第二章「真っ赤な欲望」
①
「お?
お化けハウスでの出来事から数日後のこと。昼休み。俺は図書室に来ていた。調べものをするためだ。
花図鑑に目を通していた俺は、不意に声をかけられた。
振り向いてみると
桃花は俺とクラスの中で唯一、仲良くしてくれている奴だ。ちなみに桃花という名前ではあるが男である。顔も体格も女みたいだが男である。
クラスの女子からはかわいいと人気だ。一部の男子からも人気があるようだが、如何せん俺にそっちのけはないのでわからない。いや女子ならかわいい感じの顔だが、男である時点で俺にはそういう目で見ることができない。
「桃花か。……いやちょっと調べものをしに来たんだ」
「調べもの?」
桃花はそう言って座る俺の肩口から開いた本をのぞいてきた。
「花図鑑? なに、和樹君って花とかに興味があったの?」
怪訝そうに言いながら、桃花は俺の隣に座った。俺の顔を見てきた。
「そういうわけじゃねえけど、ちょっと気になることがあってな」
「気になること、ねぇ……」
桃花はもう一度俺が読む本をのぞき込む。そして開いてあったページの花の名前を読み上げ始めた。
「
「だよな」
「この花がどうかしたの?」
「いや……。昔、月下香の会殺人事件ってあったの思い出して、月下香って何だと気になってさ。こんな花なんだな」
「え、月下香って花なんだ」
「みたいだな。今はあんまりその呼び方はしないらしい。英名のチューベローズって言うんだと」
「ふうん」
昨日のことだ。
俺としてはもう調べる必要がないと思う。思うのだが、先輩にそれを言ったところで彼女がやめることはない。だから仕方なく承諾した。
そんなこともあって自分で月下香について調べてみようと思ったのだ。結果、よくわからないということがわかった。
図鑑に花の写真が載っているのだが、俺には他の花と見分けられる自信はなかった。似たような花なんていっぱいあるだろうし、たとえ本物を見たとしても気がつかなさそうだ。
まあ調べたところで花言葉以外に関係のあることはなさそうだし、それでも問題はないのだろうけど。
「それにしても、月下香の会殺人事件なんて思い出すなんて、何かあったの?」
桃花がそう問いかけてきた。
どうやら桃花も月下香の会殺人事件については記憶にあるらしい。
「たいしたことはない。耳にする機会があってな」
「ふうん」
「お前は?」
「ぼく? ぼくは本を返しにきたんだよ」
「あー。お前って本好きだもんな」
「まあね」
「どういうやつ読むんだ?」
「んーと。……いろいろ? 小説が多いけど、ジャンルはバラバラ。伝記とかも読むね。あとたまに哲学の本、とかかな」
「て、哲学……」
「難しそうって思ったでしょう」
「ま、まあな」
俺のイメージでは哲学なんていう学問は難しいものという感じだ。頭の良い人たち向けの学問だと思うのだ。
「そんな難しいものじゃないよ。哲学なんていうのは要するにどれだけ物事を深く考えられるかだから、考えるのが好きなら誰でもできるよ。……まあ過去の哲学者がどんなことを考えてきたのかを調べるとかだったらそれなりに難しいかもだけどね」
「……考える、ねぇ」
よくわからなかった。
哲学者なんていうのは、人はどこからきてどこへ行くのか、みたいなとてつもなく途方もないことを考えているのだろう。そんなことを考えて何が楽しいのか。意味がないんじゃないか。そんな風に思ってしまう。
ということは俺に哲学の才能はないということなんだろう。
「小難しいこと考えてるより、明日何を食べようか考えた方が有意義だと思うけどな」
「そうかもしれないね。でも調べてみるとこれが面白いんだよね。興味が湧いたら一度調べてみるといいよ」
「興味が湧いたらな」
たぶん興味が湧くことは永遠にないだろうけど。
「先輩なら興味がありそうだけどな」
「先輩? 新聞部の部長さんのこと?」
「ああ。あの人も物好きだからな。もう哲学に手を出してるかもしれないけど」
「物好きか。一度会ってみたいね」
「やめとけ。わがままに振り回されることになるかもだからな」
「かまわないよ」
