第15話
「どうかしました?」
「最近、また、魔が多くなった気がする」
ポツポツと等間隔に続く街灯の道を二人で歩いていた。暗闇に包まれた中では街灯がスポットライトのように目立っていた。
いつもの巡回時間を過ぎてまだ10分。それなのに、魔は3つも出てきていた。数が多い分小さいが、この短時間でこんな数は今まで見たことがない。
「そうですね。一度は少なくなりましたよね。確か、美月様が女の子を助けた日」
「あぁ、そうだな」
あの日の夜は、確かに魔が少なかった。次の日も数は少なかった。それなのに、徐々に魔が増え始めている。
「ひょっとして、井倉さんでしょうか?」
「井倉さん?」
「そうです。井倉さん。実は美月様に感謝をしたものの、やっぱり、美月様に対してまだよく思ってないんじゃないでしょうか?」
「そうなのかな」
確かに一度感謝されて以来、特に井倉さんとの接触はない。あれだけ気味悪がっていたんだから、そのときは感謝したのだとしても、ケンの言うように、やっぱり、あとあとになって、気味悪がっているのかもしれない。
「でも……」
「でも?」
「そんなに悪い人には見えない」
「美月様、しっかりしてくださいよ」
急にケンが走りだし、私の前に立ちはだかる。
「井倉さんは美月様にたくさん酷いことを言ったじゃないですか!」
「まぁ、そうなんだけど」
「美月様は優しすぎるんですよ。あんなに酷いことを言われたのに」
「たぶん、井倉さんが本当によく思っていないんだとしたら、また、嫌味言ってくると思うよ。あぁいうタイプは回りくどいことしないから」
ケンの横を通り抜けていく。本当に街灯だけが頼りで、街灯のないところなんて、本当に何もないのではないかと思うほど、闇に飲み込まれていた。
「確かにそうかもしれませんけど」
隣に並んでケンが歩く。まだ不満があるようで、唇がほんの少しだけ、とがっていた。
「それより何だか学校が気になるんだ」
「学校なんてもういいじゃないですか。川上君のことは一件落着したんですから」
「そのこととは別だ。何だか学校の方から嫌な気配を感じる」
「まぁ、美月様がそうおっしゃるのなら着いて行きます」
そうして、二人で学校へ向かった。ただ、学校へ向かえば向かうほど、魔の数は増える一方だった。
「誰か学校にいるんでしょうか?」
魔を封じ込めて絵巻を広げる。今日の分だけでもう10はあった。
「学校に近づくほど、魔が増えてるんだから、誰かいても不思議じゃないな」
川上のあのUFO騒動じゃないが、誰かが、学校で今度こそ呪いなんてやっているかもしれない。たとえば、誰かの机やらロッカーから持ち物を取り出して、呪いに使うとか。
学校に着くと、やけに静まり返っているような気がした。闇に飲まれた白い校舎がかすかに見える。少しぼやけて映る校舎がまた不気味だった。
「何だか怖いですね」
この間の川上騒動のときとは違い、校舎から何か嫌な気配を感じる。間違いなく、魔の気配だ。
「つべこべ言わずに行くぞ」
「あっ、待ってくださいよ」
校門を超え、教室棟の方へ回ったが、特にこっちから気配がしない。むしろするのは特別棟の方だった。
「特別棟の方から気配がしますね」
二人で特別棟の方へ振り返る。1階の廊下で一瞬、何かが光った。
「美月様」
「あぁ、行くよ」
とは言ったものの、どこから入るのか。1階部分にもある渡り廊下から入れるドアを開けようとしたが、鍵が掛かっていた。
「手分けして探すよ」
そうケンに言うと、ケンはそそくさと校舎の反対側へ走っていく。この中に誰かがいるのは確かだ。きっと、さっき見た光は懐中電灯か何か。ひょっとしたら、もう、窓の鍵を閉めているかもしれない。それでも1つずつ廊下の窓を確かめていく。
「美月様、ありましたよ」
少し息を上げたケンが戻ってくる。そして、二人で向かった先は女子トイレだった。
「女子トイレ?」
「そうみたいですね。あとそれと、理科室に怪しい人影がありました」
「……わかった」
先に私が中に入ると、ケンは少し戸惑いながらも、窓のふちに手をかける。
「見てませんから」
「誰もいないだろ」
手で目を覆い尽くすケンの手を剥ぎ取り、廊下に出る際に二人で靴を脱いだ。一応、何かあったときのために靴を手に取る。
「美月様の分は
