第14話
「今日はずっとご一緒できるんですね」
1限目の現代文が終わってすぐにケンが嬉しそうに笑った。今日は体育を担当する先生が1人しかいないらしく、男女共にグラウンドへ集合ということになったのだ。
「毎日、ずっと一緒にいるだろ」
「いつもなら、美月様が体育館だと男子はグラウンドだし、逆に美月様がグラウンドだと男子が体育館ですから」
ちょっとの間のことなのに、ケンはいたく嬉しいようで、ずっとこの調子だった。授業も寝ようと思ったが、隣にいるケンが少し鼻歌を歌ったり、にんまり笑ったり姿を見ると、どうも寝れなかった。
「美月、行こう」
体操着の入ったピンクのトートバッグを掲げて葵が駆け寄ってきた。グラウンドで体育の授業をする場合でも、一度、体育館の更衣室に行かなければいけない。
「じゃあ、美月様またあとで」
そう言って、ケンもトートバッグを手にした。男子用の更衣室も体育館にあったが、結局、みんな誰も使わず、教室で着替えを済ませていた。そそくさと、教室をあとにする女子に続いて私たちも廊下へ足を踏み出す。
「本当に仲がいいのね」
体育館へ向かう途中、葵がポツリと口を開く。
「小さい頃からよく一緒に遊んでたから」
「そうなんだ」
「でも、ちょっと、様つけるのは……」
美月様。
そう呼ばれることに違和感はない。
呼び出した頃からケンは私のことをそう呼んでいるから。様づけをやめるようにと何度も注意したが、ケン曰く、『呼び出してくださった主(あるじ)様に対してそのようなことはできません』とのことだった。それでも、だいぶ、くだけてきた方だとは思うけど、もう少し、友達みたいに接してくれても良いのにとは思う。
「もう、癖になっちゃってるのかもしれないね」
特に私の家のことには触れず、葵はそれだけ言って更衣室に入って行った。
様づけでも良いけど、学校で言うと、やっぱり、ケンまで浮いてしまうから、それだけが心配だった。今だって、結局、クラスメイトは馴染めてないし、サークルだってたぶん、もう辞めるだろうし……。
「美月?」
中から葵が覗き込む。
「ごめん。今行く」
着替えを終えてグラウンドへ出ると、うちのクラスと隣のクラス全員が、グラウンドの校舎沿いの方へ集まっていた。男子と女子の間に少し距離はあるものの、まだ、先生が来ていないこともあって、みんな喋ったり、中にはしゃがんで喋ったりする子までいる。
男子でうようよとする集団の中にケンが1人で立っていた。みんなそれぞれ何人かでまとまっているというのに、ケンのまわりだけ異様に間隔がひらいている。誰1人としてケンに話しかけるどころか、見ようともしない。
「だから言ったのに」
「何か言った?」
女子の集団の端の方で葵と二人で並ぶ。
「何でもない」
せめて、様づけするのをやめれば、いや、そもそも、私に関わらなきゃ良かったのに。
それでも、ケンは私と葵の姿を見つけると、また、あの笑顔を見せつけた。
「男子はこっちー、女子はそっちにわかれて。クラス別に並べよー」
チャイムが鳴って先生が来ると、みんなの声が静まり返った。
「今日は安藤先生も竹中先生もいないから、俺一人だからー……。ええっと、男子は野球、女子はタイムとか色々はかるから」
先生の指示で、男子は小屋から野球用具を出して準備を始め、女子は少し離れたところで先生に渡されたバインダーやシャーペン、ストップウォッチを受け取った。
先生もどちらかにつきっきりというわけにいかないから、たまに男子の様子を見に行ったりしている。
「じゃあ、今日は100メートルのタイムを計るから」
グラウンドの端で女子が並んで先生を待っていると、目の前に広がる、トラックを指さす。辛うじて見える白線の向こうで、男子たちは野球を始めていた。
「あの辺りがスタート、あの辺りがゴールだから」
先生はそう言って、男子たちの元へ戻ってしまった。
最初は戸惑いつつもあったが、誰かが言い始め、タイムを計り始めた。私も葵もみんながあまり走りたがらないから、始めの方に走った。
「じゃあ、あとはやっておいてくれない?」
井倉さんは放り投げるようにバインダーを私に向けた。取り巻き2人の片割れも、葵にバインダーを申し訳なさそうに頭を下げながら渡す。葵がバインダーを受け取ったので、私も黙ってバインダーを受け取った。井倉さんたちは男子の野球を見に行くようだった。
二人でみんなのタイムを記録していく。私たちが計っているのは嫌らしく、ゴールした途端、みんなグラウンドの端の方や、男子の野球を見に行ったりしていた。かと言って、誰かが代わりにタイムを計ってくれるわけでもない。隣のクラスの子の分は隣のクラスの子たちが書いている。でも、途中で誰かが「代わるよ」という会話を何度も耳にした。
