき、学校を出る準備をすることにした。


 下駄箱で靴を取り出し履き替える。傘カゴに入れておいた傘を引き抜く。雨は止んでいたから差す必要はないだろう。

 外へと視線を向けて、俺は立ち止まってしまう。隣にいた警察官も動きを止めているようだった。

 それは仕方のないことだった。とんでもないものを目にしてしまったのだから。

 昇降口の扉の向こう側で、何かが落ちてきたのを見た。それは大きなもので、思わず落ちた先を見る。瞬間、赤い花が咲いた。

 落ちてきたのは人間だった。



 ☆



 警察官の制止の声を振り切って、俺は外へと駆け出た。嫌な予感があったからだ。

 さよならという言葉と、俺の前から去っていった少年の後ろ姿を思い出す。

 同時に窓から飛び降り、逃げていった少女の姿もまた、思い出した。その後、少女は殺された。

 その事実が少年の死を連想させた。それは、それだけは許してはいけない。

 かくして、その嫌な予感は当たっていた。


 俺は死体の前で立ち止まり、ただその顔を見つめた。

 服部桃花は落下死したようだった。飛び降り自殺か、それとも事故か。あるいは黒河凪沙のように殺されたのか。それはまだわからない。

 ただ一つ言えることは桃花が死んだということ。


「……なんで」


 そのときになって、ようやく気がついた。さよならという言葉の意味を知った。


「……なんでだよ」


 桃花は自分が死ぬとわかっていたのか。そもそも死ぬつもりだったのか。

 だからあんな言葉を残していったのか。

 様々な考えが頭を渦巻いていく。疑問が浮かんでくる。

 でも。なによりも疑問だったのは。


「……なんで、笑ってんだよ」


 服部桃花が死してなお、笑顔を浮かべいた理由だった。

 本当に嬉しそうな笑顔だった。飛び降りたにしろ、突き落とされたにしろ。その表情を浮かべていることは不自然だった。

 なぜ、どうしてか。俺にはわかるはずもなかった。



 これが服部桃花が起こした事件の、どうにも煮え切らない幕切れだった。



 ☆



 服部桃花が死んでから、数日が経った。

 あの後の警察の調べで、桃花は屋上から飛び降りたということがわかったらしい。つまり自殺をしたということになったのだ。

 どうやって屋上に浸入したのかはまだ調査中だということらしい。

 他殺だと思われなかった理由はいくつかある。

 まず一つは屋上に遺書があったから。

 遺書の内容は。

 黒河を殺したのは桃花で、理由は動物たちを残虐に殺した黒河が許せなかったから。でもその罪に耐えかねて自殺することにした。

 というようなものだったらしい。

 この遺書から小岩井の罪は晴れたという。

 もう一つは争ったような形跡がなかったから。もし他殺ならなにかしら抵抗をしたような跡があるはずだが、それがどこにも見当たらなかったらしい。

 これらの理由から、警察は自殺だと判断したのだった。

 だが、俺には自殺だと思えなかった。それは黒河のことがあったからだ。

 桃花は黒河を口封じするために殺した。ということはつまり、桃花も口封じにあった可能性があるということだ。

 黒河や桃花の他にも月下香の印に関係している人間がいるとわかった以上、そう考えてもおかしくないはずだ。

 そうなると桃花は殺されるとわかっていて、俺にさよならという言葉を残したのだろうか。

 まあとにかく、俺は他殺だと思っている。可能性は決して低くはないだろう。

 そんな思いから、俺は先輩に調査を手伝って欲しいとお願いすることにした。先輩ならきっと承諾してくれるはずだ。



 と思ったのだが。



「やめておきましょう」


 それはとある平日の昼食時。

 たまには一緒に昼食をとりましょうなんて言って中庭に呼び出し、件の申し出を先輩にしたところ、返ってきたのはそんな言葉だった。断られてしまったのだ。

 これは完全に予想外の反応だった。

 先輩なら興味も湧くだろうし、快く承諾してくれると思っていた。


「どうしてですか」

「これ以上調べるのは危険だと思うのよ。黒幕らしい人物は貴方に目をつけているということでしょう? 期待しているとか」

「まあ、桃花の話ではそうらしいです」

「理由は私も予想できないけれど、どうあれ貴方が危険だということには変わりがないと思うわ」

「そんなの、今までだってそうだったじゃないですか。そんな心配、今さらだと思いますけど」

「今までも確かに危険な目に合う可能性があると思っていたわ。けれど可能性があるだけで、滅多なことがない限り、ないと踏んでいたのよ。軽く考えてしまっていたの。それが貴方を二回も危険な目に合わせることになったわ」