「それじゃあ、ケンの手がふさがるだろ」
「大丈夫です。それに、美月様は紙者使いですから、両手が空いている方が何かとよろしいかと」
私の返事も聞かないままに、ケンは私の手から靴を奪い取っていく。そのタイミングで笑顔を向けられてしまったので、仕方なく、二人で理科室前へ向かった。
「確かに何か聞こえるな」
ドアの前にしゃがんで耳を澄ます。ガラス同士が当たるような高い音がさっきから響いていた。ドアの小窓からそっと中を覗いたが、人影は見えるものの、はっきりとした顔まではわからない。ただ、体系が細いし、女子トイレの窓が開いていたことを考えると、中にいるのは女子なんだろう。
「行くよ、ケン」
ケンが一呼吸して頷いたのを確認した。
「そこにいるのは誰?」
勢いよくドアを開けた。壁にドアが当たった激しい音が、さっきまで聞こえていた音を瞬時に切り裂いた。
「……葵ちゃん?」
真っ先に口を開いたのはケンだった。それと同時に靴を落としてしまった。暗い理科室の中、葵は、机にいくつものビーカーを並べていた。いつもとは違う、Tシャツにジーンズというラフな格好をしているために少し違和感を覚えた。
「やっぱり」
「やっぱりって、美月様ご存じだったんですか?」
葵と私を交互に何度もケンが首を振る。
「いいから、黙っていな」
そうやって二人で話をしている間も葵はそこから一歩も動こうとはしない。手にしたビーカーを眺めて静かに笑っていた。
「こんな時間にどうしたの?」
そこで初めて口を開いた。手にしたビーカーを揺らしながら。
中に入った液体チャプンと音を立てる。
「それはこっちのセリフ。こんな時間にこんなところで、何してるんだ」
「やっぱり、美月はそういう人だったんだね。言葉づかいが悪いわね」
「それがどうかした?」
相変わらずビーカーをゆすり続ける葵に二人でそっと近寄っていく。よく見ると、机に置かれたビーカーには全部液体が入っていた。そして、机の端に何か書かれたノートが広げられていた。
「どうもしないわよ。別にここで理科の実験してただけじゃない」
「こんな時間に? そもそも、ここの鍵は?」
「鍵?」
そこで葵が少しほほ笑む。
「これのこと?」
やっと、ビーカーを机に置いて、ジーンズのポケットから取り出す。わっかに通った鍵はいくつも重なって、耳障りな音を出す。月夜に照らされて鍵が鈍く光った。
「この学校って私立の割にはセキュリティ甘いわよね。先生も何だか品のない先生というか、馬鹿な先生ばかりだし」
「盗んだの?」
「まさか、そんなことするわけないじゃない」
そう言って、またジーンズのポケットへ鍵を押し込んだ。
「先生にね、この間の体験入部でうっかりシャーペンを落としてしまったから、取りに行きたい、そう言ったら、先生、ここの鍵を貸してくれたのよ。薬品なんかが保存されてる棚の鍵と一緒にね」
ビーカーに葵が手を伸ばす。ビーカーのラインを指でなぞって、そっと、持ち上げた。
「だから、私、それで全部合い鍵作ったの。先生も馬鹿よね。理科室の薬品管理ってきちんとしなければいけないはずなのに」
「それを使って何をする気?」
机一面に並べられたビーカー。何が中にあるかはわからないが、よくないものを作ろうとしているのはわかる。
「何って、実験じゃない」
「実験じゃないだろ」
「口で説明したって美月にはわからないでしょう?」
それはごもっともだとは思う。
授業は最低限のことしか聞いていないし、でも、問題はそこじゃない。
「知らないんじゃない? ちゃんとした知識さえあれば、ここにあるもので、人を殺すことだってできるのよ」
「こ、殺す?」
それまで黙っていたケンが茫然と机を端から端まで眺めていく。
「そうよ。私はここにいるような人たちと違ってちゃんと知識があるから」
そう言って手にしていたビーカーから近くにあったビーカーに注ぎ込む。
「何をするんだ!」
「そんなに焦らなくても大丈夫よ。爆発物を作ってるわけじゃないんだから」
そう言って、ビーカーを机に置く。コンという乾いた音がした。
「でも、どうして」
「そんなの殺したいほど憎いやつがいるからに決まってるじゃない」
「そんな、人殺しなんてしたらダメだって、それぐらいことくらいわかるだろ」