「全員終わったね」
葵が笑ってバインダーに視線を落とす。二人のバインダーには女子全員の名前が元から印刷されていた。葵の分には出席番号順に早い人から10人分。私の分は後半から10人分だった。一応、先生は予備も用意していたようで、二人でグラウンドの端へ行くときに風でめくれてもう1枚予備が下から姿をのぞかせていた。
「あの辺で休もうか」
グラウンドの端を目指して歩いていると、葵が指差した。野球を見学する女子と、少し離れたところでおしゃべりしている女子とのちょうど中間くらい。
「うん」
気を遣ってくれたのかもしれない。野球の近くは井倉さんがいるし、向こうの軍団だって私をよく思わない人がいるだろうから。
フェンスに二人でもたれかかって、ぼんやりと野球の方に目をやる。さすがに男子全員となると、あぶれる男子もいるようで、少し離れた場所で、何やら笑いながらキャッチボールをしたり、だらだらとバットを持って素振りをしたりする男子もいた。
ケンはというと、空振り三振ですぐにおわってしまった。つまらなくなってバインダーにもう一度目をやった。
「こら、そこで何してる」
急に聞こえた大きな声に驚いて思わずもたれかかるのをやめた。顔を上げると、先生が離れた場所でちりちりになった男子たちに注意をしていた。
「えっ」
葵と二人で思わず声を上げる。
素振りをしていた男子のバットが手から簡単に放り出された。
「危ない」
誰かの声が聞こえて、バットの先に目をやった。野球を見学している女子たちに吸い込まれるようにバットは飛んでいく。
「美月?」
隣にいた葵が肩に手を乗せる。でも、何も言わずにバインダーの予備の紙を破いて目をつむる。
首が痛くなるほど見上げなければいけない高さ、校門くらいの長さ、教室の机が丸ごと入りそうなくらいの厚さ、あとはマシュマロのような弾力。
気がつかないうちに眉間にしわが寄っていた。まっさらな紙でない分、いつも以上に念を込めなければいけない。こんな紙でしたこともないし、そもそも、こんな人前で呼び出しちゃいけないのは暗黙のルールだ。
でも、
「出ておいで」
紙を空へ放ってつぶやくと、紙は音を立てて自ら紙くずと化していく。やがて、泡のように大きくなっていくと、私の思い描いたものとなった。
地震でも起こったのかと一瞬錯覚した。
大きな音と共に、野球を見学していた女子たちの前に、彼女たちの何倍もの高さ、そして、横に長い、白くて分厚いマットが立ちはだかった。見学していた女子たちのところが瞬時に影となった。
「良かった」
マットが出た直後、バットはマットへ当たり、弾かれて転げていく。みんなが息を飲んだのがよくわかった。転げていくバットの乾いた音だけがよく響いた。
「散ってもいいよ」
音も立てず紙に戻ると、千切り絵のように細かくなっては、桜の花びらのように小さくひらひらと舞って消えていく。女子たちが桜並木の下にでもいるかのようだった。
「……美月」
隣で葵がそれだけ言って、私の瞳をとらえた。
「あっ、ほら、紙者使いだから」
「そう」
葵はそれ以上何も言わなかった。
でも、これで葵も少し距離を置くかもしれない。その証拠に、グラウンドにいたほとんどの人の視線が私に集中している。きっと、また、気味が悪いとか色々思われているんだろう。
野球を見学していた女子たちに目をやった。すっかり、紙はなくなっていて、みんな、ただ、茫然と私に視線を投げかける。井倉さんと目が合ったが、すぐに視線を外されてしまった。
「美月様、あまり無理なさらないでくださいね」
体育が終わって次の授業が始まる前、ケンはそれだけ言った。
あのあと、葵があれ以上深く訊いてくることもなく、いつも通りだった。他のみんなも遠巻きに見ているだけで特に何か話しかけられることもなかった。
「あの藤堂さん」
結局、何事もなく、授業は進んでいき、あっという間に昼休みとなったときだった。井倉さんは取り巻き2人を連れ添うわけでもなく、1人で私の机のところまでやってきた。
「その、さっき、体育のときはありがとう」
「いや、別に……」
「でも、あのマットは藤堂さんが出したんでしょ?」
両手を重ねて井倉さんは何度か指を揉んでいた。
「ごめんなさい。今まで酷いこと言って。それじゃ」
目をきつくつむったまま、井倉さんは一気にまくし立てると、そのまま教室をあとにした。
「良かったですね。美月様」
