I. Allegro Macabre ――死のアレグロ(アレグロ・マカブル) (1)
〈ベイベル・ターミナル〉は〈ミナレット口〉。
ミナレットとはトルコ語で、イスラム教のモスクに付随する、礼拝時刻を告げる尖塔のことである。
広場のモニュメントであるそれは、形こそ本場シリアのそれを模してはいるが、そこに敬虔な教徒の神聖さの欠片も無く、むしろ商業主義に彩られし〈ミナレット街〉の、周囲よりも数メートルばかり突き出た拝金主義を如実に表しているといえた。
〈ミナレット街〉は、ターミナルに面した他の地域の例に違わず、旅籠町である。
ここには大小様々、高級低俗リーズナブル問わず、ありとあらゆる宿泊産業が犇き合っていて、けれどそれらが順当に顧客を割り振っている訳では無く、常に威勢と愛想笑いの厚化粧の下には、狡猾な計算と算盤勘定が蠢いていた。ひとたび、宿の予約を取っていない旅行客が重たい荷物鞄を抱えてお天道様の下に出てみれば、たちまち腹を空かせたネズミの群の中に、パン屑を沢山体に貼り付けて身を投じるのと同じ行為だということを、身を以って体験する羽目になるだろう。
〈ホテル・ニムロド〉もそんなドブネズミ群の一匹である。
場所は完璧、設備も結構。
ミナレットの麓から一つ横道に入ったところ、旧きよきイングランドの上品な建築の優美さと機能性を兼ね備え、大きすぎず小さすぎもせず。大通りの喧騒は、ボスネズミ〈ノア・メトロポリタン〉の巨体に遮断され。大き目に取った敷地には、土地事情に厳しい〈ベイベル〉ではついぞお目に掛かれなくなった庭園付き。内壁に寄り掛かっているため、オーシャンビューの部屋もござい。
それでいて、お値段は実に良心的。設備も綺麗、朝食付き。昼食、夕食もお望みとあらばお抱えコックが腕によりをかけて各国の料理をご用意、アフタヌーン・ティーには様式美溢れるバラ園で、ベイベル一と通の間で名高い〈葡萄燈〉直送のケーキもセットでご提供。
「なぁのぉにぃ」
朝の一仕事も、チェックアウトの紳士のお相手も、街へ繰り出す老嬢たちのお見送りも終え、礼節の対象のいなくなったロビーに、不満たらたらの声が響く。
「人の悪いところはさ、一目で百は挙げられるわたしがさ、これだけ探し回っても粗一つ見つからないのにさ。どうしてこのホテルは、余所の図体ばかりデカいウスノロや、安いだけでセンスの欠片も無いボロ旅籠や、高いだけが売りの成金ホテルに収益で引けを取っているんだろ?」
そう云いながら、そろそろ塵どころか毛ごと抜け落ちて円形脱毛症に罹からせんばかりの勢いで、ヘラジカの剥製の頭部目掛けて叩きを振るっているはハヅキ・イェーガー。
ストロベリーブロンドの髪を優雅に束ねる彼女は、前後左右どこからどう見ても頼りない、世間の荒波からは一線画したところで平穏にすくすくと育ったお嬢様なのだが、このホテルのオーナーとしてヒエラルキーの頂点に立っている。
そして、勿論それは世襲制の産物である。
「そりゃですねえ――」
「それはだな」
私が溜息を吐き吐き返そうとしたら、被せてきたのは身形の良い、けれどその顔には純然たる苦悩の年輪が刻まれつつあるジュリオ・イェーガー。
ハヅキの叔父で、彼女のお目付け役兼尻拭い役で、名前こそジュリオだが、いつかブルータスとなり皇帝の首を掻き切らん日が来るのではないかと、噂されているマネージャーである。
「おまえがオーナーだからだ。人間、自分の目玉より近くにあるものは、見えなんだらしいからな」
ハヅキは耳の痛い進言に対して、常に目を泳がせ、口笛を吹かん勢いで口を尖らせることで対応する。
いや、聴けよ。
「少なくとも、この好楽シーズンに一定数以上の新規客数を挙げられないことは、宿泊業としては失格、って前の組合会議で云われてね。あの成り上がりの〈ノア〉の大狸め。ヒドくね、ありえなくね、お父様の時代からこちらを贔屓にして下さるお客様たちに、満足の行くクオリティのサービスを、継続して提供し続けるのも、立派な在り方っしょ」
「ですからねえ――」
そう云いつつ、手許にある宿帳に眼を降ろした私は、この身長百五十五センチ、首から上がスッカラカンのオーナーに、正論を吐くことほどバカバカしいことは無いということに気付き、言葉を引っ込めた。ジュリオさんのように、この歳からチリメン皺を浮かべたくはない。
そうなのだ。
この〈ホテル・ニムロド〉は、立地、設備共に一級品なのだが、頭部に重篤な腫瘍を抱えている。
お陰で、この都会のネズミの集合社会に於いて、常に痩せネズミのポジションを甘んじて受け入れ、しなびたエサの切れ端で食い繋ぐ羽目に陥っているのである。
しなびたエサと云うのは、即ち先代のオーナー、ハヅキの父オーガスト・イェーガーが獲得した常連客、長期滞在客の総称で、彼等にも高齢化の波が押し寄せ、今や宿屋よりも老人ホームに鞍替えした方が良いのではないかと思われる有様である。