「何、偉そうなこと言ってんのよ。こんな高校に通ってるくせに。私だって、本当は……」
前のめりになって喋っていた葵が、急に静かになる。視線を落として、机に置いていた右手を強く握った。
「あいつがいなければ。あんな奴がいなければ、今頃、私はこんな学校に来てなかったのに」
思いっきり机に拳を葵が叩きつける。ビーカーが微かに揺れた。
「……美月様」
「あぁ、わかってる」
葵の足元には魔がポツリポツリと小さな魔たちが姿を現していた。
「出ておいで」
ポケットから取り出して呟くと、紙はあっという間に金槌に形を変えた。手に重くのしかかる。本当はナイフか何かを出したいところだけど、こんな状態の葵の前でナイフなんてものを出すのは危険すぎる。
「何よ、いきなり何をする気?」
急に手に出てきた金槌を見て、葵の表情が一変する。目を見開いて、金槌に手を伸ばそうとした。
「とにかく、その誰かを恨むのをやめろよ」
伸ばそうとした手から離れて、床に広がっていく魔を一つずつ叩いていく。まるで、もぐらたたきのようだ。ケンも隣で、足で魔を踏んでいく。
「あなたたち何をしてるの?」
四つん這いになって金槌を持つ私と、何度も床を踏みつけるケンを見て、葵がさっと後ろへ下がる。
「おかしいんじゃない?」
魔をいくつか叩いて弱らせて、ポケットから魔絵巻を取り出す。宙へ投げると、勝手に広がってなだらかに宙を泳ぐ。
「早く入りな」
その掛け声とともに、絵巻は淡く水色に光りいくつもの魔がそこへ吸い込まれていく。
『あんな奴、死ねばいいんだ』
魔を吸い取った瞬間、いくつも声が聞こえたが、どれも同じ言葉だった。
「とにかく、何があったかは知らないけど、そんなに人を恨むのは止めた方がいいって」
黙ってケンに握っていた金槌を渡すと、まだまだ葵から湧き出てくる魔をケンが叩いていく。
「あんたたち、おかしいんじゃないの?」
頭が一瞬、揺さぶられたような気がした。
「一体、何してるの。床を叩いたり、蹴ったり……。紙者使いって、だから、嫌われるんじゃない」
四つん這いになるケンを一瞥すると、私を睨みつけた。
「やっぱり、葵もそう思ってたんだ」
葵だけは私の味方をしてくれる、そう思っていた。何の偏見もなく、接してくれた初めての友達だって。
でも、この間から不必要に声を掛けてくるようになってからは、疑問に感じていた。一つ、疑問を抱いてしまうと、葵の様々な部分が気になり始めていた。
そもそも、紙者使いだと知ったときは目を合わせてくれなかった。それだけじゃない。呪いができないとわかり落ち込んだ川上にたまたまかもしれないと声をかけた葵。体験入部の夜に魔が減ったタイミングも、サークルに入らないことを不思議がったのも、その日の夜からまた魔が増えだしたのも、すべてが気になりだした。本当は呪いを考えてるのは葵なんじゃないかって。それでも、どこかで葵はそんな子じゃない、違うって信じてた。だけど、
「名前で呼ばないでくれる?」
そういう間にも次々、魔は生まれていく。
「大体、何で私があんたなんかと親しくしたと思う? 利用するために決まってるじゃない」
「……利用?」
「そう、利用よ。だから、クッキーだってあげたでしょう? そうすれば、私に対して優しくしてくれるって思ったのよ。でも、とんだ役立たずね」
葵の言葉がどこか遠くで聞こえたような、今見ている景色が何だか、テレビ越しに見ているような気さえした。頭を殴りつけられたようにも感じたし、でも、胸のあたりをナイフか何かでえぐり取られてしまったような、そんな感覚もした。
「美月様!」
ケンの声ではっとした。
「痛っ」
小さな魔たちがいくつも重なって私の足元にまとわりつく。中には足にかじりつく奴までいた。ケンが金槌で一つずつ叩き潰していく度に、魔は震えながら酔っ払いみたいに頼りなく私の足元から落ちていく。
「本当に変な人たちね。紙者使いと聞いて、最初は私も関わるのをやめようと思ったわ。あんたがクラスで一番、まともに見えたけど、これはもう諦めるしかないって思った。でも、しばらくして、こうも考えたわ。本当に色々なものが出せるのなら、人を殺すことだって簡単にできるんじゃないかってね」
「そんなことするわけないだろ!」
「どうかしらね。何でも出せるんでしょう?」