「……お前も物好きだな。わかった。いつか紹介してやるよ」
「本当に? 楽しみだなぁ」
「楽しい人じゃないと思うぞ。どっちかというと怖い」
「怖い?」
「ああ。いきなり股間を蹴り上げてきたりする」
「……え? 和樹君ってそういうプレイ好きなの?」
「違うわ! プレイとかいうな!」
「なんだ、違うのか」
なぜか残念そうな顔をする桃花。
俺がそういうプレイ好きじゃないと何かあるのか。残念ながら俺はドMじゃない。
「とにかく、あんまり期待しない方がいいぞ」
「そう言われると期待しちゃうなぁ」
そう言って、桃花はにっこりと笑った。
☆
図書室で月下香について調べた日の夕方。俺はゆっくりとした歩みで部室を目指していた。
新聞部の部室は中央校舎の三階、一番端にある。
部室の近くには教室が並び、この時間になると人気はあまりない。外で走る運動部の掛け声と遠くから微かに響く吹奏楽の音は聞こえてくるが、それほど騒がしく感じないのは人がいないからかもしれない。というよりもどこか寂しさを感じる。孤独感とでも言うべきか。水の中に潜って外の音に耳を傾けた時のような、妙な気分に陥るのだ。
同じ世界にいるはずなのに、別の世界にいるような錯覚がする。外から聞こえるすべての音が遠くに聞こえる。隔壁された空間にいるようだった。
そんな誰もいない廊下を歩いていると、不意に背後から誰かが走ってくる音が聞こえてきた。
振り返る。
小岩井が良くないものを運んでくる。そう脳が警笛を鳴り響かせているような気がした。
一瞬、逃げてしまおうか。そんな風にも思ったが、逃げても意味はないという諦観めいた思いが俺をその場に張り付けた。
「……そんなに慌ててどうした」
小岩井にそう声をかけた。
だが小岩井は何も言わずに、体当たりをするように近寄ると、俺の腕を掴んで近くの教室へ向かって引っ張った。クラス表記がないことから、空き教室だと思う。
小岩井は辺りをキョロキョロと忙しなく見回しながら空き教室へと俺を引っ張り込んだ。
そして一度俺から手を離すと開いていた前後の扉と窓を閉めた。
戸惑う俺に再びくっつくと教室の隅へ押す。押し倒されるように床に座らされ、ずいっと顔を近づけられた。
「な、なんだよ」
童貞チキンハートな俺が顔をのぞかせる。どきりどきりと心臓が高鳴った。血流が早くなるのを感じる。
密着した小岩井の体の柔らかさと生々しい体温。そして息がかかるほどに近づけられた彼女の顔。
どうしたって緊張してしまう状況だった。
下品な話ながら下半身が熱くなりかけたことを察し、どうにか鎮めようと心を落ち着かせようとする。軽い深呼吸をしようと息を吸い込むと、柑橘系の爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。その匂いが女の子らしさをきわださせていて、どうしようもなく心臓が早鐘を打つ。完全に熱くなった下半身を誤魔化すように口を開く。
「こ、こ小岩井っ。どど、どどどうしたんだよ」
「しっ!」
小岩井に口を塞がられた。
「静かに聞いて。いい?」
焦りを匂わせた真面目な表情で彼女は言った。俺はただ頷くことしかできない。
「遠山に見せたいものがあるの」
そう口にしてからもう一度辺りを見回す。誰かに見られることを執拗にに警戒しているようだった。
いったい何を見せるつもりなのか。童貞を狂わせるものでないことを祈る。
結果としてそれは杞憂だった。小岩井がさっと身体を俺から離したのだ。
俺の前で床に座った小岩井は、背負っていたリュックを下ろした。黒色の下地にY字の形をした黄色のラインが入ったリュック。いつかお化けハウスで彼女が背負っていたものと同じだった。
俺たちの学校では通学鞄が自由となっている。だから小岩井はリュックを背負っていたのだろう。
小岩井がリュックから取り出したのは紺色の布袋だった。彼女は紐で閉じた口を開き、その口を俺の方に向けてきた。
「いい? 中を見ても大声を上げないで。絶対によ」
「わ、わかった」
俺は布袋を受け取りそっと中を覗く。
