I. Allegro Macabre  ――死のアレグロ(アレグロ・マカブル) (2)




「あー疲れた」


「あんた、刺されますぜ、その内――」


訂正。


この人はバカではない。相手を油断させ、出し抜く為にバカの振りをしている、利益を上げる為ならどんな不名誉も嘲りも受け入れる、商売人の鑑と呼べる強かさを持っている。ただ、バカの振りをしている頻度が高すぎる所為で、その皺寄せがあちこちに来て、マジモンのバカになりかけているだけなのだ。利口に成り切れない、バカを装っているバカ――それを端的に云うと、『根性悪』である。


ヘラジカ虐めに飽きたのか、次は花瓶の乗っているクロスの角度を微調整する精密作業に取り掛かり始めた。


「まあ事実、どうにか新規客を増やさなきゃいけないのは事実でね――まあ幾つか当たりは付けてあるし、エドゥ――あなたにも駅の方へ何度か向かってもらうとは思うけれど」


「拉致監禁ですか」


「いや、ポン引き」


「え?」


「え? ――あ、間違えた。客引き」


ああ、びっくりした。年頃の娘がそんな言葉使うんじゃありません。堅物のジュリオ叔父さんがいたら、今頃脳卒中でお医者騒ぎになるところだった。


黙っていれば可愛らしい顔を微動だにせず、ハヅキは構わずぺらぺら喋り続ける。


「兎も角、今日からはあなたたちにも、前以上に沢山働いてもらうよってこと。身を粉にして、馬車馬のように。ルソーは云った、『労働は最良の薬である』と。セネカは云った、『仕事は高貴なる心の栄養なり』と。富める人生、健やかな幸せを人に与えるわたし、マジ天使」


「それ、どこかの国の独裁者も似たようなこと云ってませんでしたかね――ちょいと待ってくださいよ、勿論、手当は出るんでしょうね? 労働の対価の正当な報酬が」


「あ? うちの給料は据え置きだよ、季節に依って値段を上げ下げする魚売りじゃないんだ」


「理不尽だ――」


マジブラック。マジ鬼畜。


この悪魔のことだから、労働は財産だから、心優しいわたしが自分の分までおまえたちに分け与えてやろう、とか云い出しかねない。


こやつの行末は八つ裂きかギロチンか、はたまた生きながらにして火ダルマかと、古今東西の暴君たちの憐れな末路を思い起こしながら、鬱憤を晴らすように部屋割り表に今日の宿泊客名簿を書き殴っていると、バーの扉が開いて、調子っぱずれのトロンボーンのような胴間声が耳を劈いた。


「グーテンモルゲン! 若人諸君!」


現実世界じゃ一九四五年のニュルンベルク裁判以来御法度とされているような、絶対悪のレッテルを貼られてハンターの餌食になるが宿命の軍服に身を包んだ、でっぷりと太った赤ら顔の老人が、その短躯をフグのように膨らませて出てきた。


「おはようございます、少佐」


「おはよう、フロイライン・イェーガー。今日も変わらずお美しい! そして本日も晴天なり! さて、朝刊はあるかね、フロイライン? 東部戦線の、ルントシュテット軍の進捗が気になる――」


「ご用意してございますよ。ほれ、エドゥ。いつもの」


云われるがままに、フロントデスクの下からアイロンの熱のまだ伝わる古新聞を取り出し手渡すと、


「おお、これはエドヴァルド君、いつもかたじけない!」


と大仰な身振りで礼を云い(いつもの如く、勝手なドイツ名前を付けるオマケ付)、いそいそと新聞を広げ始めた。


この御仁、ゲオルグ・ダンホルスト少佐は、当ホテルに半永久的に滞在しており、私らはおろか、オーナーの物心ついた頃からの顧客だそうだ。ただ、年月の経過と共に精神は逆行し、今は嘗て祖国ドイツの為に軍務に勤しんでいた時代に幽閉されてしまっている。尤も、彼は炊事班だったらしく、血腥い戦場の臭いとは無縁だった筈なのだが、彼の脳裏には勇猛果敢にアサルトライフルを携え、敵地に突撃していた想い出(虚構)が生き続けている。


オーナーの悪知恵で、古びた独字新聞にドイツ人らしい几帳面な折り目を付け、毎日与え続ければ、この狭いベイベルの箱庭の中で、永遠に一九四一年八月三十一日を生き続けられるということが判明して以来、わたしらは何の躊躇もなくそれを実践している。


