⑤
「ねえ、どうするんですか」
黒河凪沙は俺たちに問いかけてくる。その顔には再び笑顔が張り付いていた。その顔は俺たちの答えを楽しみにしている。そんな風に見えた。
けれど俺には答えがわからない。
そもそも証拠が証拠として扱われない理由がわからない。俺たちは証拠だと気がつくことができたが、その理由もわからない。警察に説明すれば証拠と気がついてもらえるのか。それとも他に条件があるのか。それがわからない。不確定要素だらけなのだ。
黒河凪沙が死ぬか、或いは口を割らない以上は事件の犯人としては見られない。そう黒河は言った。黒河凪沙を死なせることは俺たちにはできないし、そんな恐ろしいことはしたくない。自供を促すこともできそうにない。
どうすればいいのだろう。
先輩なら答えを出してくれるかもしれない。そう期待して先輩に視線を向けるが、先輩は相変わらず腕を組んだままで何も言わない。俺の顔を見ることすらしない。どうしてしまったのだろうか。
「……あのさ」
俺が頭を悩ませていた時、そう言ったのは小岩井だった。
振り返る。小岩井は俺たちから少し離れた窓の近くに立っていた。鼻を押さえ顔を青くしているが、初めてここに来た時よりもややしっかりしているように見えた。
「あなたはさっき【月下香の印】がどうとか言っていたよね?」
その言葉は黒河凪沙に向けられたものだった。
月下香の印。確かに黒河はそんなことを言っていたような気がする。
月下香という名前が付いていることに何やら胸騒ぎがする。やはり十年前の事件と関わりがあるのだろうか。
「……、」
黒河は何も答えない。
それでも小岩井は言葉を続けた。
「月下香の印があればこの事件に気が付ける。そう取れる発言もしてたよね? つまりあなたはその月下香の印を持っているか、或いはその存在を見たことがありしかも知っている。いえ、たぶん持っているでしょ?」
「……すごいですね。そこまでわかったんだー。失敗したな、これは。……確かに持ってるよ。月下香の印はですね、持ち主に繋がる物を関係ない物に見せることができるんです」
……そんなオカルト的な物がこの世にあるのか。否定したくなったが、実際に体験しているので否定できそうもなかった。
だがこれで俺たちが証拠に気が付けなかった理由も、警察がこの場所に辿り着けなかった理由もわかった。つまりその月下香の印とやらが事件解決の邪魔をしているということだ。
「つまりその月下香の印ってやつをお前から奪えばいいってことだな」
俺は黒河に向かってそう言った。
黒河は俺の顔をまじまじと見た後で、にっこりと笑ってみせた。
「その通りです。さすが遠山先輩。で、それがわかった遠山先輩はどうするつもり?」
「渡す気は、ないよな」
「もちろん」
「なら力づくで奪う」
「なるほど、なるほど! それはいいですね!」
そう言った黒河はおもむろに近くの壁に立てかけてあった斧を手に取った。そしてまるで侍のように構える。
「ならやってみてください。あたし、殺すの得意なんだよなー」
黒河は俺に向かって走り出した。そして勢いよく振り下ろす。
突然のことに俺は動きが遅れたがなんとかその刃先の下をくぐるようにして、斧を避けることができた。だがそのおかげで部屋の中に入ってしまった。
バタンと音がした。黒河は蹴るようにして扉を閉めたのだ。そしてすぐに後ろ手で鍵をかけた。
その時、ドアノブがガチャガチャと音を立てた。向こう側から開けようとしているのだろう。
『遠山!』
扉の向こうで誰かが俺の名を叫んだ。廊下側には窓がなく顔は見えないが、声からして小岩井だろう。
「俺は大丈夫だ! とにかく扉を開ける方法を探してくれ!」
俺は外にいる小岩井と先輩に聞こえるように叫び返した。