入っていたのは俺たちの学校の体操着だった。だが普通の体操着じゃない。
それは赤黒く染まっていた。この赤黒さが何であるか。俺にはすぐにわかった。鉄臭い匂いが鼻をついたからだ。
その体操着は血液に塗れていたのだ。
「……これ」
俺は静かに小岩井に視線を向ける。
身体は冷め始めていた。
☆
小岩井曰く、それは今日のホームルームが終わった時のことだったという。
小岩井のクラスでは昨日体育の授業があり、小岩井は体操着を学校に忘れてしまった。それを今日持って帰ることにしていた。
ホームルームが終わったあと自分のロッカーを開けて、体操着の入った袋を取り出した。違和感はその時にやってきたという。
匂いに敏感な小岩井だからこそ気がつくことのできた違和感。
体操着の入った袋から漂う匂いに鉄臭い匂いが混じっていた。気になって中を覗いてみると、血にまみれた自分の体操着が入っているのを見つけた。
とまあ、そういうことらしい。
☆
「……なるほど」
俺は小岩井の話を頭の中で整理した後で呟いた。
小岩井が焦っているのにも納得した。
自分の私物がいつの間にか血にまみれていた。そんな状況に出くわしたら誰でも焦るだろう。
しかもだ。
「この血の量、相当なことがないと出ないよな」
そう。小岩井の体操着は白い部分が見えないほどに赤黒く染まっていたのだ。それこそ誰かを刺し殺したくらいの何かをしなければ、ここまで染まることはないだろう。
「遠山は何か疑っているかもしれないけど、わたしは何もやってないから。本当に、本当に何もしてないからね!」
焦ってまくし立てる小岩井は普段のそれとは違って、ひどく取り乱しているようだった。表情がとにかく固かった。目にうっすらと涙まで浮かべている。
きっと誰にも相談できなくて、一種のパニック状態に陥りかけているのだ。
それは当然だ。
たとえ身に覚えがなくても、血に染まった体操着なんか他人に見せれば、彼女自身にあらぬ疑いがかけられてしまう可能性がある。それを避けたくて誰にも話せなかったのだろう。
本当は俺にだって言いたくはなかったはずだ。けれど小岩井は俺に打ち明けてくれた。信用されているのか、はたまたパニックに陥りそうな頭の中に俺の名前がたまたま浮かんだだけなのか。
いずれにせよ頼ってくれて素直に嬉しいと思った。だからこそ俺だけは小岩井を信じ抜くことに決めた。
「わかってる。お前が誰かに危害を加えるわけがない」
「……信じて、くれるの?」
「あ、ああ」
普段の小岩井とは違う、どこか子どもじみた様子に俺はドギマギしつつも頷いてみせた。
「きっとこれは何かの間違いだ。誰かが小岩井を陥れようとしてるんだ。たとえば罪を着せるような……」
そこまで考えて俺は首をひねる。
小岩井の体操着は血にまみれている。それこそ誰かを刺し殺したくらいのことをしなければならないほどに。
つまりだ。それだけのことがどこかで起きてなくてはおかしい。けれどお化けハウスの事件以外にその手の事件はこの街では起きていない、はずだ。
それともこれから何かが見つかるのか。
「とにかくこの血がなんなのか調べないと」
甲高い悲鳴が校舎を震わせたのはその時だった。
廊下に駆け出し、外を見る。そこは旧校舎がある場所だった。
悲鳴を聞いたからだろう。旧校舎から数人の人間が飛び出してくる。
この時間、旧校舎は演劇部の部室兼練習場所として使われている。きっと彼らは演劇部の人間だ。
飛び出してきた演劇部の部員らしき人たちは旧校舎の裏へと向かっているようだった。
「……、」
小岩井の体操着。そして旧校舎の方から聞こえてきた悲鳴。何か嫌な予感がしたのだ。
もしかしたら旧校舎の裏には……。
俺と小岩井は顔を見合わせる。小岩井の顔は青ざめていた。
もし旧校舎で見つかったものが小岩井の体操着に関係したものだったなら、小岩井はまず間違いなく疑われるだろう。
小岩井もそれに気がつき、不安にかられているのだろう。
「……俺は行ってこようと思う。小岩井はどうする?」
「……わ、わたしも行く。もし関係あるのなら、見ておかないと打開策を見つけられないし」
