II. Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)(1)



〈ホテル・ニムロド〉。



本日も晴天なり。


ただ、暑過ぎる。



時の止まった鐘楼都市に於いても、廻る一年と云うのは存在していて、本来ならばそれは便宜上の物に過ぎない筈なのだが、ベイベルのお偉方の学者様たちが喧々諤々の殺し合いもとい論争を繰り広げ続けた挙句に、ようやく見出した妥協点を標準と制定することで、ひとまずの事態の収束を図っている。


つまり、一年の日の出と日没の周期を半永久的に計測し続けることによって、夏至と冬至の日付を見出し、それを両極とすることで一年の軸を得た。それに基づくと、ベイベルの日照時間は現実世界でいう北緯五十一度線上と合致しており、それはイングランドとフランスの最北端の国境沿いもしくはドイツ中部に当たる。支点の観点で云えば、それは南緯五十一度線も同様なのだが、ベイベルには欧米系の白人の入居者が多く、南緯五十一度線はアルゼンチンやチリの一部を除けば、殆ど洋上を突っ切るラインの為、馴染みの深い北緯線の暦が優先されるようになった。


その不確かなカレンダーに依れば、今日は七月二十八日。夏至も一月と一週間を過ぎ、ちょうど茹だるような暑さが本格的になってくる頃で、丁度その日は私のベイベルにやってきて丸々三ヶ月の日だった。


しかし、そんな中途半端な記念日を覚えている人間など私以外にいるはずもなく、通気性の若干悪いロビーは蒸すように暑く、凪いでいる所為で、外よりも大分暑く感じた。



ハヅキは、ノースリーブのブラウスからほっそりした腕を惜しみなく突き出して、ミース特製サンデー本日三回目のお代わりをダルそうにちゅうちゅうしていたし、私も流石に今日ばかりは、ぴっしりとしたスーツに依るおめかしを免除になり、腕元までシャツの袖を捲りあげ、胸元をだらしなく大きく開けながら、ダイニングにあったメニューカードで生温かい風を仰いでいた。


ハヅキが、フロントデスク裏の壁にある温度計を、首だけ器用に回して見ながら呟いた。


「誰や、こんなトコに体温計貼り付けたのは」


「――トロイでしょ。じゃなかった、それ体温計じゃなくって温度計。それだけ、身体の内側と外側の温度が同じなくらい、今日はクソ暑いってことですよ」


「アイスクリームサンデー、無くなっちゃった。もう一杯お代わりしてこようかなあ」


「太りますよ。次、五杯目ですよ」


「そうだなあ――じゃあ、ノンカロリーコーラでも飲もうかなあ」


そう云った切り、一向に動かず、まるで木の上のナマケモノのようなハヅキ。


しばらく、朦朧と宙を睨んでいた私だったが、やがて、


「取りに行きゃあいいじゃないですか」


「――ん?」


「コーラ。飲みたいんでしょ」


「――ん。んん――」


この人、ついに一切口を開かず、呻り声だけで会話する新言語を編み出してしまった。これを一般化すれば、トロイも私たちも、もうあの訳の分からない物分かりの悪さに悩まされずに済む!


「メンドイ」


そうポツリと云うハヅキに、私は無関心に、


「こっちも同じ気持ちですよ。めんどくさいんで、動きませんからね、悪しからず。もし干上がったり、熱気で爆発したりして死にたくなかったら、自分でその重い腰を上げて行くことをオススメしますよ」


「んー」


普段の舌鋒はどこへやら、ハヅキは再びもごもごと呻くだけに留まった。本格的にバテバテである。



暫し、また無言。



「そう云えば、ちゃんと覚えてますか? 今日、ぼくがベイベルにやってきて、丁度丸三ヶ月の記念日なんですよ」


「ん――」


ハヅキは少し不機嫌そうに顔を顰めて、顔だけをくるりとこっちに向けて云った。


「憶えちゃいないよ。と云うか、あなたもよく無駄なことをチマチマと気にして憶えているものね。まるで付き合い立てのカップルみたい。それも女の方」


「でしょうね。世間一般のカップルと一緒で、それを気にする方は常に孤独なんですよ。でもちょっと思い出すんですよ。あの日あの時、あなたや十和子さんに逢わなかったら、今頃自分の人生どうなっていたんだろってね。真夏の昼下がりのメランコリーですよ。ちょっぴり感傷的、センチメンタル」


「ぶつくさ独り言を云って、カロリーを無駄に消費したいのなら止めはしないけれどね。あんまりウザったかったら、問答無用で撃ち殺すから。出来れば、ガレージの隅っこででもひっそりやってもらいたいものね」


「まあ命の危険を感じたら、その時にいそいそと退散しますよ。ちょっと思い返したいだけで、別に誰に聞かせたいわけでもないから――」




そう云うと、私の思考は現在を去り、荘厳な記憶の宮殿の門扉へと誘われて行った。



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