井倉さんが出て行ったドアを何となく見つめる。教室に視線を戻すと、何となく、みんなが私のことを見ているような気がした。でも、今までのように、すぐに目をそらしたり、何か小声で話したり、というわけではない。
「美月、行こ」
茫然と座る私の手を葵が引っ張る。いつの間にか、近くまできていた。
「うん。ほら、ケンも」
立ち上がって私たちは教室をあとにした。
中庭でお昼ご飯を食べ終え、教室に戻ろうとすると明らかに空気が違った。
今までなら、廊下を歩いていても、みんな避けるように壁にへばりついていたのに、特にそんな様子もなく、ただ、こちらを見る程度だった。
それは教室に入っても変わらなかった。
ざわめいていた教室が静まり返っていたのに、今日は、静まり返ることはない。
「ねぇ、藤堂さん」
席に着いて、まだ時間があるからと葵と話をしている途中だった。女子が4・5人ほど満員電車の中にでもいるように引っ付き合いながら、私に近寄る。
「体育の時間のときのって藤堂さんだよね」
一瞬、戸惑ったが軽く頷いた。
「私たちもね、あそこにいたの。藤堂さんが助けてくれなかったら、バットが当たってたかもしれない。だから、そのお礼言いたくて」
そこで女子たちは一呼吸おいて、互いの顔を見つめ合う。
「ありがとう」
みんなにそう言われた。
「じゃあ、またね」
女子たちは自分たちの席へ戻って行く。教室の時計に目をやると、もうすぐ5限目が始まろうとしていた。
「じゃあ、私も席に戻るね」
葵はそう言って、席に戻って行く。
「本当に良かったですね」
隣でずっと黙って様子をみていたケンが口を開く。
「何が?」
「何がってクラスのみんなのことですよ。体育のことがあってから、みんな美月様に対する態度が変わりました」
「確かに態度は変わったけど……」
だからと言って、みんながみんな、紙者使いに対して同じように思ってくれるとは限らない。
「大丈夫ですよ。みんな美月様が本当は優しいってことわかったんじゃないですか?」
「知らないよ、そんなこと」
ケンの机には倫理の教科書とノートと筆記用具が出されていた。私も机に教科書やノートを並べていく。教室のみんなもまだどこか騒がしくても、それぞれ、授業の準備は始めいていた。
「照れるなんて、可愛いですね」
「照れてない」
準備を終えて、ケンを睨んでやったが、いつものようにヘラヘラと笑うだけだ。
「でも、あのときは、一瞬、心配しました」
「心配?」
「そうです。あんな大勢の前だっていうのもありましたし、もっと、気味悪がられるんじゃないかって」
その言葉を聞いて、眉間によっていたしわも次第にゆるんでいく、
「まぁ、とにかく良かったですね」
そうケンが言い終えたと同時にチャイムが鳴った。
それからその日はというと、5限目が終わったあとも6限目が終わったあとも、少しずつ女子から声をかけられるようになった。
「藤堂さん」
「何?」
「あの、美月ちゃんて呼んでもいい?」
遠慮がちに目を伏せながら、ポニーテールの子が口を開いた。
「別にいいよ」
「そっか。じゃあ、美月ちゃん、また明日」
そう言って、彼女は友達と教室をあとにした。
今日はクラスの女子ほぼ全員と会話した気がする。好きなものは何か、とか、今どんなテレビ見てるのか、とか、本当にどうでも良いようなささいな会話だった。でも、なんだか嬉しくて、気が付けば、6限目が終わって30分以上経っていた。
「私たちも帰ろうか」
少し離れた場所でずっと葵は待っていてくれた。
「ごめんね、待たせて」
「ううん、いいよ」
しばらくは隣にいたはずのケンもいつの間にか帰ったらしく、姿はない。携帯に先に帰りますとだけメールが入っていた。
「じゃあ、また明日」
校門でわかれを告げて坂を下る。家は反対方向なのに、葵は待ってくれてたんだ。そう言えば、葵も自転車通学だから、家が結構近いのかもしれない。中学にはいなかったから、隣町とかだろうか。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
家に着いてすぐ、玄関でケンは正座をしていた。
「どうでしたか?」
「どうでしたかって何が?」
正座するケンをよそに靴を脱いで廊下を歩くと、ケンが後ろから、ひよこみたい小幅でついてくる。
「どうって、クラスメイトの子たちとのおしゃべりです」
「確かに今日は色々と喋ったかも」
「それだけですか?」
階段へ差し掛かって、駆け上がっていくと、ケンも同じように、階段を上ってくる。
「あんなに喋ったのは久しぶりかもしれないな」