小岩井は震えながらも強い意志がこもった目で俺を見つめてきた。
不安で押しつぶされそうとしていても、身体を震わせ顔を青ざめようとも。小岩井は小岩井なのだと思った。
そういえばお化けハウスで死体を見つけた時もそうだった。
吐くほどに気分を悪くしながらも、小岩井は事件から目を背けようとはしなかった。それどころか犯人を捕まえてやりたいとそう言った。
今回もそうだ。
自分が疑われるかもしれない状況にいて、けれど決して諦めきっているわけではないのだろう。
俺は小岩井に小さく頷き、その手を引いて旧校舎へと急いだ。
☆
旧校舎の裏には使われなくなった焼却炉がある。近々撤去するという話があった。
その煙突部分にロープでぶら下げられた死体があった。
その周り、大きく距離を開けて数人の生徒たちがいた。
その場で嘔吐する者。茫然自失と死体を見つめている者。ショックのあまり泣き崩れている者。様々な姿で死体の周りに集まっていたのだ。
俺は生徒たちの間を通り抜け、その死体へと近づいた。
死体は少女のもの。全裸にされていて、全てが丸見えになっていた。
腕と足はなく、胴体だけがそこにある。その生気の消えた虚ろな瞳が俺たちを見下ろす。
首にロープが巻かれていた。そのロープは上へと向かう。煙突の先に引っ掛けられ、そしてロープの先は地面にアンカーを刺して固定してあった。まるで生肉加工場の冷凍庫に吊るして並べられた肉塊のように、死体は吊り下げられていたのだ。
首には締められたような痕があった。
腹を裂かれ、中にあったであろう腸はない。代わりに収まっていたのは折り曲げられた腕と足。
抜き出された腸は蛇が木の枝に巻き付くように、死体に巻き付けられていた。脇腹から始まり、胸元を通り、首に巻き付けられている。だが長い腸はそれだけでは尺が余りすぎていた。残りは背中の方から伸びて、腸の先は地面に垂れ下がっていた。
「……ね、ねえ。この子」
顔面蒼白の小岩井が絞り出すように言った。その先の言葉を、俺は知っている。だって死体を見れば一目瞭然だ。
「ああ。……これは黒河だ」
数日前に俺と乱闘を繰り広げた黒河が、今や見るも無残な姿でそこにいた。
俺は黒河の死体から目を背け、焼却炉の周りに視線を走らせた。
茂みの中にそれはあった。
拾いあげて確認する。
「……遠山?」
「なぁ、小岩井」
「な、なに」
「お前、生徒手帳は持ってるか?」
「え……」
「そこにこれが」
俺は小岩井に視線を向け、その茂みを指差して、次に手に持った物の中身を見せた。
「なに」
俺の手元を覗き込んだ小岩井は、不意にその動きを止めた。そして今度は慌てその場にしゃがみ込み、背負ったリュックを下ろし、中を探る。がそごそと、執拗に。
「……ない」
やがて小岩井が呟く。その声には感情という感情が込められていなかった。
その肩は心なしか震えているように見えた。
「リュックから生徒手帳なんて出した記憶ない。というか一ヶ月は触ってない。だって生徒手帳を使うときなんて滅多にないでしょ? ずっとリュックに入れたままにしていた。それなのにどうしてこんな場所にあるのかな」
落ち着いているように見えて、いつもより早口に聞こえるのは、心に余裕がないからだと思う。
そこに落ちていたのは小岩井の生徒手帳だった。開いた最初のページに小岩井の名前と写真が確かにある生徒手帳だった。
俺は小岩井の隣にしゃがみ込んだ。その肩に触れる。
「……最近、リュックから生徒手帳を出した記憶はないんだな?」
安心させるような言葉は思いつけなくて、代わりに口から出てきたのは確認の言葉だった。そんな自分に嫌気がさすが、どうしようもなかった。
「うん、出してない」
「最近、ここに来たことは?」
「ない」
「そうか」
小岩井はここ最近、リュックから生徒手帳を出していないと言った。そしてここにも来ていないと言った。
つまり小岩井がここで生徒手帳を落とすことはありえない。
小岩井の体操着に付着した大量の血痕。そして落とすはずのない場所にあった小岩井の生徒手帳。
ここから考えるに、罪を被せようとしている?
