I. Allegro Macabre  ――死のアレグロ(アレグロ・マカブル) (4)




「前方、三階の廊下の向こうからお婆さん二人。ミス・フィットンとミス・ペニー。ラジャー?」


なぜか通信兵のような喋り方のミースの先導を元に、オーナーと私の二人は今や丸太のような人間だったものを担いで悪戦苦闘しながら、階段を降りていた。


フィットンさんとペニーさんは、先程の少佐と同じく最古参のうちの二人で、お爺さんとお婆さんの骨と筋で出来ていると思われる〈ホテル・ニムロド〉の梁のような人達だった。共に未婚で、常に二人一緒で行動していることから、どちらがどっちと見極めるのは至難の業である。


「まずいな。こんな刺激の大きい物を、年の頃八十から二百の間と思われるお婆さんたちに見せたら、あっという間に死体で川の字が作れるようになってしまう――やり過ごせ」


酷くざっくばらんな指示を出すハヅキだったが、当のミースはそれを心得たらしく、息を大きく吸い込んでぴょんと廊下に飛び出した。


「あ、お婆さまたち、これからお茶ですか?」


ミースの小動物のような形を、孫かペットのネコのように愛でている二人は、いかにも愛おしそうな声を上げた。


「あら、ミースちゃん」


「そうなのよ、あたしたち、これからまたミースちゃんが焼いてくれたケーキを頂こうと思ってたところなのよ。まだ午前中だけどね、お茶の時間は一日に何回あってもいいものよ」


「あのケーキはミースのじゃないよ。ミース、お菓子は苦手だから、〈葡萄燈〉の十和子さんから仕入れてるの。でもミース嬉しい」


耳をそばだてる限り、どうやらミースはふわふわの髪の毛を、よしよしと婆さん連中にくしゃくしゃにされているらしい。


ここでミースが、二人を上手く下へ降りる階段へと誘導してくれれば、関門を一つクリアなのだが――


(あの、オーナー)


(どうした、今声を出すと感づかれるぞ)


(あの――厳しいです)


(なにが。おしっこか、我慢しろ)


(違いますって。足腰ですよ。体勢的に無理がありすぎるんです)


軽く状況を整理すると、こういうことである。


私とハヅキは二人で、一つの縦長の物体を担いでいる。私は頭のほう、ハヅキは脚のほう。


けれど、ホテル内の廊下や階段は細長で、平行に並んで物を運ぶということが不可能だから、自然と一人が前衛で後ろ歩き、もう一人が後衛で前歩きとなるのだが、問題は階段である。


段差にして六段ほど。それだけならいざ知らず、私とハヅキの身長差二十センチ余りを加味すると、余程遺体を傾けなければ、私側の位置が下がりすぎてしまうのだ。特に、死後十時間は余裕で越えていると思われる遺体は、関節と云う関節が柔軟性というものを当の昔に置き去りにしてしまっていて、ベッドに凭れ掛かって亡くなった変則的な姿勢そのままで、余り低くに持つと腰の部分を擦ってしまうし、逆に高過ぎてもバランスを崩してまっさかさまなのである。


そんな階段で、導き出されるベストな位置は、私の膝のお皿ぐらいのところ。そんな姿勢で、六十キロ超はある塊を掴んだまま維持するのは、かなりきつい。さっきから中腰の腰が、曲がったままの膝が、みしみしと悲鳴を上げている。


(耐えろ。もうすぐミースが婆さんたちを追いやってくれる)


(無理ですって、婆さんたち、完璧に愛玩モードに入っちゃってますよ。もう少し手の位置を高く出来ればオーケーなんです。それには、オーナーとの間合いが開きすぎているんですよ)


(ん? じゃあ、わたしが一段ばかり上に上がればオーケーなのか――判った、ちょっと待ってろ)


そう云って、そろそろと慎重に遺体の脚を持ち上げるハヅキ。


――が。


あろうことか、足許に擦っているシーツの裾を踏ん付けた!


「きゃっ」


思わず足を取られ、何とか持ちこたえたものの、小さな悲鳴を上げてしまった。


途端に婆さん二人のきゃっきゃうふふとしたお喋りが止む。


「あら、何の声?」


「上に誰かいるの?」


――ああ、一巻の終わりだ――


流石のミースも慌てて、


「ハムちゃん!」


え、ハムちゃん?


