II. Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)(2)




四月二十八日。



エディンバラ発ロンドン行の長距離列車は、平日のオフシーズンと云う事もあってかほぼ乗客の姿はなく、指定席もおよそ便宜上の制度と成り果てていた為、私は数駅ごとに荷物を持って、列車のどてっ腹を駆けずり回り、気の向くままに席を移り変わるという迷惑行為で、暇を凌いでいた。


荷物は多くない。小さ目の旅行鞄一個の他は、スコットランドで手にした此度のお使いの品だけで、それも若干嵩張るものの、ぐるぐるに梱包された板状のものだったから、重くもなく、然程持ち運びには苦労しなかった。


遥々日本から飛行機で十数時間。


スコットランドには数多くの氏族とその末裔たちがいるが、その中でも飛び切り没落して、飛び切り美術品に無頓着な人間から、多少の大金をチラつかせて格安で小汚い絵を譲って貰う、と云うのが自分に課せられた任務だった。


私の父は、横浜でこぢんまりとした、けれど老舗の画廊を営んでおり、私は脚が若干不自由で出不精な彼の代わりに駆けずり回る脚で、眼だった。私には芸術的素養もなければ、審美眼もなかった。というより、まったく興味すら覚えず、むしろ古惚けたガラクタの寄せ集めが、家計を常に逼迫し、一族の足枷となっていることが憎らしくもあった。父の代になったとき、既に〈江津画廊〉にはモネやゴッホやルノワール、ミレーやフェルメールと云った巨匠の作を競り落とせるほどの財力がなく、西洋画壇上では草葉の陰に隠れつつあるマニアックな作品を買い漁っては、極々一部の好事家たちに売り付けるという、斜陽の画廊となりつつあったからだ。


故に、父はネットオークション、個人の蚤の市的な広告欄、小さな競りのカタログやらを漁っては、はした金になりそうな古美術に目星を付けていた。わたしは、父の年とってからの子で、足腰が(父に比べれば)良く、なぜだか美術品の真贋だけは漠然と見極められる能力があったからという理由だけで、こうしてしょっちゅう欧米に飛ばされていた。父は算盤勘定の苦手な人だから、交通費や滞在費を含めれば、そんな仕入れはほぼ赤字ギリギリだということを、一向に理解できなかった。


高校も、周りが行っているというだけで投げ遣りに進んだ私は、卒業さえできればいいといういい加減な気持ちで、退屈な日常を怠惰に過ごし、しみったれた江津家の束縛が逃れられるというだけの理由で、家業を手伝い、外国を家出同然に旅する免罪符を得ていたのである。


父は呑気な性質で、私は厭世的だったから、あまりぶつかり合う事は無かった。ただ、高校三年生に進学した途端、担任兼生活指導兼学年主任の体育会系堅物に目を付けられ、今後もこのようないい加減な学生生活を送る気なら、問答無用で放校にすると脅されてから、私の状況は一変した。丁度同時期、母がいよいよ父に愛想を尽かして出て行ってしまい、私とは十ほど年の離れた、株かなにかでそこそこ羽振りの良い若手実業家の兄が、〈江津画廊〉に多少の出費と組織改革を行い、父は申し訳程度の役職を与えられて残るが、経営権は兄の眼鏡に適ったプロフェッショナル達が分割して担うことが決まり、わたしはいよいよ自由と云う名の流刑に処せられてしまったのである。


つまり、今までは私は飼い慣らされた伝書鳩のようなもので、普段は巣箱に戻ることを、命令を遂行することを義務付けられていたものの、こうして一度大空に羽ばたけば、世界中のあちこちを見て、しがらみから解き放たれる事を許されていた。しかし、今、善意の施しによって、私の伝書鳩の任は解かれ、翼をもがれつつあったのもまた事実で、いざそうなると日本の現代社会の閉塞感に息が詰まらんばかりだった。


つまり、適当に高校を卒業し、就職のためのモラトリアムとして大学に行き、社会に自然とフェードインしていくと云う流し作業的な在り方が、途轍もなく窮屈に感じていたのである。



父の御遣いで、世界中あちこちを飛び回った私は色々と見た。農村に産まれ、読み書きも最低限しか習わず、高等教育など夢また夢で、けれど大地の恵みを全身に受け、活き活きと輝いている同年代の少年たちを。国が貧しく内乱中で、まだ女性軽視の風潮が根強く残っており、生きる事に必死で、けれど希望を失わない真直ぐな眼をした少女たちを。それが成田空港につき、荷物両手に各駅停車で東京方面に向かう電車に乗ったらどうだ。たしかにみんなが、平和に、安全に暮らしている。だけど、その眼はどこか虚ろで、出刃包丁で頭を弾かれたばかりの、魚市場の魚を思い起こさせる。新鮮なのに、死んでいるのだ。


