第54話 あなたが…いない

 二週間前――――。


 日比野天地に代わる凩マユのお目付け役として、一人の女性が選ばれた。

 彼女は三年前にダンジョンに送られたレベル16の中堅で、高いAGIを活かしたレイピアでの近接戦闘に優れるだけでなく、回復魔法やATK上昇の補助魔法も使える万能タイプの実力者だ。

 物怖じをせず、勝気で豪快な性格をしており、三十一歳という若さで魔物駆除班の第三班リーダーとして活躍していた彼女を、剛健は高く評価していた。


 しかし、剛健が彼女をお目付け役として抜擢した最大の理由は別にあった。

 それはズバリ……『女性だから』だ。

 天地に散々ヤキモキさせられた剛健は思った。

 もう、野郎は絶対にダメだと。

 妹二人と変わらないほど小さかったマユも、今年で十四歳。

 偏食、いや変食による栄養不足のせいか日光不足のせいか身体的な成長はあまり見られないが、それでも年頃の娘に男を近づける浅はかさを嫌というほど学んだ剛健は、かなり前から彼女を候補として定めていたのだ。


 たしかに、実力の観点からも剛健の精神衛生上の観点からも、その選択は間違いなく適切だった。

 問題は――――。



「こんにちは、マユちゃん!」

「……うにゅぅぅうぅ…………?」


 二層のとある小部屋に、その子はいた。

 番い結びの羅針盤のおかげで、一層ベースを出発してからわずか二日で出会うことができた彼女――凩マユは、何をするでもなく部屋の隅で膝を抱えて俯いていた。

 私の言葉に、彼女はのろのろとした動きで億劫そうに顔を上げ……お人形のような大きな瞳で、私を真っ直ぐ見つめた。


「――――っ!?」


 途端、背中を走る悪寒とともに、ズシリと体が重くなった。

 ……ような気がした。 


 これは、一体……?

 …………いや……気のせいね、きっと。

 この子の悪い話をよく聞くから……必要以上に身構えちゃってるんだわ。


 なおも体の重さは感じるものの、私は軽く頭を振って笑いかけた。


「はじめまして! 私、あなたのお父さんに頼まれて、今日からあなたと一緒にいることになったの。よろしくねっ!」

「…………う゛ぅうぅぅぅうぅ……」


 子どもの相手は得意な方だが、私の精一杯自然な笑顔に対して、彼女は胡散臭そうに顔をしかめて体をこわばらせた。

 ……まあ、いきなり信用できるわけないわよね。

 …………でも……。

 みんなには『キチガイK』とか『バーサーカー少女』とか呼ばれてるけど……こうして見ると、何だか普通の……小さくてか弱い女の子みたい……。

 と少しホッとしながら、握手をしようと――――。


 ボキィッ!!


「ッ!? きゃああぁあああっ!!」


 ――おそるおそる差し出した私の手を……彼女は猛烈なスピードで蹴り上げて、へし折った。

 警戒していなかったわけじゃない。

 本当に最悪の場合として、攻撃してくる可能性は考慮していた。

 だけど……速すぎて反応できなかった……!


「う……ぐぅっ……ヒ、ヒーリング……」

「にゅぅうぅうう……う゛に゛ゅぅう゛ぅっ……」


 激しい痛みに苦しむ私に対して、謝罪の言葉もなければ悪びれる様子もなく、仰向けになった彼女は手足をばたつかせながらゴロゴロと転げ回って離れていった。


 何なの……! 何なのよ、この子!

 分かったわ……もう分かった、はっきりした。

 実際に会って、見た目は弱々しい女の子だったけど……。

 噂なんて尾ひれがついちゃっただけで、実はいい子なのかもって信じたかったけど……。


 この子は……本当にイカれてるっ!



