I. Allegro Macabre  ――死のアレグロ(アレグロ・マカブル) (3)




三一号室は、四階建ての〈ホテル・ニムロド〉の地所でも最上階、丁度階段の脇、その階の他の部屋は何れもダブルと一部屋しかないスイートであるため、余所より若干高級感溢れるお得感満載の眺めを御所望する一人客からは、多分に贔屓されている客室だった。


その部屋に大の大人が四人も雁首揃えている様など、そうそう見られるものではない。いや、『四人』という勘定は正確ではない。


というのも――


「死んでる――」


目は座り、口は半開き。間抜けな石膏像と云った様子のハヅキ・イェーガーが、後を追って慌ただしく突入したばかりの従業員二人に云った。


「え?」


「なんて?」


負けず劣らず間抜け面の私たちに、オーナーは眼を見開き、素っ頓狂な金切り声を上げた。


「死んでるの! お客様が! ご逝去、お亡くなり、ご臨終! 三途の川の片道切符、極楽浄土、息を引き取り、冷たくなって、天の創造主の元に旅立たれた! チェックアウトも済まさず――ここにいるのは――ゼエゼエ――故・お客様なの!」


あまりもの剣幕のオーナーに、キャリーも負けじと声を張り上げ、


「落ち着いて――落ち着いてください!」


「これが落ち着いていられますか! ここは一番の人気部屋、これから一年の明暗を分ける大事な行楽シーズンの初っ端から、死体が出たんだ! 誰がこの部屋に泊りたがる? 少なくともわたしはいやだ!」


成程、湯気のそろそろ立たなくなった紅茶のポットやら、目玉焼きやら沢山の肉類と多少の魚介類やらの乗った皿が雑多に犇き合うトレイを膝に乗せて、ベッドの前板に凭れ掛かるその客人の顔は見るからに精気がなく、死人特有の虚ろな焦点の合っていない眼をしていた。


私は、試しに仏様の剥き出しになった手首に、そっと手を当ててみると、


「皿の上のソーセージみたいに、この上ない位しっかりと死んでますね。冷え冷えのコチコチで」


小柄な体をワナワナと振るわせて、眼に涙がうるうると溜まってきたかと思うと、オーナーは先程の軽く三倍は大仰な叫び声を上げた。


「飯だ!」


呆気に取られるわたし達を尻目に、彼女は死体の膝の上の盆を、エサにがっつく野良猫のように漁り始めた。


「朝飯に当たったに違いない。ミースのコックとしての腕は兎も角、彼女の衛生観念には前から云いたいことがあったんだ――こんなことが露見したら一巻の終わりよ! 保健所がやってきて、組合に除名を勧告され――このシーズンだけじゃない、お父様のホテルをわたしの代で潰す羽目になってしまう! 悪いのはどいつだ――ベーコンか? ハムか? ポテイトゥ、トメイトゥ、それともタメイゴゥか? ――いや、違う、これだ! こいつに違いない!」


そう云い切って摘み上げたは、ヌラヌラとした赤茶色の薄っぺらい物体――英国式フル・ブレックファストには欠かせない一品、ニシンの燻製だった。


「呼びましたぁ?」


背後から突然響いた声に、ハヅキは「ひゃっ!」と悲鳴を上げ、あろうことかニシンを力一杯投げ付け、私の顔面にべちこんっ。ストライク、バッターアウト。


燻製ニシン独特の臭気とヌラヌラした感触に、顔を顰めながら声のした方を見ると、入口にふんわりとした身体付きの、いかにも仮眠中を叩き起こされた様子の少女が、眼を擦り擦り立っていた。


当旅館の敏腕コック長(厨房は殆ど一人だが)、夢うつつのミースだった。


電光石火の速度でヒステリカルに怒鳴りつけるかと思われたハヅキだったが、思い止まり、一呼吸吐き、敢えて気味が悪い程の愛想笑いを浮かべ、猫撫で声で語りかけ始めた。


「おはよう、ミース。ポカポカとして良い陽気ね。尤も、若干一名そうとも云えないみたいだけれど。そうそう、私ね、前からあなたとゆっくりお話ししてみたいと思ってたの――あなたの可愛いペット――ハムスターと称した生物を、食糧庫に繋がるドアの前で、通気性抜群のケージに入れて飼っていることなんだけれど」