意外と吝嗇家であるため、値上げ交渉などは一切行わず、厄介払いを決め込んだ娘夫婦の口座から自動引き落としにすることで、静かに恒久的にイェーガー家の食卓事情に貢献していることから、彼はしなびたエサの代表格であり、この〈老人たちの憩いの場――ニムロド・ホーム〉の立役者と云えた。


「ほうほう、将軍の軍は順調にあの忌々しいソ連の本陣へと、駒を進めておるようだな――」


ぶつくさと呟きながら階上に消えてゆく、剥き身のトマトのような身体を見送ると、わたしは再び部屋割りの整理に、オーナーは花瓶の水仙のラッパの些細な傾げ具合の調整に没頭し始めた。





数分後。


「あれ?」


わたしの呟きに、ようやく満足の行く花の活け方が出来た様子で、惚れ惚れとしていたオーナーが振り向いた。


「どした?」


「いや、おかしいんですよ。今晩の部屋割りの帳尻が合わないんです。何度見てみても、一人余分なんですよ」


「そんな馬鹿な。十時までに全員のチェックアウトは済ました筈だぜ? 朝食も全員摂ったし――数え間違えじゃないのか?」


「嘘だと思ったら自分の目で確かめてみてくださいよ。オーナーがその大して変わり映えしないラッパ水仙と格闘している間、こちとらずっと紙に穴が開く勢いで睨めっこしていたんだから――ほれ」


「どれどれ――」


眉間に皺を寄せて、「ひい、ふう、みい」と数えていたオーナーは、暫くして顔を上げて、


「ホントだ。一人多い」


近い近い。


「朝食はオーナーとトロイの管轄でしょ。本当に全員起きてて、お渡ししたんですか?」


「そりゃあもう――トロイ! あんにゃろ、またポカやりやがった。締め上げてやる。新聞配達の小僧より安いからって、あんな『エッ?』と『ハイ』しか云えない九官鳥以下の鳥頭雇うんじゃなかった――トロイ!」


私はいきり立つオーナーの細腕を掴み、押し留めた。


「ちょっと待ってくださいよ、今彼を呼んだら、『エッ?』しか云わないで余計物事がややこしくなるのが目に見えている。どこのどの御客がダブっているのか、まずはハッキリさせるのが先決ですよ」


「それもそうだ――」


再び、我々が額を突き合わせて導き出した結論は――


「三一号室」


「オーナーの管轄じゃないですか。あの昨日いらした顔色の悪い紳士のところでしょ」


「そんな馬鹿な! わたしはしっかり覚えているぜ、今朝、八時半頃に確かにイギリス式の朝食を盆に乗せて、部屋の中まで運んだ――」


「本当に渡したんですか? いつしかあったでしょう、言い寄られて面倒くさいからって、朝食のトレイを嫌がらせに、通知も無くドアの前に、それも一歩踏み出せばオートミールのボウルの中に足を突っ込んでしまうような場所に置いたことが――」


「いや、今回に関してそれは断じてない。確かに、朝食をベッドの上まで運んだ――」


その時、再度不本意な邪魔が入った。


キビキビとした様子で階段を降りてきたのは、当旅館数少ない常識人で家政のプロフェッショナル、シーツ替えから窓拭きまで神業的な速度で熟す敏腕メイド、キャリーだった。


「オーナー、少しよろしいですか?」


「今取り込み中だ、後にしろ」


キャリーは怯まなかった。


「そうは行きません。午後には別の御客様が入られる予定なのだから、今の内に清掃しないと後に閊えます。三一号室のことなんですけれど――」


「「なんだって?」」


ハッピーアイスクリーム。


時代遅れの云い方だが、それほどまでにタイミングがジャストミート。


運命の赤い糸で結ばれているのかもしれないと思える驚異的なシンクロ率を以って、わたしら二人は大声を上げた。


「三一号室がどうしたって?」


今にもキャリーの整った鼻筋に食いつかんばかりのオーナーを、いなすように押し留めて、落ち着き払って答えた。


「ですから、三一号室の御客様がまだお起きでないみたいなんですよ。何度かノックをして、お部屋の清掃に上がったと申しましても返事が無いし。少し扉を開けてみたんですが、まだカーテンも閉まったままでしたし、まずはオーナーの指示を仰ごうかと思って」