 それからの三日間は、地獄だった。

 過酷なダンジョン生活を三年以上も送ってきた私でも経験したことがないほど劣悪な環境。

 人生最低最悪の生活だった。


 この子は、私が何を言っても無視するし。

 近づこうとすると逃げるし。

 ずーっと二層をふらふらしてて、何をしたいのかどこへ行きたいのか全然分からないし。

 そのくせ、一日の終わりにはなぜか必ず同じ小部屋に戻るし。

 ベースに一度も立ち寄らないから、食べ物も調達できないし装備の手入れもできないし。

 魔物はキモイ虫ばっかりで、吐き気がするし。

 それを、この子は気味の悪い笑顔を浮かべて奇声を上げながら楽しそうにぐちゃぐちゃに殺すから、本当に気持ち悪いし。

 敵の数が多くて加勢しようとしたら、殴られるし蹴られるし。

 手持ちの食料と調味料が切れて、まともな物が食べられないし。

 冷たい泉で体を洗うだけで、お風呂にも入れないし。

 枕もベッドもないから、ろくに眠れないし。

 他の人と出くわしたら、この子だけじゃなく私まで悪しざまに罵られるし。


 もう嫌だ……。

 もう耐えられない。

 こんな仕事、元より乗り気じゃなかった。

 それでも、引き受けたからには誠意を持って全力で責務を果たそうって……そう思ってた。

 ……けど、もう無理。

 一層のベースに帰りたい……。


「にゃハハぁぁあぁぁぁ、つぅぅっかれたああぁあぁぁ。おやすみぃぃいいい、てぇええ……ん……ちゃ…………」


 今日もまた二層を目的もなく歩き回った挙句に同じ小部屋へと戻り、ぶつぶつとわけの分からない独り言を呟いて、彼女はバタンと倒れ込んだ。

 勘弁してよ……何してんのよ、本当に……。

 いっそダンジョンの奥の奥、未だに誰も到達できていない六層にでも行ってくれれば、まだやりがいもあるしワクワクもするっていうのに……何でずーーっとこんなとこにいるのよ。

 まるで、何かを探してるような…………。

 何かを待ってるような…………。


「……あっ……もしかして…………」


 ふと彼女の奇行の理由に思い至り、私は早くも熟睡しそうな小さな背中に声をかける。


「あなた……日比野君を、探してるの…………?」


 すると、彼女は突然ガバッと飛び起きて私をじっと見つめた。

 ……私の言葉に反応したのは、初めて会って以来……三日ぶりだ。


「……そうなのね? まったく、それならそうと言ってよね。彼なら今、べー…………」


 言いかけて、不意に口をつぐんだ。

 彼なら今、ベースで料理人として頑張ってるはずよ――――。

 その言葉が、なぜか喉の奥で塞き止められる。


 ……いや…………。

 本当は分かってる。

 というより、聞こえてる。

 悪魔の囁きが。

 それに抗うのは、今の私にはとても難しくて……気づいた時にはドス黒い感情とともに、口からするりと吐き出されてしまった。


「彼なら……今……ファフニールの泉にいるわよ。知ってる? この層の端っこにある、立ち入り禁止の場所よ」


 この辛く苦しい生活から抜け出すには、どうすればいいのだろう?

 たった三日の間に、何十回も何百回も自問自答した。

 時間をかけて改心させて、年相応の普通の女の子にする?

 どうにか説得して、みんなと一緒にベースで仲良く一致団結して過ごす?