そうしてから視線を黒河に戻す。
黒河は俺の目の前で斧を持って立っている。気を抜けば殺されてしまうかもしれない。
そんな状況なのに、けれど不思議なことに俺は随分と冷静でいられた。理由はわからないが慌てふためくよりはマシなはずなので、よかったということにしておく。
「どうしたんですか? 遠山先輩。あたしから月下香の印を奪うんじゃないの?」
「そのつもりだ。なぁ、黒河。その危ない物を捨てる気はないか? こっちは手ぶらなんだ。公平じゃないだろ?」
「ん? 公平じゃないですか。ほら、そこら中に武器はある。それを使えばいいでしょ?」
そう言って黒河は部屋の中を見回す。
確かにこの部屋には武器になりそうなものはいくつもあった。
放り投げられたハンマーや壁に掛けられたククリナイフ。猫に死体に刺さったサバイバルナイフと思われる大振りのナイフ。ノコギリやペンチ。その他大小様々な道具がこの部屋にはあるのだ。
けれど斧に対抗できる物は少ないように思えた。
斧というのはリーチも長いうえ、振り下ろせば威力の高い攻撃となる。なら俺が選ぶべきものは頑丈でリーチの長いもの。
どれを選べばいい。
そう思案している途中で斧が振り下ろされた。
後ろへ飛び退いて躱す。斧の刃が床に突き刺さった。それを軽い調子で抜き取ると、黒河はさらに距離を詰めてきた。そして斧を振り回す。
横に縦にと振り回される斧を俺はなんとか避けていく。だが何かに足を引っ掛けて尻餅をついてしまった。
斧が振り下ろされる。その切っ先が俺に当たる前に、咄嗟に床に転がっていたハンマーを拾って防いだ。
ハンマーの木製の柄が真っ二つに折れた。折れたハンマーを黒河に投げつけることで距離を離すことに成功する。
けれどそこまでだった。俺は部屋の角に追い詰められていたのだ。
黒河がゆっくりと近づいてくる。
斧を振り下ろされたら、最初の攻撃を避けた時のように前へ転がろう。そう考え俺は身構える。
黒河が攻撃範囲まで近づく一歩手前、突然斧を投げつけられた。
予想外の動きに反応が遅れてしまったが、しゃがむようにして避けることができた。ガンっと頭上で音がした。見上げると斧が壁に突き刺さっていた。
瞬間、床を蹴る音がした。
俺はすぐに黒河の方へ視線を戻す。黒河の手には大振りのナイフが握られていた。猫の死体から抜き取ったサバイバルナイフだ。
それを逆手に持って俺に振り下ろしてきた。俺はその手首を掴んでなんとか止める。だが長くは持たない。
黒河は全体重をかけて俺を刺そうとしている。対する俺は床に座り込んでいて、状況は不利だ。
「ぐっ」
このままじゃヤバイ。
そう思った時、身体が勝手に動いていた。
俺の右足が黒河の腹に蹴りを加え、彼女を真後ろへと突き飛ばした。その拍子にナイフが空を回り床に突き刺さる。俺はそれを抜いて倒れた黒河に馬乗りになり、ナイフの刃を彼女の首に触れさせた。
「はぁ、はぁ……。これで追いかけっこはおしまいだな、黒河」
「いやー失敗しちゃったなー。もうちょっとだと思ったんですけどね」
「月下香の印ってやつを渡せ。じゃなきゃ」
「じゃなきゃどうするんですか? あたしを殺す?」
「まさか。お前じゃあるまいし。……ポケットがあるのはスカートと胸のとこだろ? 男にあんまり触られたくない部分だろ。お前自身の手で月下香の印を取り出してくれると助かる。じゃなきゃ俺がポケットを弄るぞ」
「この状況ならすぐにでも好き勝手にあたしの身体を弄れるのに、触りたくないときましたかー。あたしの身体に魅力がないのかな。自分で言うのもなんですけどー、あたしって男の子の好きそうな体型していると思ってたのにな。ほら身長とか顔はロリっぽくて巨乳。そういうの、ギャップ萌えとかいうんじゃないですか?」