「ハムちゃんのこと?」


「そうそう、ハムちゃん――グレーで、尻尾がミミズのようなデザインの、両の掌サイズの、あのユニークなハムちゃんのことよ。あなたに十四世紀ヨーロッパの話をしたことあったかしら? あなたのハムちゃんの御先祖さまが、欧州の人口をたった半世紀で半分に間引くことに成功した偉業のことを? そんな偉大な一族が、三千万分の一の人間を、僅か一晩で我らが創造主の御許に近づけるだなんて、それこそ造作もない朝飯前の芸当だって、説明したことはなくって?」


「オーナーが云ってるのは黒死病でしょ? あれの原因はノミだという研究結果が出たって、最近新聞で読んだよ。そもそも、ハムちゃんはネズミじゃなく、ハムスター――」


「あのケダモノを、人間語ではドブネズミと云うんだ!」


ハヅキは、遂に癇癪玉を破裂させた。


「覚悟しろ、今日という今日は――」


「違います!」


突然のキャリーの大声に、オーナーはギロリと眼を見開いたまま、


「何が違うって? あんな汚らわしい生き物は、どう見たってドブネズ――」


「違うんですって。ハムちゃんのことじゃなくって、食中毒のことですよ。有り得ないんですよ、まったく手を付けてないんだから!」


確かに、食中毒の線は薄い。と云うのも、オーナーが半狂乱で引っ繰り返した盛り付けの他は、何一つ手を付けた様子のない綺麗なままだったし、欠けている様子もない。まず何より、食器がたとえ舐め取ったにしても、ピカピカ過ぎる。


思い返せば、先程触った仏さんの手首は、それこそ墓石のように冷え切っていて、とてもオーナーが食事を運んだかれこれ二時間前より後に亡くなったとは思えない程、硬直していた。


自分に医学の心得はないから断定は出来ないが、少なくとも朝食に当たったという線は、限りなくゼロに近い。


その旨をオーナーに伝えると、急に緊張感の糸が切れたかのように、へなへなとその場にへたり込んでしまった。


「――え? それじゃあ、朝ご飯の所為じゃないの?」


無言で頷く三人。


ハヅキは、顔中いっぱいに安堵の色を浮かべ、眼を潤ませ、


「ハヅキ、悪くないの? ノー保健所、ノー警察、ノー営業停止? ――そう、ハハハ――やったー、やっほほい! ハヅキ、嬉しい! こんなにハッピーな気分、いつ振りだろう! なんていい日なんだ、ハレルヤ!」


やめんかい。


死体の周りで万歳する経営者の姿なんぞ見られた暁には、それこそ社会的にご臨終だろうが。


「けれど、冷静に考えて状況はそこまで好転しちゃいませんぜ。最悪の事態は免れたってだけで。兎も角、一刻も早く医者を呼ぶのが先決でしょ。どの路、それが済むまではなんにも――」


「え?」


ハヅキが、飛び切り可愛らしい無垢な真顔で返す。


「それじゃあ、次にこのお部屋に通す予定のお客様のことはどうなるの? 午後早くにいらっしゃるって話なんだけれど」


「他のお部屋にお通しするしかないでしょうね。そりゃそうでしょう? どう足掻いたってこの三一号室から死人が出たって事実は揺るぎませんぜ」


「それは困る! 子爵様がいらっしゃるのよ? イタリアのパッツィーニ子爵――眺めが良いお部屋を御所望の、正真正銘の上流階級の紳士よ? この部屋以外に、このホテルのどこにそんないい部屋がある!」


「仕方ないでしょう! それともなにか、あんた、死人の残り香漂うこの部屋で、その子爵様に一晩過ごされよ、って云うんですか?」


「二晩だ!」


三度、頓狂な叫び声を上げるハヅキに、いよいよ私もこめかみの辺りが痛くなってきた。


この女、冗談半分で自分の事を「優雅にスノビッシュ、華麗にコケティッシュ」などと云うことがあるが、兎に角上流嗜好が強く、彼らに最上のホスピタリティを提供することで己が魂のヒエラルキーもランクアップすると、本気で思い込んでいる節がある。


少なくとも、今こうしてこの遺体発見現場であーだこーだ言い合っていても埒が明かないし、何より他の客の耳に触れたらことだ。ハヅキの肩を持つ訳ではないが、要らぬ醜聞の種をわざわざこちらからばら蒔く必要性もなかろう。


「兎も角、一回全員下に降りて、きちんとお医者さんを呼びましょう。後の事はそれから考えましょう」


その時。


私らは全員、ハヅキという高周波装置のような女のけたたましさに、注意力と云う注意力を根こそぎ持って行かれていたため、背後のドアの方まで気が回っていなかった。


あろうことか、そのノーマークのドアを通って、何者かが話しかけてきたのだ!