 ……とても出来そうにない。

 この子が必死で探してる日比野君がベースにいると告げたところで、そんな奇跡は叶うはずがない。


 別に、音を上げて、この子を放って一人で帰っても、きっと誰も私を責めたりなんかしない。

 それどころか、「よく頑張った」「大変だったろう」って励まして慰めてくれると思う。

 でも……それじゃあ何の解決にもならない。

 すぐに代わりの誰かが選ばれて……そして同じように苦しむだけ。


 ……何度考えても、結論は同じ。

 私も、みんなも、誰も不幸にならない方法は、たった一つ……。


 この子が………………死ねばいいんだ。


「……ありがとおおぉおぉぉぉ、ええぇぇえっとえっとぉぉ……なんとかさあぁぁあぁん。にゃっハハははぁああぁあっ♪」


 心の中の悪魔を隠して作り笑いをする私に、彼女は初めて……屈託のない、無邪気で可愛らしい笑顔を見せた。


 もしも、あの時……。

 まだ絶望に囚われていない、あの時。

 あなたのお目付け役を立派に務める気持ちがあった出会いの時に、この顔を見ることが出来ていれば……私はここで、素直に謝って自らの言葉をすぐに訂正したかもしれない。


 ――でも今は、彼女の愚かさと馬鹿さ加減に心から感謝するだけだった――――。



「ふぅぅんふっふふーーぅん♪ かっくれぇぇんぼおおぉぉぉーわぁぁあもーーぉおぉぉぅおっわりぃいいいぃイイっ♪」


 人の気も知らず、そして私の言葉が嘘とも知らず、彼女は呑気に不快な鼻歌を歌いながら、寝るのも忘れて上機嫌にファフニールの泉へと向かう。

 魔物が現れた時の異常な殺戮劇も過激さを増し、私でも吐き気がして顔を背けたくなるくらい酷い。

 そうするしかなかったとはいえ、こんな子と一ヶ月以上も一緒に生活したなんて……日比野君は尊敬に値するわ。

 あるいは、平凡に見えて彼も頭が相当おかしいのかしら。


「うげっ! おい見ろよ、またKだ」

「くそが……何か最近ずっと二層にいねえか? マジうぜえ」

「おい、そこの同類の姉ちゃん! さっさと上でも下でも行けよ! ったく……」


 ……またか……。

 うんざりよ、もう……。

 私が何をしたって言うのよ…………。


 すれ違う七人組に浴びせられる、心無い罵倒。

 彼女には馬耳東風のようで、まるで気にする様子もなく奇妙なステップを崩さずランランと歩き続けているが……私には、一言一言が鋭い槍のように心の深くに突き刺さる。


 だけど、こんな非人道的な扱いを受けるのも、これが最後。

 この子がファフニールに殺されれば、私は何の気兼ねもなく帰ることが……。


 ……いえ、ちょっと待って。

 私は一つ、重大な見落としをしていたわ。

 この子の常識外れで桁違いの強さは、この三日で嫌ってほど見てきた。

 正面切って戦えば、この子は確実にダンジョン最強の女の子。

 もしも……。

 もしも、ファフニールを倒しちゃったら……?

 あり得る。

 この子なら……容易に想像できるくらい、十分にあり得る。


 だったら、むしろ……。


「……ねえ、あなた達……ちょっと手を貸して欲しいんだけど……」

「あぁん?」


 そうよ……いくら強くても、いくらレベルが高くても、所詮は人間。

 油断しているところを、小さなナイフで軽く一突きするだけでも……殺せる。

 それなら……。

 今、ここで。

 浮かれきって隙だらけの背後から。

 こいつらを含めた八人で一斉に襲いかかれば……いくらこの子でも――――。


「私のために、他のみんなのために……死んでよ……化物……!」




「…………東雲さん、あのバケモン殺すってマジですか?」

「当然だ。ここがダンジョンであろうと……いや、こんなダンジョンだからこそ、規律を遵守して自己犠牲を厭わず利己を求めず、皆が地上に戻れるよう積極的に協力する姿勢が求められる。たとえ幼い子どもであろうと例外ではない。しかし…………」


 平均レベル15を超える指折りの実力者達、総勢五十名。

 その筆頭は二層駐屯組のリーダー、東雲しののめすすき

 彼らは二週間前に同胞を殺めた大罪人、凩マユを処刑すべく特別危険指定区域である大部屋――通称『ファフニールの泉』へとやって来て、そして驚愕した。

 彼らの視線は、ある一点に釘付けになっている。


 部屋を埋め尽くさんばかりに広がる、血溜まりのような真紅の泉。

 その中央に身を沈める、身の毛がよだつ恐ろしい巨竜。


 ――――翼をもがれ、手足があらぬ方向に曲がり、目を潰され、首を切断され、全身に幾百もの包丁が突き刺さった無残な姿で横たわる、その巨竜の浅黒い血に染まった腹の上に立つ、小さな少女……凩マユに、釘付けになっていた。