「だから、値上げも已む得んと云うのだ。兄貴の時分とは情勢も違う。なんぼこの〈ベイベル〉が堰き止められた堰堤のようなものと云えど、物価は上がるし、常連の方々も不老不死ではあるまい。今からでも遅くは無い、今日から始まる書き入れ時の為にも、値上げの検討を――」
「それは駄目よ。絶対」
オーナーは凛と、引き締まった面持ちで振り返って反論した。
「わたしは、お父様が一世一代で築き上げたこの城――わたしにとっても、掛け替えのない想い出の場所を、変わらぬクオリティで保ち続ける責務があるの。お父様や、お母様、わたしのヨチヨチ歩きだった頃から、この宿屋を、わたし達家族を愛して下さった方々に、皆が揃っていたような時代そのものを提供することこそが、恩返しで人情だと思うの。況してや、今更値上げだなんて断固反対、有り得ない。それに、新規のお客様だけに別料金を吹っ掛けるのは、それこそ道義に反しているし。勿論、わたしはお父様のように才覚がある訳でもないし、お母様のようにマネージメントに秀でている訳でも無い。それは良く判っている――」
ハヅキは少し頭を垂れ、声音にも頑なさが薄れて行く。
「だからこそ、わたしにはあなた達が必要。叔父様の経営手腕、エドゥの骨身を惜しまないコンシェルジュとしての勤勉さ、キャリーのメイドとしての愛らしさ、ミースの皆を満足させるコックの腕、ノーベリーの園芸に於ける情熱と職人魂、トロイの――まあいいや」
「エッ?」
ボキャブラリと云えば「エッ?」と「ハイ!」しか無い、脱走したハムスターの如くチョロチョロ歩き回っていた欠陥給仕トロイが、自分の名前を聴き付けてミーアキャットさながらに振り向いた。
「なんでもないよ。持場にお戻り。しっしっ」
「ハイっ! ハイっ――」
いつものように邪険に、人件費の安さ(非合法)だけが売りのウェイターを片手で追い返すと、オーナーは何事も無かったかのように続けた。
「みんなそれぞれ、このホテルには――わたしには、欠く事の出来ない人材であり、家族なの。わたしにはあなた達が――叔父様が必要なの」
仏頂面のジュリオの顔に、綻びが生まれたのを私は見逃さなかった。同時に、オーナーの顔にも、商売人特有のズル賢い蜜を啜る時の微笑が浮かんだのも、しっかり見ぃちゃった、見えちゃった。
「わたしの理想は間違っているとは思わないけれど、それを実現できる能力に欠けていることは、認める――」
一層しおらしくなるハヅキ。
硬直するジュリオ。
「わたしには、従業員が辞めるのを引き止める権限はないし、それは叔父様も同様――」
お、もうちょっと。
「叔父様には叔父様の人生があるし、その幸せを掴む自由も権利もある。決して、わたしのワガママの為だけに路頭に迷ってほしくは無い――」
もう一押し!
「だけれど、わたしは――ハヅキはワガママだから、それでも敢えてみんなに――叔父様に甘えてしまう――」
よっ、この悪女! ファム・ファタル!
「でも、それも偏に、みんなのこと――叔父様のことを、頼りにしているから。大好きだから――だから――」
にしても、叔父様叔父様くどいな。
けれど、当の叔父様はグロッキー寸前、脂下がるマヌケ面を、必死に表情筋でマリオネットにアクロバットで吊っている。
「もうすこし、ハヅキのワガママに付き合ってくれませんか?」
叔父上、陥落。
もうシワシワのご面相は重力に逆らおうとせず、だらしなくなすが儘。ただでさえ長い馬面の鼻の下が、定規を当てられんばかり。
「――ま、まあ」
咳き一つ挟んで、最低限の叔父の威厳を取り繕おうとして取り繕い切れていない叔父貴は、時代遅れの山高帽を目深に被り、
「これも兄貴に頼まれたことの一環だしな――致し方あるまい。私も私で、精一杯おまえの理想に沿う策を講じてみるよ。ただ、おまえもこの一年で一番の稼ぎ時を真摯に受け止めておいて欲しいというだけで――よし、まあチョイと金策に出かけてくる。あ、そうそう、今日の夕方にでも、例のハヅキが南京豆を弾いて遊んで壊してしまった、ここのシャンデリアが修繕を終えて戻ってくるから、後は宜しく。留守番頼んだぞ、ハヅキ、エドゥ君」
ああ、情けなき叔父馬鹿。姪コン。その逞しい後姿は、戦場に赴く雄馬と云うより、メリーゴーラウンドの木馬のようにヒョコヒョコして、今にもギャロップしそう。
「いってらっしゃーい」
百カラットのあざとさで、叔父上の旅立ちを見送った不肖の姪は、その姿が見えなくなるや否や、当初と同じ気怠げな面で、再び猛然とヘラジカに清掃と云う名の折檻を加え始めた。
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