「だからって、人殺しなんて絶対しない!」
相変わらず葵のそばからはあふれるように魔が飛び出してきている。
「じゃあ、何よ。私が悪いっていうの。あいつがいなければ良かったんじゃない。あいつが、あいつが……葵は賢いから羨ましい、私はたくさん勉強しなくちゃいけないから、って人のことを言っておいて、自分だけぬけぬけと、希望の女子高に受かったんじゃない。あいつがいなければ、私が通うはずだったのに!」
その声と同時に魔は葵の足元から湧いて出てきた。
「美月様、もうそろそろ封じ込めないと」
ケンの体力も限界らしい。慌ててまた絵巻を宙に投げる。
「何よ、こんなもの宙に浮かせて。私が、どうせ何もできないって馬鹿にしてるんでしょ」
葵はそう言って、泣きながら宙に浮いた絵巻を取った。広がっていた絵巻も葵の手に収まると、だらしなく下に垂れていく。
「馬鹿になんかしてない。でも、こんなことするのはどうかしてる。希望の高校に行けなかったのを人のせいにしちゃいけないだろ」
「うるさい!」
「本当はわかってるんだろ。他人なんか関係なく、自分の勉強不足だったって」
「うるさいうるさいうるさいうるさい」
そう言って、葵は絵巻をきつく握りしめていく。そうこうしている間にも、葵から出てくる魔はとどまるところを知らない。それどころか、出てくる魔は段々と大きくなってきている。
「とりあえず、その絵巻返して」
「知らない。黙れ。肩つかまないでよ」
しゃがみこんだ葵が叫ぶ。心配していたことが起こってしまった。
教室内にいた魔が集まって大きくなってしまった。辺りを見回してもそれまで床に這いつくばっていた魔はどこにも姿がなかった。
「いや、何よこれ」
その声と共に、葵は絵巻を床に落とし、倒れた。葵のそばに駆け寄ると、この教室の天井まで届くかと思うような高さのある魔が葵に覆いかぶさっていた。やがて、体の形を変えて、細いロープのようになっていく。
「やっ、やめて」
ロープは葵の体に巻きついていく。しゃがんだままの体勢で魔はきつく巻き付いていった。
今、念の込めてあるストックを思い出す。でも、銃や剣ばかり。こんな風に葵に巻き付いてるんじゃ、そんなもの使えない。
「葵ちゃん」
ケンが葵に近寄って、魔を引き離そうとする。少しだけでも、引っ張って切ることができれば良いが、岩のように魔は動かない。まるで、葵に吸い付いているようだ。
「何、これ。いやぁ」
葵は叫びながら、床を左右に転がる。
「ちょ、葵ちゃん、動かないでください」
隣にしゃがみこんだケンを突き飛ばし、葵は床を左右に転がり続ける。
どうしたらいいんだ。
頭に色々なものが駆け巡る。でも、どれもこれも、こんな風に巻きつかれたんじゃ、何も使えない。目をつむっても、葵の暴れる音だけが、耳に届く。
ボンレスハム。
ふと、頭に思い浮かんだのは、この間の魔を封じ込めたときのことだった。あのときはピアノ線で魔を縛り付けた。でも、今の魔のようにロープくらいの太さなら、ピアノ線でも切ることができる。それに、ピアノ線は細くて頑丈だ。何とか隙間から入り込むことができるかもしれない。
やわらかくて、細く、長い。そして、鳥が空を自由に駆け回るように、滑らかに宙を舞う。
「出ておいで」
紙を宙へ投げると姿を現したのは、前と同じピアノ線。
「お願い、間に潜り込んで」
ピアノ線につぶやくと、次第に葵に吸い込まれるかのように、ピアノ線が飛んでいく。
「ピアノ線ですか?」
「そう、ひょっとしたら、隙間からうまく行けるかもしれない」
吸い込まれていくピアノ線を二人で見守った。いろんな角度からピアノ線は入り込もうとするが、やっぱり、入れないようで、私の手元に戻ってきてしまった。仕方なく、机にピアノ線を置く。
「ハサミはどうでしょうか?」
「ハサミ?」
「そうです。ハサミでもこの程度の太さなら切れるんじゃないでしょうか?」
動こうとする葵をケンが押さえつける。それでも、葵は、ゴロゴロと転がり続けていた。葵は眉間にしわを寄せたまま、うめき声をあげていた。
「出ておいで」
紙を放り投げて、手元にハサミを出す。
「何をする気?」
一瞬、ハサミを見て目を見開いた葵の動きが止まったかと思うと、さらに暴れ出す。
「これじゃあ、切るにも切れないな」
転がり続ける葵にふと目をやった。