「あんにゃろ、二度寝か? 二度寝か、おい?」


大切なことは繰り返して云うのが人間の性。


にしても、一応客に向かってあんにゃろはないだろう、あんにゃろは。トロイじゃないんだから。


「まあ落ち着いて――カーテンが閉まってたって云ったね、キャリー? オーナーが朝食を運んだ時、本当にその人、起きてたんですか?」


オーナーは、唇に指を当て、ちっぽけな記憶力を精一杯掘り起こしながら云った。



「そりゃあもう――」



以下、オーナー、ハヅキ・イェーガーのフラッシュバック。


いくら扉を叩いても返事が無いから、叩き起こしてやろうと思ってドアノブを捻ると、鍵は掛かっていなかった。


おはようございます、良い朝ですね、お遅いお目覚めで! と、元気いっぱいにトレイの上の食器をカチャカチャ云わせながら乗り込むと、部屋は薄暗く、けれどカーテンの隙間から陽光が射し込んでいたので、灯りを点けるまでもなかった。


今日もいい天気で。よくお眠りになれましたか? いや急かすつもりはないんですけれどね、今日からこちらもオンシーズンなもので。こちらのお部屋は居心地がよろしかったでしょう? 窓からの眺めもようございますからね、なにせ二区ではとんとお目に掛かれない、オーシャンビューのお部屋でございますから。朝日が〈美しの湾〉に射し込み、煌めく姿なんかそれはもう綺麗なものなんでございますよ――尤も、お布団に包まれて、カーテンを閉めていらっしゃったらお目に掛かれないとは思いますけれどね、ハハハ――ですから、この部屋は常に大人気、当ホテルでも指折りの人気部屋なんでございますよ。ええ、予約もこの部屋だけは常に満杯という訳で――まあ、長期滞在の御客様のお部屋を除けば、の話でございますけれどね。さてさて、肝心の朝食ですが、どちらでお召し上がりになります? あら、お布団の上に手が伸びている。さいですか、御客様はベッドの上で朝食を召し上がる方。イギリスですと、皆さまお布団から出て朝食をお召し上がりになるものなんですが、大陸の方々はベッドの上で、と御所望される方も多うございますからね――いえいえ、問題ございませんとも! このトレイは特注でしてね、ほら、こうして底の折り畳み式の脚を建てれば――じゃーん、ベッドの上でも安定して朝食が摂れる台に早変わり! お紅茶はお熱うございますから、お気を付けて。チェックアウトは十時までにお願い致しますね。いえいえ、急かすつもりは毛頭ございませんのですけれど、何分時期が時期、お部屋がお部屋でございますからね――では、ごゆっくり。ボナペティ!



――回想終わり。



――ん?



矢継ぎ早に捲し立てるハヅキのモノローグに、私たちは違和感を禁じえず――


「あの――大変申し上げにくいのですけれど――」


そう恐る恐る口を開いたのはキャリーで、大きなエメラルドグリーンの眼を瞬かせながら、


「その御客様は、本当に起きておいでだったのですか?」


「ん?」


「先程のご説明ですと、その方、一切言葉を発せられていないような――」


「ん?」


私も痺れを切らして、


「アンタ、一人で捲し立ててたんじゃあ――」


「ん? あ、そっか」


オーナー呆然。私ら愕然。


長い一人芝居だなあ――よくもまあ、そんな落語の真打みたいに長い台詞がスラスラと出てきたものである。そのお喋りさ、二進法喋りのトロイに分けてあげたい。


「ですから、まだぐっすりお休みということも充分有り得る訳ですね」


と、キャリー。


「そうと判れば、善は急げ、だ。ヤロー、わたしの折角のモーニングサービスを虚仮にしやがって。二度寝たぁ太ぇ根性じゃねぇか。布団から引き摺り出してやる」


そう云い放ち、鼻息荒く階段へ猪突猛進する利己主義の塊。歩く自分勝手、動く身勝手、釈迦も真青の天上天下唯我独尊。


キャリーも慌てて、


「ちょっと待ってください、ですから何も二度寝と決まった訳じゃあ――」




「俺も行こう。ジュリオ叔父様が帰ってみたらば、半狂乱の姪っ子がお客相手に手を挙げている真っ最中なんてことになったら、それこそ洒落にならん」



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