「悪いな。ロリ巨乳は邪道だと思ってるから。いいからさっさと渡せ」
「遠山先輩ってチキンなんですか? いや甘すぎると言った方がいいのかな。それじゃあダメですよ」
そう言いながら黒河はスカートのポケットに手を伸ばす。なんだかんだ言いながら月下香の印を渡すつもりなのだろう。そう思って待っていると、黒河はポケットに手を突っ込んだ。
そして。
「脅すんだったらさ、こうしないとッ!」
黒河がポケットから抜いた手を振るった。
顔に痛みが走り、俺は咄嗟に黒河の身体から離れた。
頰に触れてみると液体の感触がした。触れた指先に目をやると赤い液体が付いていた。頰を切られていた。
「遠山先輩は甘いですよ。あたしを殺すつもりで脅さなきゃそうやって返り討ちにあうよ」
そう言って黒河が俺に突っ込んでくる。ナイフを俺のお腹に挿し込もうとしているようだ。
だから俺は黒河の突進を避けた。
黒河はすぐに方向転換しナイフを振り上げる。その隙を狙って俺は黒河に体当たりを食らわせた。
その拍子に黒河と俺のナイフが空を舞った。
黒河は壁にぶつかって倒れた。その身体を抑えようと俺は駆け出す。瞬間、黒河の蹴りが腹に入った。
よろけて倒れたところを黒河に馬乗りにされて首に手をかけられる。危機感に襲われて俺は黒河の腕に思いっきり噛み付いた。
黒河が怯んだところを狙い、身体を捻るようにして彼女を床に倒した。瞬間、黒河の胸ポケットから何かがこぼれ落ちた。
「しまっ」
黒河が慌てて拾おうとしたのを見て、俺はそれを蹴飛ばした。木製らしきそれは壁に当たって動きを止めた。
そこに向かって黒河は這うように手を伸ばす。俺はすぐさま黒河の肩を背後から掴み、彼女の身体を後ろへ投げつけた。
そして壁に走り落ちた物を拾った。
それは菱形でできた手のひらサイズの木板だった。花の絵が彫られている。
黒河の慌てぶりからするとこれが月下香の印というやつなのだろう。
俺は黒河を振り返る。
黒河は斧が刺さっていた壁に背中をぶつけたらしい。その壁の前で倒れている。その時、斧が壁から落ちて、それが運悪く黒河の肩に突き刺さった。
「があっああッ」
黒河が痛みに叫び声をあげた。
彼女の肩からは赤黒い血液が溢れ出している。見る間に彼女の服を赤黒く染めていった。
「……お、おい。大丈夫か」
思わず一歩黒河に近づいた。
すると黒河は睨まれた。その目には怨みが込められているように鋭く、途轍もない殺意を感じた。
黒河は痛みに顔を歪めながら、けれど片手で斧の柄を掴んだ。そして無理矢理肩から引き抜いた。片手に斧を持ち、フラフラとしながら立ち上がる。
右腕を伝って赤い液体が床に落ちていく。何度も、何度も。
「……殺す」
その幼い顔立ちと身長に似合わない、どす黒い声で呟く。その目は未だに俺を睨みつけていた。
命の危機を肌で感じ取った俺は黒河が鍵を閉めた扉に急いだ。瞬間、斧が飛んできた。
それを床に飛び込むようにして避ける。直後に響くガンッという音。そして俺の背中に何かが降り注ぐ。顔の近くに落ちた物を見ると、割れた瓶の破片だった。壁際に設置された棚に斧が突き刺さり、中にあったものがぶちまけられたのだろう。
俺はなんとか立ち上がり扉へと急ぐ。
床を蹴る音がして振り向くと、台を挟んだ反対側で黒河も走りだしていた。
目線を前に戻した瞬間、何かが目の前を横切った。ノコギリだった。
呆気にとられた俺の耳に、今度はガンッという音が聞こえてきた。顔だけで振り向くと鉄製の台の上を黒河が走っているのが見えた。その左手にはサバイバルナイフがあった。
黒河が台の上で跳び上がる。俺に向かって飛んだのだ。
咄嗟に足を止める。目前に黒河が着地した。
俺は黒河を思いっきり蹴った。黒河はよろめく。その隙を狙って体当たりを食らわせた。