兄貴は元々母親譲りのチャカチャカした性格で、どこか父の生き方を認めていない面があり、また多分にお節介だった。婚約者も決まり、順風満帆そのものの人生を歩んでいる彼は、あろうことか不甲斐ない父に代わり、私の保護者としての本領を発揮しようとしていた。


兄は云った。


「もうこんなことはお終いだ。おまえはバカじゃない、地頭がいいから、今から一年間一生懸命勉強すれば、充分人並みの生活を送れるようになる。少なくとも、この一年、一番大事な時に、日本を脱走してテキトーにフラフラと外国を飛び回るだなんて真似は、断じて許すことはできない。俺は親父を尊敬しているし、大好きだが、同時にだからこそ、おまえにはその生き方をしちゃだめだ、不幸になるぞ――」


と、小言がまあ延々と続いて、わたしをほとほとうんざりとさせた。


親父も、傾きかけどころか転覆寸前の屋台骨だったし、その首根っこを押さえられて九死に一生を得たとなっては、云い返す権利もなく、ただでさえ小さな背中をますます小さく丸めて、云われるが儘となっていた。


しかし、これから一年――いや、大学を卒業するまで、一切の海外渡航及び旅行を禁ずる、と兄貴が云ったとき、猛然と反対したのは親父で、最後の頼みだ、英吉のためにも、自分の画商人生の中でもダントツの取引なんだ、これだけは英吉に向かってほしい、それに英吉が大好きなスコットランドなんだ、最後にもう一度だけ行かしてやってくれ――と半ば涙ながらに懇願すると、兄貴も不承不承、最後の特例としてそれを認めざるを得なかった。


呆気に取られたのはむしろ私の方で、普段はおとなしいを通り越して頼りの無い親父があそこまで熱弁を振るうのを見るのは産まれて初めてのことだったし、真贋は問わん、兎も角その品物を手に入れてきてくれ、という言伝も未だ嘗てないことだった。おまけに、手渡された買い取り費用も、一体今までどこにこんな大金を隠し持っていたのか、これがあれば母さんも出て行かずに済んだのではないか、と思えるほどのもので、私はただただ何が何だか判らない内に、イギリス行の飛行機に乗り込んでいた。


スコットランドのその家は、エディンバラ郊外のまあよくも嘗ての氏族階級がここまで没落できるものだと驚くばかりの佇まいで、酒焼けの赤毛の主人に代金を見せたら、血走った眼でいきなり鷲掴みにされ、あわや殺されるかと思ったほどだった。


それよりも、何より驚いたのが、大抵に於いて、一応最後の真贋判定として私に決定権があるものの、一度たりともこうした出張で、贋作を私に出くわさせることの無かった父が、あろうことか依りも依ってこの時初めて間違いを犯したことだった。絵はフェルメールだが、私の直感ではどう足掻いても贋作で、だとすれば赤毛の主人に渡した金はゼロが一つ――いや、二つは多すぎた換算になる。


けれど、私はもうこのカゴの鳥としての自由が失われつつあったことに、どこか自暴自棄になっていて、おまけに「何が何でも手に入れろ」と云う父の云い付けもあったから、もうなるようになれという心境で交渉を成立させた。仮に大損こいたところで、もう兄貴が穴埋めをする準備は出来ているし、どうせ俺は風切り羽を切られるんだ――と自分に云い聞かせて。


故に、その列車の客席をうろつきまわる事は、私に残された最後の自由時間と云えた。


ロンドンに着いたら、さっさと安宿に戻って一睡、その後早朝の飛行機で日本に戻らなければならない。で、戻った次の日から学校へ通うことは絶対。この四方を壁に囲まれた動くケージこそが、最後に自分の意思で歩き回れ、異国の空気を吸えるチャンスだったのだ。


こんな生活を送っていたから、私は学校で教える英文法の、日本語視点からのアプローチはちんぷんかんぷんだったが、言葉は良く喋れた。そして、こうした旅先で、見知らぬ人と会話し、その人が生まれ育ち、見てきた時間と空間の記憶を共有することが、無上の喜びだった。




やがて、私が目を付けたのは、四人席の進行方向側に仲良く並んで腰掛ける、女性の二人連れだった。


「すみません、お席、ご一緒してもよろしいですか?」


大抵、このシチュエーションに於いて、その質問は大変胡散臭く思われる。


と云うのも、見渡せば一面の空席だらけで、わざわざそんな狭いところに赤の他人が混ざらなくてもよいからだった。


にも拘らず、二人の女性はぺちゃくちゃとしていたお喋りを止め、その内の一人が――落ち着いた、銀色の不思議な光沢を持つ髪の、時代がかった洋服に身を包んだ麗人が、袖口に手を引っ込めたまま空いている席に向かって手を延ばして、


「どうぞ」


と云った。



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