ミースがばっと音を立てて、昇り階段の方に倒れ込む。


「ようやく見つけた! 今朝からどっかに逃げ出しちゃって――あ、でも、また上の方に行っちゃった――でも確かに尻尾が見えたよ! ピンクの、ニョロニョロの可愛い尻尾」


いや、だからそれ世間一般でいうハムスターに備わっている特徴ではないと思うんだが。


「でも、ミースちゃん?」


と、ミス・フィットン。


「今覗いてる尻尾は、ハムちゃんのというより――」


と、ミス・ペニー。


「ハヅキちゃんのだと思うのだけれど――」


え?


吃驚してハヅキの方を見ると、さっき転倒未遂を起こしたせいで、ハヅキの小振りな尻が、踊り場の死角から向こうにこんにちはしてしまっているではないか!


ギリシャ神話に出てくる怪物に一睨みされた人間のように、この上なく絶望的な表情で固まっていたハヅキだったが、何を思ったか突然、ぱっとご遺体の脚を支えていた両手を放し、立て板に水の怒涛の勢いで成る丈陽気に捲し立て始めた。


おかげでゴンと、死体の踵が大きな音を立てて床板にぶつかり、均衡を崩した私までもが、もんどり打って転げ落ちそうになった。


「おやおやこれは御婦人方、お日柄もよろしゅう――丁度、わたし、上の方に行って参りましたんですけれどね、最近雑誌で、階段を後ろ向きに降りると、大変裏筋――裏筋? いやいや、身体の裏っ側、そう、背筋のスコッチ――クロッチ? いや、ストレッチにようらしゅうございましてね。こうしてお客様の眼を偲んではこっそり、摩訶不思議な健康法を実践して、多忙な日常生活の中で元気な躰を育もうとしているんですよ。ご存じ? ドクター・ベンケイの『如何にして私が立ち往生しながら死んで行ける強靭な足腰を手に入れたか』」


なんちゅうタイトルだ。


でっち上げにしても、もう少しマシなのはなかったのだろうか。何が悲しくて、鎌倉時代の泣く子も黙る豪傑がそんなけったいなもの書かなきゃならんのだ。そもそも、弁慶死んでるし、誰がそのコラム書いたの?


呆気に取られてどうやら首を横に振るばかりのお婆さんたちに、ハヅキは更に畳み掛ける。


「お読みになったほうがよくてよ、十二世紀からのベストセラーなの。あ、そうそうミース、ハムちゃんならさっき、そろそろおやつ時だからお家に戻るって云ってたから、心配ないわよ――さあさ、おばあちゃまたち、わたしたちはヨチヨチ歩きでお茶に向かいましょうねー」


そうせっつくハヅキだったが、どうやら婆さんたち、下り階段の前で後ろ向きに立って微動だにしないらしい。


「――なにしてるの?」


「あたしたちもハヅキちゃんがやってる健康法やろうと思って」


「最近、いよいよあたしも腰がしんどくなってきたから」


「健康は身体の資本よね」


「もっともっと長生きしなきゃ」


ハヅキは遂に、上辺だけの慇懃な態度もかなぐり捨てて、


「いいからほら、さっさと下に降りる、さあ、さあ! アンタたちのどっちが前でどっちが後ろかなんて、もう誰にも判らないし、気にしちゃいないわよ、ほら!」


と、一頻り喚いて追いやってしまった。



これが、仮にもホテルの経営者の態度だろうか。今のがもし、あの慈悲深く寛大な心の持ち主で知られる(ただ単に忘れっぽいともいう)ミス・フィットンとミス・ペニーじゃなかったら、いよいよクレームの嵐を覚悟して、沈む船から逃げ出す準備をしなければならないところだった。


「よし、ここはクリアした。さっさと次へ向かうぞ」


 そう云って勢いよく遺体の脚を持ち上げたハヅキだったが、その拍子にどうやら死体の小指部分を思いっ切り壁にぶつけてしまったらしく、ゴンと鈍い音がした。


「……」


無言で非難の眼差しを送る私に対し、ハヅキは一瞬鼻白んだものの、すぐさま開き直って、


「も、問題ないわよ。タンスの角に小指をぶつけたようなもんでしょ。もし余りにも痛かったら、悲鳴の一つや二つ上げるわよ」


上げられればな。




そして、私らは気を取り直して、えっちらほっちらと二階への踊り場へと向かった。



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