「でもなんとかなってきたじゃないですか」

「運良くね。その運が続く保証はどこにもないわ」

「それは、そうですけど……、」

「今回は運悪く死んでしまうかもしれない。そんなリスク、これ以上抱える必要なんてないのよ」

「……、」


 なにも言い返せなかった。だって、先輩の言葉は正しいと思ったから。

 けれど。だけどそれで諦めたくはなかった。

 俺は知りたかった。

 黒河凪沙が殺された理由を。服部桃花が死んだ理由を。俺が目をつけられた理由を。俺は知りたいと思った。

 だから、諦めたくはなかった。


「でも……、」


 けれど、どうすれば先輩を説得できるのかわからなかった。先輩が納得できるような言葉を思い浮かべられない。


「貴方の気持ちはわかるわ。でもね、私は心配なのよ。貴方を死なせたくはないの。わかってくれるかしら」

「……、」

「こう見えてもね、私は反省しているのよ。私のわがままのせいで貴方を危険な目に合わせて、小岩井さんにも迷惑をかけてしまった。……動物たちの死体を見たところで、全部警察に任せておくべきだったのよ。私の責任ね」


 そう言って、先輩は隣に座る俺の方へと身体を向けた。そして頭を下げた。


「ごめんなさい」


 先輩は謝罪の言葉を口にした。

 俺はそんな言葉が聞きたいわけじゃない。だから首を振った。


「謝らないでください。先輩の責任だなんて言わないでください。俺も小岩井も、警察に頼らないという先輩の意見に賛同したんです。俺にも責任があります。だから謝らないでください」

「いいえ。謝らせて。だってこれは私のわがままから始まったことだもの。……今さらこんなことを言うのは勝手だと思うけれど、これ以上はもうやめましょう」

「でも」

「お願い。わかってちょうだい」


 それでもなお食い下がろうとして、俺は口を閉じた。閉じるしかなかった。

 先輩の表情は、いつにもまして真剣なものだった。

 その瞳を見て、本気で責任を感じていて、本気で俺を心配してるのだと思った。先輩の本気が伝わってきた気がしたのだ。

 だから、俺は口を閉ざすしかなかった。


「……わかりました。これ以上、月下香の印に関わることはやめます」

「わかってくれてよかったわ。ありがとう、遠山君」


 俺は静かに首を横に振った。

 けれど、心の中はもやもやでいっぱいになった。このまま諦めてしまってもいいのかと、どこかで思う自分がいる。

 知りたいことがある。それはもう心の底から。どんなことよりも。

 その理由は自分でもよくわからない。ただ、知ることができないまま終わるのはダメな気がした。

 でもここまでだ。もうすべてを忘れるべきなのだ。

 先輩に心配をかけるのは気が引けたし、小岩井にだってまた迷惑がかかる可能性もある。ここで諦めてしまうことが正しい答えの気がした。

 だから俺は諦めきれない気持ちを心の奥底に鍵を閉めて押し込み、危険がなかった頃の日常を取り戻すことにした。

 先輩や小岩井。二人と日常を過ごしていけばきっと、この想いも消えてなくなるだろう。

 それを信じることにした。



 ☆



 月日は流れ、七月の半ばあたりを過ぎた頃。

 期末試験が終わり、終業式も終わった。となれば次に来るものはなにか。そう、夏休みである。

 一学期をいろいろなことが学校であった。その結果、苦しんだ者もいるし、悲しみにくれた者。はたまた気にしなかった者がいたことだろう。

 だが学校はどうにかいつも通りの日常を取り戻し、無事に夏休みを迎えたのだった。

 ここからだ。

 ここから本格的な夏が始まる。

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