まだ小岩井の体操着に付着した血痕が黒河のものと決まったわけじゃない。けれど他に血痕が付着したと考えられる出来事は、今のところ黒河の死体だけ。たぶん黒河の血痕だと思われる。
つまり誰かが小岩井を黒河殺害の犯人に仕立て上げようとしている。そしてその誰かが黒河を殺害した真犯人ということになる。
もちろんこれだってただの推測にすぎない。だが可能性としては高いように思えた。
「彼女が犯人なんじゃないのかい」
不意にそんな声が聞こえた。振り返ると背の高い男が立っていた。
整った顔立ち、精悍とした瞳を持っている。男は世に言うイケメンと呼ばれる存在だった。
「……お前、誰だ」
「演劇部の沢渡だ。君は? 人に名前を尋ねるときは自分の名前もいうべきだと思うんだけどな」
「……遠山だ」
体操着姿の男、沢渡はゆっくりと俺たちに近づいてくる。そうしながら口を開く。
「そうか。じゃあ遠山くん。君たちの話からすると、そこに落ちていたのはそこの彼女の生徒手帳なんだろう? だったらさ」
俺たちの間近で立ち止まる。その瞳が小岩井を睨んでいた。
「彼女が犯人と考えるのが普通じゃないのか?」
小岩井の恐れていたことが起きようと、いや起きていた。
そのショックで力でも抜けたのか、小岩井が持っていたリュックが地面に落ちた。
リュックの蓋は完全に開いていて、紐を締め忘れた布袋が見えていた。小岩井の体操着が入った布袋。そこから覗く赤色に気がついて、俺はリュックに手を伸ばした。
だがその直前に沢渡がリュックから布袋を取り出した。
「これはなんだろうな。血痕の付いた体操着に見えるんだけどな」
「……、」
失敗してしまった。
小岩井の体操着を見られたらますます疑われてしまう。小岩井はそんなことをしないのに、ここに揃った物が小岩井を追い詰める。
このままだとやばい。俺の直感がそう告げている。だが打開策が思いつかない。
「君が犯人ということで決まりだと思うんだけどな」
「……ち、ちがう」
沢渡の言葉に小岩井が小さく呟く。
「わたしじゃ、ない」
「君じゃないなら誰だって言うんだよ。こんなにも証拠が揃っているのに。……この人殺し。しかもこんな酷い殺人をするなんて、君は最低の人間だな」
「ちがう。誰かがわたしに罪を着せようと……」
「罪を着せようとしている? 違うだろう? 此の期に及んで騙せると思っているのか?」
「……ちがう。……ちがうのに」
小岩井の表情が翳った。
俺は我慢できなかった。ゆっくりと立ち上がる。
「いい加減にしろよ。お前は警察でも何でもないだろ。勝手に決めつけるな」
「遠山くん。君は殺人鬼を庇うのかい?」
「殺人鬼じゃねえ。そいつには小岩井未知瑠って名前があるんだよ。殺人鬼なんて呼ぶな」
「……君はその小岩井って子に恋でもしているのかい? 恋は盲目って言うし、君は彼女の悪いところが見えないんだろうな。それはかわいそう……。待てよ? 小岩井だって?」
沢渡が思い出したように呟いた。
「なんだよ」
「小岩井って小岩井悟の家族か?」
「は? 何言って」
小岩井悟? ……どこかで聞いたような気がする。どこだったかは思い出せない。
「小岩井悟は殺人犯だ」
「え」
沢渡の言葉に俺は間抜けな声を出してしまった。
「三年前に連続女子中学生殺害事件があったのは覚えているかい? 小岩井悟はその事件の犯人だ」
三年前の連続女子中学生殺害事件……。そういえばそんな事件があった。犯人の名前は憶えていないが、事件の内容はなんとなく記憶している。
確か五人の女子中学生が死体で見つかった事件だ。
犯人は中学校で教師をしていた男だったはずだ。その男の名前が小岩井悟ということか。
「被害者たちと同じ学校にいたから、事件のことはよく憶えてる。しかも担任が小岩井悟だった。……裏切られたと思った。生徒たちに親身になって接してくれるいい先生だったからな。でも腹の中じゃ危ないことを考えていたってことだ。殺人鬼だとは露とも思ってなかった。正直に言って気持ちが悪い。最低な男だ。……確かあの男は娘がいると言っていたな。君なのか?」
沢渡が地面に座り込む小岩井を見下ろして言った。