「ジーンズ。ジーンズだ、ケン」
「ジーンズ?」
ようやく少し動きの弱まった葵を二人で見つめる。かなり苦しいようで、肩で小刻みに息を整えていた。
「いいから、早く。ジーンズのボタンを外せ」
ハサミを机に置き、代わりにピアノ線を手に取る。
「はっ、はい」
葵のジーンズのウエストあたりに、ななめがけするように魔は巻き付いていた。ボタンを取れば、一瞬だけでも、そこに隙間ができるかもしれない。
「し、失礼します」
ケンは目をつむって、ジーンズのウエスト部分を掴んだ。微かに手が震えてる。それが、
照れからくるものなのか、なかなか、外せなくてくるものなのかはわかなかった。
「もう一度、行っておいで」
私も手元のピアノ線に呟くと、ピアノ線はゆるりゆるりと葵のジーンズへ向かった。
「は、外せた」
その声と同時にピアノ線が潜り込む。
「何とか入ったな。あとはこれを切るだけだ」
ピアノ線はロープ状になった魔の近くで固結びをし、自ら切ろうと引っ張るが、魔に食い込んでいくだけでとても、切れそうにない。
細くなって圧縮されている分、魔が固くなってしまったんだ。ケンと二人で引っ張ったが、びくともしなかった。
「……滑車」
「えっ?」
急に聞こえてきたのは下でうめき声を上げ続けていた葵の声だった。
「滑車?」
「滑車……岩を付けて放せば力が出るでしょ」
息を途中途中整えるように葵が話していく。
「なるべく……重たい岩」
「わかった」
葵の言葉の通り、滑車を呼び出して、そのまま天井へ取りつくように指示を出し、床に穴が開いては困るので、マシュマロのように柔らかいマットも呼び出した。そして、最後に、
「出ておいで」
頭の中でイメージしたいのは羽のように軽い岩。でも、掛け声と共に学校をも揺らしてしまうかと思うほど、重たくなる岩。
私のイメージ通り、岩は宙を浮く。
「滑車を通って、岩に巻き付いて」
ピアノ線にそう言うと、葵のお腹の上でしなだれていたピアノ線は、滑車に飛びつき、そしてその先にある岩にぐいぐいと巻き付いていった。
「もう、いいよ」
そう言うと、岩は肩の力を抜いたように、マットへ身を放り投げた。
「ちょっと、揺れましたね」
ケンの言うように、耳障りな音共に、理科室の窓が騒ぎ立てた。
「でも、切れた」
葵の方に目をやった。強張っていた体だったが、体を少し伸ばしていた。
二つに千切れてしまった魔はミミズのように床を這いつくばっていく。
床から絵巻を取り出し、宙へ投げた。
「早く入りな」
私のその声を聞くと、宙に身を委ねていた絵巻は淡く水色に光って、2つの大きなミミズを吸い取っていく。
『あんな奴、死ねばいいんだ』
手元に戻ってきた絵巻を握りしめる。こんなにも葵は誰かを恨んでいたんだ。
「ごめん」
しゃがんで葵に声をかける。葵はうっすらと目を開けた。
「何であんたが謝るのよ。私はあんたを利用しようとしたのよ」
ゆっくりと体を起こし、葵が地べたに座る。
「利用しようとしたのはすごく傷ついた。でも、利用しようとしてまで、誰かを恨んでた。そこまで、葵は追い込まれてたのに、全然、気が付かなかったから」
「だからって、何で助けるのかもわかんない。普通、嫌になって放っておくでしょ」
「目の前で苦しんでるだから、助けるに決まってる。それに、助けるって言っても、滑車は葵が教えてくれた。私なら、そこまで頭が回らない。それに、葵に声をかけられたとき、すごく嬉しかったから」
葵は黙ったままだった。でも、この気持ちに嘘はなかった。さっきの言葉で傷ついたのも事実。でも、声をかけられて嬉しかったのも事実だ。
「あんたの言う通りね。自分の勉強不足がいけないんだわ」
そのあと、葵は泣き続けた。私とケンが紙者や、机にあったビーカーを片付ける間も、葵はずっと泣き続けていた。
「人のせいにしてずっと逃げてきた。それでも、私はみんなと違うってどこかで思ってた」
ひとしきり泣き終えた葵が机につかまって立ち上がる。
「色々とごめんなさい。こんな風にあの子を恨んだのもそうだけど、あなたの気持ちを踏みにじるようなことをして」
理科室を出ていくとき、葵は最後にそう言った。
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