「……これほどとはな……。食い殺されているのが理想だったが……」

「や……やめませんか、東雲さん。いつものように、他の層に行っちまうのを待ってれば……」

「馬鹿がっ! 今までは凩に免じて見逃していたが、もう許すわけにはいかない! ダンジョンの秩序のために、奴は今日、この場で必ず抹殺するっ!」

「す、すみません……」


 信じ難い惨状を目の当たりにして弱気になる男を、東雲は切れ長の目でじろりと睨みつけて声を荒げる。

 厳格で冷徹なリーダーとして二層だけでなく他層の人々にも畏怖されている東雲の叱責に、男は立つ瀬なく縮こまった。


「どれだけ強かろうが、奴も人間だ。チャンスがあればレベル1でも殺せる。計画通り、まずは…………?……何だ……? 奴は……何をしている……?」


 殺す機会をうかがう東雲が目を光らせる中、マユが動いた。

 手にした麺切り包丁を閃かせ、ぴくりともしなくなったファフニールの腹を一瞬にして切り裂く。


 そして…………。


「東雲さん……あ、あいつ……竜の腹ん中に入っていきましたよ……!?」


 ぎっしりと詰まったグロテスクな内蔵を掻き分け、マユは布団に潜り込む猫のようにファフニールの体内へと姿を消した。

 すでに戦意を喪失しつつあった一行は、この猟奇的で常軌を逸した奇行を前に騒然とした。


「あいつ、気が狂ってるってレベルじゃねえぞ! マジやべえって!!」

「さっさと殺そうぜ! 今なら竜ごと魔法で吹き飛ばせるんじゃねえか!?」

「いや、分かんねえよ! レベル20越えの連中が束になっても倒せなかった竜を一人で殺したんだぞ! もっと慎重に……」

「じゃあどうすりゃいいってんだよっ!!」

「……………………」


 ざわめく集団をよそに、顎に手を当てて一人沈黙する東雲。

 一見すると冷静沈着に見えるが、実際には彼もまたマユの奇行がどんな意味、どんな意図を持つのか見当もつかず、仲間を落ち着かせることも忘れて困惑していた。

 そんな混乱を、一団から離れたところで魔物の警戒に当たっていた班の緊迫した声が打ち破る。


「し、東雲さん、大変です! 凩剛健がこちらに向かっています! それに、仲間と思われる連中が他に四人!」

「……チッ! 勘のいい男だ……。仕方ない、一班と二班は私と一緒に来い! 後の全員は奴の処理だ! 見たところ奴はここを離れる気はない……寝静まったところを狙えっ!!」


 そう叫ぶと、東雲は身を翻して苛立たしげに靴音を立てて走り出した。

 残された者達は、まだ狼狽しながらもリーダーの指示を頼りに怖々とマユの様子をうかがう。


 すると、まさにその瞬間。

 ファフニールの死体に異変が起こった。

 生々しい首の切断面が小刻みに揺れ始め……そこからマユが飛び出したのだ。


「う、うわぁっ!?」


 何人かが、上ずった声を漏らして恐怖を顕にする。

 そんな者共の存在など知る由もないマユは、山のように高くそびえるファフニールの腹の上によじ登ると、ぶつりと糸が切れたように倒れて大の字になった。


「…………………………」

「………………寝た…………の……か…………?」


 あまりにも突然のことに、一同は呼吸も止めてじっと目を細める。

 マユは全く動かない。

 あっという間に訪れた静寂。

 それが、数十秒ほども続いた後……。

 もっと間近で見ようとするかのように、一人……また一人と泉へと侵入し、じりじりと距離を詰めていった。


「……どうやら、完全に寝たようだな……」

「ああ……さっきはビビっちまったが、東雲さんの言う通り、よく考えりゃ寝ちまえばバケモンだろうが楽勝だぜ」


 小声で話しながら、集団は冷静さを取り戻して各々の武器を固く握り締める。

 魔法担当の者は入口付近で広がり、最大級の魔法を放つ準備を整え――。

 物理担当の者はファフニールの死体を取り囲み、マユが逃げられないように牽制し――。


 そして、ついに数十の魔法が同時にマユを襲う――――その瞬間――――――。



「まったくもー……こーんなかわいい女の子一人に、みんなしてよってたかって……大人げないなー」



 声がした。

 包囲の中心から、女の子の声が。

 マユのものではない、普通のあどけない女の子の、普通の口調の声が。


「死んじゃいたくないって人はあっち行っちゃってねー。悪いけど、今日はあたし……ぜーったいヨーシャしないよー!」


 マユが――。

 いや……マユの姿をしたサユが、すっと立ち上がり……。

 サイドテールにした髪留めを後ろに付け直すと、元気よく伸びをして、唖然とする集団をくるりと見回しながら陽気に言った。


「いくらカンヨーなあたしでも、もう死にたくないもんねー。それに……マユねぇをキズつける悪い人は許さないからっ! ねー、アユ」

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