ドアを開けて自分の部屋に入ると、当然のようにケンは中に入り、私よりも先に腰を下ろした。
「楽しかったんじゃありませんか?」
机に鞄を置いて椅子に座った。オフィスで使うような椅子で回転してケンに向き直る。
「まぁ、そりゃあそうだけど」
「あれ、珍しく素直なんですね」
「うるさい!」
その日を境に、教室の空気が一変したのは言うまでもない。
「藤堂ってさ、その、紙で何でも出せちゃうわけ?」
朝、教室に着くと、近くにいた男子が近寄ってきた。少し早く着いたとあって、教室にはまだ人がちらほらといる程度だった。
「まぁ、一応」
思い描いたものがカタチになる。だから、ケンみたいに人のカタチをした紙者だって呼び出せるんだ。
「じゃあさ、例えばなんだけどさ、好きなグラビアアイドルとかも出せちゃうわけ?」
「本人は無理だけど、近いものならできると思う」
そう言った途端、遠巻きに見ていた男子たちが一気に駆け寄ってきた。
「マジで?」
「……うん。できるはず」
男子たちに囲まれ思わず椅子に座った。
「じゃあさじゃあさ、出してくれない?」
男子の誰かが口を開く。
その言葉にみんなが唾を飲んだようだ。瞬き一つもせずにみんなが机に手をついて、ぐいっと近寄る。
こういうときに何と言えば良いのかわからない。昨日のだって、本当は呼び出しちゃいけない。でも、呼び出してしまった手前、それはできないとも断りづらいし、ここで変に言うと、また、みんなの態度が変わるんじゃないかって、不安の波が頭に押し寄せた。
「それはダメですよー」
ふと、男子の向こうからケンの声が聞こえる。
その声に私も男子も視線を投げかけた。
「誰かを守ったりするときしか出せないんですよ」
「そうなのかよ」
男子が口を開いて、私は軽く頷いた。もちろん、誰かを守るときにしか呼び出せない、なんてことはない。
「じゃあ、仕方ないか。ちょっと、残念だな」
「まぁ、そもそも、お前がグラビアアイドルを出して欲しいって、ちょっと、アレだよなー」
「アレってなんだよ、アレって」
「いや、何ていうかさ、もっと、他にないのかよ」
男子たちはそんな会話をしながら、窓側の方へ行ってしまった。
「おはよう」
葵が鞄を自分の席に置いて、こっちまでやってきていた。
「美月はすごいね」
「えっ?」
葵が私の前の子の席に座った。
「だって、色々と出せちゃうじゃない」
「まぁ、でも、ほら、さっき言ってたみたいに色々と条件があるから」
「そう。あっ、そうだ。昨日ね、クッキーを作ってきたの。一緒に食べよ」
そう言って、葵はブレザーのポケットから薄いピンク色でラッピングされた半透明の巾着を取り出す。まるで、ケーキ屋さんにでも売っているような感じだ。
「ありがとう」
リボンをほどくと、中から犬やウサギ、アヒルなど、様々な動物の形をしたクッキーが重なっていた。
結局、今日も、休み時間の度にクラスの子から声をかけられるという状態がつづき、いつもなら、葵と何か喋ったりするのに、朝からお昼まで一言も葵と喋らないまま時間が過ぎていく。
「やっと、喋れたね」
お弁当を食べ終えて葵が笑った。
「そうだね」
「ちょっと、寂しいかな。みんな美月としゃべっちゃうから」
「ごめんね」
「ううん、教室に戻ろうか」
中庭から教室に戻る途中、ケンに肩を指でつつかれる。
「葵ちゃんのこと大事にしなきゃダメですよ」
耳元でケンが言う。
「わかってるよ」
そうは言っても、みんなが寄ってくるんだから、どうしようもない。みんなと仲良くできるのは嬉しいけど、葵と喋れないのも私だって寂しい。
「美月」
5限目が終わっての休み時間、葵はすぐさま私の元へ駆け寄ってきた。それは6限目が終わったあとも同じだった。
「やっぱり、寂しい思いをされているのかもしれませんね」
家に着いた頃、隣でケンが呟いた。
「そうかもしれない」
明日は私からも葵に声をかけよう。
そう思ったが、葵は翌日からも積極的に声をかけてくるようになった。とにかく、授業が終わった途端、こちらへ駆け寄ってくる、そんな状況だった。
私は体育のことがあってから以降、みんなに声をかけられるようになった。そして、どういうわけか、ケンもこの間の朝の会話以来、男子たちと仲良くしてる。だけど、葵は私に最初に声をかけたばかりに、他にクラスで仲の良い子いないからかもしれない。でも……、それにしてもあんなに必死に声をかけてくれなくても私は大丈夫なのに。
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