「あのォ、すみません――」


「ひゃっ、ひゃいっ!」


私らは全員、身体の柔らかい所に画鋲でも刺されたかのように飛び上がって、反射的に掛布団を死者の顔面に被せた。


振り返ると、そこには三日ほど前から滞在していた中年のアメリカ人夫婦の妻のほうが、ハコフグのようなご面相の目玉をぐいっと見開いて、頬肉を震わせながら立っていた。


「あたくしたちね、急遽列車の時刻が変わってしまったので、今すぐ出なければならないことになりましたの。今、チェックアウトをしにロビーに向かおうとしていたんですけれど、丁度皆さんのお声がいたしましたものですから――」


そう云いながら、オバタリアン(死語)は、のしのしと立派な二本脚で部屋に入ってくる。こうしたオバチャン滞在客の習性その一。話す時、不必要に顔が近く、間合いを取っても距離を詰めに移動してくる。


未知の恐怖と戦うサスペンス映画の主人公そのもののような面持ちで、すがるように扉の外を見ると、旅行鞄を沢山携えた往年のスター俳優のような亭主のほうが、縦皺の目立つ顔に満面の笑みを浮かべて、ウィンクをしてきた。


オバチャン、旦那を見習って大人しく外で待ってなさい。


オッサン、何笑ってんだ、こちとらそんな気分じゃないんだ、張り倒すぞコノヤロー。


ハヅキは、普段の十倍速で瞬きを繰り返しながら、カクカクとした珍妙な挙動と共に答えた。


「これはこれはスミスさん。さようでございますか、それは災難でございますね。当ホテルでの滞在は、お気に召していただけましたかしら? 出来る事ならば、スミスさんのような素敵な御夫婦にはずっと居らして頂きたいのですけれども――なにせ、お客様は仏様!」


「え?」


キツネに抓まれたような様子のスミス夫人。反射的に私はハヅキの脇腹を小突いたが、お陰で侵略者の歩みは止まった。


「いえ? ただの持病の発作です――そうでございますね、今直ぐ下にお荷物をお運びして、伝票の準備を致しましょう――ただ生憎、私は今ちょっと手が離せなくって――トロイ! ――はここにいないし、いたところで死者をもう一人産み出してやりたいという衝動に駆られるだけですからね、ハハハ――(痛い! エドゥ、おまえ、次私を小突いたら、その腕もいでやるからな)――そうだ、キャリー。申し訳ないんだけれど、スミスご夫妻のスーツケースをロビーまで運んで、三四号室のお会計をしてもらえるかしら?」


「は、はい!」


突然の指名に跳び上がったキャリーだったが、そこは敏腕メイド、即座に雇い主の意図を組み、ハコフグ・スミス夫人の両肩を掴んで回れ右させ、侵入者の排除に成功した。


「ふう、間一髪」


額から流れ出す冷や汗を拭ったハヅキは、一呼吸吐いて踵を返した。


「兎に角、ここにこのままにしておくのは危険過ぎるわ。そもそも、お昼時になったらお爺さんお婆さんたちが、食事を摂りに部屋から出てくるもの。そうなったら、人目に触れさせずにコレを外に運び出すなんて、いよいよ不可能になるわ!」


遂にコレ扱いである。


故・お客様はシーツに包まっているし、そもそももう動くような表情筋も残ってはいないだろうが、わたしには彼がプーっと頬っぺたを膨らませたかのように思えた。お願いだから、頬っぺた膨らませる程度で済まして。


「じゃあ、どうしろっていうんですか――」


「兎も角、下に運ぶわよ。検死もそこでやってもらえば問題ないでしょう」


「勝手に運んでいいんですかね?」


「いいに決まってるわよ、自然死なんだから。ほら、シーツに包んだまま、エドゥは頭のほう持って。私は脚のほう持つから。ミースはドア開けやら、偵察やらをお願い」


「あいっさ!」


元気いっぱいに云い放つミースに、正常な判断力も失われ、云われるがままにシーツでぐるぐる巻きのミイラのようになった死体の肩を持つ私。


なにかがおかしい、なにかがまずい、と思考回路のどこかで警笛が鳴り響いているのに、死体の双肩の重みがわたしの腕に伝わった瞬間、どこかへ吹き飛んでしまった。


自分でしがみ付く事をしない、大の大人の男というのはこんなに重たい物なのか。




せめて、抱きついてくれればいいのに、いや前言撤回、やっぱそれはいやだ――などと、病的に不適切な雑念を脳裏に横切らせながら、私はへっぴり腰で死体運搬及び隠蔽の片棒を担がされる羽目となったのである。



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