黒河は壁にぶつかって倒れた。
それでも彼女は諦めなかった。
ふらふらしながらもまた立ち上がる。
何が彼女にそうさせるのか。わかるわけもなかった。
「さっさと死ねよッ! あたしに殺されろッ!」
黒河が吠える。怒りのためか、彼女の目は真っ赤に充血していた。
俺は思わず後ずさりをしていた。黒河の気迫に気圧されのかもしれない。
一歩一歩距離を取るように後ろへと足を進める。
そんな俺を追うように、黒河もまた一歩一歩距離を詰めてくる。
バリリという音が俺の足元から聞こえてきた。見ればガラスの破片が散らばっている。さっきまで俺が倒れていた場所だ。
横に視線をむければ棚に突き刺さった斧が目に入った。俺は手に持っていた月下香の印をズボンのポケットに入れ、その斧を両手で抜き取った。
黒河を牽制するように、斧のさきを彼女に向けて持つ。
けれど黒河は迷うことなく俺に飛びかかってきた。
黒河に対し、俺は斧を横向きに、それこそバットをスイングするよに、思いっきり振った。黒河の頭目掛けてだ。
結果リーチの長い俺の攻撃が先に黒河にヒットした。
黒河の身体が部屋の真ん中に鎮座する台にぶつかった。
脳を揺さぶられた黒河は台にしがみついて倒れないようにしようとしたが、掴み損なってそのまま崩れた。
彼女の手を踏みつけ、放したナイフを蹴り飛ばす。
これで終わりかと思ったら黒河の手が俺の足首を掴んだ。
「放せ」
「……ま、まだあたしは死ぬわけにはいかない。返せ」
そう言って黒河が俺の身体を伝って立ち上がる。俺は動けずにいた。
「別に俺はお前は殺そうとだなんて――」
「それがなくちゃ、あたしはッ」
俺の言葉を黒河が遮った。
彼女の血走った目が俺の目を射抜く。それは執念をにじませたような瞳だった。
「かえせッ!」
「ダメだ。お前にはもう罪を償ってもらう」
「そうはさせない。あたしは殺し続ける! やっと心が温まるものを見つけたんだ!」
「なんだよそれ。お前のやったことが心の温まることだって? そんな間違ってる!」
「だから何。そんなの関係ない。……ずっと心が冷え切っていたの。何故かはわからなくて、どうしたらいいのかわからなかった。そんな時に猫をね、抱いたの。温かかった。この両手が生き物の体温で温まった。それが心地よかった。その時ふと思った。身体の表面に触れてこんなに温まるのなら、身体の中身に触れたらどれほど温かいんだろうって。この冷え切った心すら温めてくれるんじゃないかって。もっと直接的な温かさを求めて、あたしはその猫の腹を割いた。血を浴びた。温かかった。冷え切った心が温まるのを感じた。もっともっと感じたかった。だから殺し続けた。だんだんと温かさだけじゃなくて、楽しさも性的な快感も感じるようになった。でもいつだってあたしが一番に感じていたのはやっぱり心の温かさだった。それを奪う奴は絶対に許さない!」
黒河の言葉に俺は絶句する。彼女の狂った心に物悲しさを感じ、そして。
「……お前、かわいそうな奴だな」
「……え?」
俺は気がついてしまった。黒河の事情を聞いて知ってしまった。
彼女は間違えてしまったのだ。大事なことに気が付けなかったのだ。
かわいそうな奴だったのだ。
「お前が求めていたのは温もりだ。家族が伝えてくれる温もりだったんだ」
「な、に。それ」
「温もり、愛情っていうのは。心を温めてくれるんだ。口うるさいって思うこともあるし、鬱陶しいと思うこともある。でも、そう思っていてもやっぱり家族といると安心するんだ。お前はさ、家族がくれる温もりを求めていたんだ。愛情が欲しかったんだよ」
「え、あたし……」
「なあ。動物たちを殺して温かさを感じられたって言ったよな。それでお前は満足したのか? それだけじゃ足りないから殺し続けたんじゃないのか?」