その瞬間、小岩井の震えが止まった。そして彼女は俯いたまま口を開く。
「……確かに小岩井悟はわたしの父親だよ」
「やっぱりな。……でも、まさかその娘が同じ学校にいるとは思いもよらなかった。しかも父親と同じ殺人鬼だとはな」
沢渡の小岩井を見つめる瞳が、気味の悪いものを見る目つきへと変わった。強い軽蔑の感情が込められている気がした。
俺は何も言えず、ただ立っていることしかできなかった。小岩井にかけるべき言葉が見つからなかった。
そんな俺を他所に、不意に小岩井が立ち上がった。その瞳が沢渡を睨んでいた。
その小岩井の姿には不安も恐れも感じられなくて、怒気のようなものを感じた。そして今まで見たどんな小岩井とも違う雰囲気をまとっている。
「気持ちが悪い? ふざけないでよ。……お父さんの生徒だったのならわかるでしょ? お父さんがそんなことするような人じゃないって。どうしてわからないの? 身近にいたくせになんでわからないの? どうして、信じられないの? 犯人なわけないでしょ」
「逆に聞くけど、それならどうして君の父親は逮捕されたんだろうな。証拠があったからだろう?」
「誰かに嵌められたんだ。本当の犯人に嵌められたんだよ」
「嵌められた、ねえ。素人のくせによく言えるな。君の父親を逮捕したのは警察だ。警察はちゃんとした証拠を揃えて君の父親が犯人だと断定したんだ。君のように証拠もないのに嵌められたとか言うのとは違うんだ。どっちを信じるかなんて考えなくてもわかるだろう?」
「そうだけど、それでもお父さんは犯人なんかじゃない。わたしがその証拠を見つけてやる」
「残念ながらそうはならない。だって君は捕まるんだからな、殺人犯。……親子揃って気持ちが悪い」
「……ふざけなるな!」
小岩井が沢渡に掴みかかる。
「気持ちが悪いなんて言うな! お父さんを悪く言うな!」
「暴力的だな。さすが殺人犯だ。そうやって感情に任せてこの子を殺したんじゃないのか!」
そう言って沢渡が黒河の死体を指差した。
だが小岩井は止まらない。彼女は沢渡を突き飛ばし、地面に倒す。そして沢渡に馬乗りになって殴ろうとした。
俺は小岩井を後ろから羽交い締めにして、それをなんとか止める。
「放して! 放してよ、遠山!」
「やめろ! そんなことしたらますます状況を悪くするだけだだぞ!」
「でも! でも、こいつはわたしのお父さんを悪く言った! 気持ちが悪いって! 最低だって言ったんだよ! お前の方が最低だ! 二度とそんなこと言えないようにしてやる! だから放せよ! 放せッ!」
小岩井は完全に頭に血がのぼっているようだった。このままだと小岩井にとってよくない状況に追い込まれてしまう。なんとか落ち着かせないと……。
でも方法が思いつかない。俺じゃ何もできない。どうしたらいいんだ。
「落ち着きなさい」
突然、前方に誰かが現れたかと思うと、そう言って小岩井の頰をひっぱたいた。
それで小岩井は動きを止めた。小岩井の身体から力が抜けるのを感じた俺は、小岩井から手を放した。
どさりと小岩井が地面に座り込む。その顔は呆然としていた。
「し、いな……せんぱい」
小岩井の呟きに、彼女をひっぱたいた先輩が微笑みを浮かべた。
先輩は小岩井の目の前にしゃがみ込み、小岩井の肩に手をおく。
「小岩井さん。大丈夫よ、大丈夫だから」
「……椎名先輩。わたし、わたしっ」
小岩井は先輩に抱きつき、そして子どものように泣いた。
俺はその姿にほっとしながら、けれど心がざわつくのを抑えることができなかった。
それは小岩井の怒りを見たからだ。その怒りの中に小岩井のガラスの心を見た気がした。
小岩井は壊れそうなガラスの心を抱えて生きていたのだ。俺は今までそれに気がつかず、そして気がつこうともしてこなかった。気がつけるはずもないと、そうわかっていながら、それでも後悔することしかできなかった。
そして先輩のように小岩井を落ち着かせてあげることもできなかった。俺は無力だと思い知った。
だからこそ、せめてこの事件を解決することを誓った。小岩井を少しでも救えるように。
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