「そ、それは」
「あたりまえだ。だってお前が感じてた温かさは紛い物だったんだから」
「……う、そ」
黒河は俺から手を放し、力なく後ずさる。放心したように「うそ」と繰り返し呟く。その目は俺を見ていなかった。
パトカーのサイレンが聞こえてきたのはその時だった。
黒河は呆然とした表情でしばらく動きを止めていたが、やがてハッとしたように辺りを見回しはじめた。そして何を血迷ったのか、窓ガラスを突き破って建物から脱出した。
俺は窓に走りよって外を見た。黒河の足を引きずりながら逃げていく背中が見えた。
「……なんて奴だ」
俺はその場に座り込んでしまう。
物凄く疲れた。黒河と乱闘したせいか身体の所々に痛みがあった。俺よりも黒河の方が、精神的にも肉体的にも痛い思いをしているだろうが。
だがその甲斐あって月下香の印を奪うことができた。
この後、黒河がどうなるのかわからないが、一先ずは解決したということでいいのだろう。というか、そう信じたかった。
「とりあえず先輩たちのところに行くか」
ゆっくりと立ち上がり、鍵のかけられた扉へと向かった。
☆
扉を開けた先にいた小岩井と先輩はホッとした顔で俺を出迎えてくれた。
「よかった。無事だったみたいだね」
そう言って小岩井はその場にへたり込んだ。
どうも俺のことを心配してくれていたようだ。
「なんとかな。それよりもありがとうな。警察呼んでくれたの小岩井たちだろ?」
「わたしたちというか、椎名先輩がね。わたしは部屋に入る方法を探してて気がついたら椎名先輩が通報してた。ね、椎名先輩」
小岩井は静かにたたずむ先輩を振り返った。
先輩は小さく頷く。
「ところで遠山君」
そして彼女は口を開いた。
「黒河さんはどこへ?」
「逃げられました。パトカーのサイレンが聞こえた途端に慌てだして、窓から外に飛び出していきました。足を引きずっていたんで、たぶんそれほど遠くには行けないかと」
「……そう。逃げたのね」
先輩は呟くように言った。
腕を組み、何かを考えているようだった。
そんな先輩の様子を見ながら俺は思い出した。
俺が部屋で黒河と二人っきりになる前のこと。先輩は何も言わずにただじっと黒河を見つめていた。それどころか俺の視線にも反応せず、また俺たちの会話も聞いていないように思えた。
あの時、先輩はどうしてしまったのかという疑問を抱いた。その疑問を今きこうと思った。
「先輩」
俺の呼びかけに先輩が視線を向けてくる。俺はその顔を見ながら口を開いた。
「先輩はどうして黙っていたんですか?」
「何のことかしら」
「俺が黒河に閉じ込められる前です。黒河がいろいろ言っていたのに何の反応もしてなかったじゃないですか」
「……少し考え事をしていたのよ。それでドアが閉められたことにも反応が遅れてしまったの。ごめんなさいね」
「いやそれは謝らなくていいです。気にしてないですから。殺されそうにはなりましたけど、何とか生きていますし。……そんなことより、何を考えていたんですか?」
「気にしないでいいわ。そこまで深刻なことでもないし、確信が持てるまでは言いたくないことなの」
「……なるほど」
「ええ、ごめんなさい」
俺は先輩の目をじっと見つめる。先輩は俺の目を真っ直ぐに見つめ返してきた。何もやましいことはない。先輩の視線はそう語っている気がした。
けれど。これは俺の勘でしかないが、先輩は何かを隠しているように思えた。その何かはわかるはずもなく、けれどなぜか心がざわつく。
あの先輩が自分の考えを口にしない。彼女は深刻なことではないというが、本当は何かとんでもないことに気がついたのではないだろうか。先輩が口にするのをはばかるほどの何かに。
問い詰めたい気持ちもあったが、俺は口を閉ざすことにした。それが正しい選択なのか俺にはわからなかったけれど、問い詰めたところで先輩が口を割るほど、一度決めたことを覆すような人間でないことは十分にわかっていた。問い詰めたところで答えてくれるわけではない。
だから俺は口を閉ざすことにしたのだ。
「あ、そうだ。これを奪えました」
そう言って先輩と小岩井に月下香の印を見せる。
先輩と小岩井は俺の手に握られた木板を覗き込んだ。
「これが月下香の印……。特に変わったところはないね。もっと禍々しいものかと思ってた。……花の絵、か。何の花だろう」
小岩井が首を傾げる。花の名前には詳しくないらしい。
俺も花の知識はないからわからなかった。
「月下香よ」
そう言ったのは先輩だった。
「月下香というのは花なの。英名はチューベローズ。花言葉は危険な快楽」
「危険な、快楽」
その言葉に俺は黒河の恍惚とした表情を思い出した。
この事件に月下香の花言葉はぴったりな気がした。
「月下香。黒河はそんな花に惑わされていたんですかね」
「あら。遠山君にしてはずいぶんと詩的なことを言ったものね」
「そんな風に思えるほど、彼女は狂わされていたんです。かわいそうな奴です」
「……かわいそう、ね。遠山君はそう思うのね」
「え?」
「いえ、何でもないわ」
先輩にしては珍しく、寂しげな微笑みを浮かべていた。しばらくの間、俺はその横顔を見ていた。
☆
その後、俺たちはやってきた警察に事情を説明した。
怖いもの見たさでお化けハウスに浸入したところ、猫を解体する黒河に出会ってしまった。そして口封じのために殺されそうになった。
そう説明した。警察は納得してくれたのでそれはよかった。
それ以上問い詰められることはなく、俺たちは帰された。警察に送ってもらう形でだ。
だから俺と先輩と小岩井、俺たちだけで話をする余裕はなかった。
そして時間は流れ、数日後のこと。
俺は新聞部の部室へと向かっていた。
あれから警察は周辺を捜索した。けれど黒河の姿は見つからなかったらしい。
だが連続ペット失踪事件の容疑者として捜査されることになった。事件の証拠が見つかり出したのだ。きっと俺たちが黒河から月下香の印を奪い取ったからだろう。
きっとこれで事件は解決していくのだろう。めでたしめでたし。とは言いたくなかった。
黒河はかわいそうな人間だった。
犯罪に手を染めてしまったが、それでも同情せずにはいられなかった。こうなる前に誰かが手を差し伸べていれば、彼女は救われたのかもしれない。
そう思うと何とも言えない気分になった。
「黒河の奴、今ごろどこにいるんだろうな」
俺としては黒河に罪を償ってもらって、人生をやり直して欲しかった。彼女が間違いに気がついた今、本当の温もりを求められるはずなのだ。そしていつか見つけてもらいたい。そう思う。
だから早く黒河が見つかることを、できれば彼女が自首することを願っている。
廊下を歩きながら俺は窓から空を見上げた。あんな死闘があったとは信じられないほどに、綺麗な青空が広がっていた。
でも確かに現実だったのだ。その証拠に頰の傷はまだ癒えてはいなかった。
「二度とごめんだな」
平和な日常が続くことを願いつつ、視線を前に戻す。そこには部室へと繋がる扉がある。
この先には変わった先輩が待っている。これからもきっと、俺は先輩のわがままに振り回されるのだろう。少なくとも新聞部が廃部になるまでは。
それが俺にとっての日常なのだ。悪くない日常だと思ってしまう俺は、先輩に毒されているのかもしれない。
自嘲気味に笑った俺はその扉を開けた。
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