第85話 中途半端は、
大量の食材が散乱すると、チーちゃんが高速で尻尾を振りながら走って行った。
食材の一つに鼻を近付け入念に臭いを嗅ぎ、味見しようとベロを出す。
アイテムを勝手に食べるのは飼い主としてやめさせなければならぬと春太は焦った。
「チーちゃん食べちゃだめ!」
だがチーちゃんは春太を振り向くこともしない。
もはや夢中になっていて春太の声が聴こえていないのだ。
「あーもう! セリーナ、チーちゃんを止めて!」
セリーナならばなんとかしてくれるだろうと呼びかけてみる。
しかしセリーナは春太の方を振り向いたものの、すぐに元の方向へ向き直ってしまった。
聴こえないフリだ。
犬は時々、聴こえないフリや分からないフリをする。
飼い主が就寝する時にケージの扉を開け「ハウス」と言うと、愛犬がケージに入らないことがある。
その場でお座りしたり寝転がったり、走り回ったり。
大抵の犬は「ハウス」の意味を理解しているが、理解した上で聴こえないフリや分からないフリをするのだ。
もうちょっと遊びたいとか、一緒にいたいとか、撫でてほしいとか。
そういう思いがあるから、ケージに入りたくないのである。
今の場合、セリーナが何故聴こえないフリをしたのかというと。
彼女自身が食材に夢中だったからである。
「このままじゃ全部食べられちゃう、みんな早くドロップアイテム回収してーっ!」
春太の号令で全員慌ただしくアイテム回収に走った。
幾つかは食べられてしまったが、殆どは無事回収できた。
「もー我慢できずに食べちゃうんだからもー。駄目でしょー」
春太がチーちゃんとセリーナにお説教。
チーちゃんもセリーナも春太の前にお座りし、満足そうに口の周りを舐めている。
ペットは食事が終わると口の周りをベロンと舐めて綺麗にするのだが、おいしかったことを全力で表現しているみたいでほっこりするものだ。
だからついつい許してしまいたくなる。普段お店に行った時なんかは自身に出されたもの以外に手を出さないでいてくれるんだけど……なんか今回は雰囲気が違ったのかもしれない。目の前でいきなり食材がドッバーッで落ちたから。ワーイ食い物だイエーイみたいな。
「もうそれはしょうがないわ。殆どは回収できたんだし、それでよしとしましょ」
メルムは全然怒っていないようだ。
それどころか楽しそうですらある。
ペットのイタズラは微笑ましいのかもしれない。
「じゃああたしも食べていい?」
この流れならいけそうと思ったのか、マキンリアがしょうもないことを訊ねる。
「ダ~メ、帰ってからでしょ?」
軽く窘められマキンリアはしょんぼりした。
まったくマキンリアの食い意地は底なしだと春太は思う。そもそも何故この流れならいけそうと思ったんだ。駄目に決まってるだろ普通。
メルムは地底湖の際まで歩いていって、うーんと伸びをした。
「ん~久々に冒険を楽しめた」
それはみんなに話しかけているようでも、自分自身に話しかけているようでもあった。
「ここ、凄く綺麗ね……」
その独白に誘われるようにみんなが地底湖へ目を向ける。
湖の底には青く光る鉱石が散りばめられていて、趣向を凝らしたアートみたいだ。
薄暗い洞窟での天然のライトアップ。
時折滴が落ちて湖面に波紋ができると、光も揺らめいていた。
絶景である。
メルムは固く閉ざされていた扉を解錠するように独白を続けた。
「今まで悩んでいたのがバカバカしくなっちゃった。こんな綺麗な景色が、まだまだいっぱい、世界にはあるんでしょ。そんな景色を巡れるなら、冒険者だって悪くない」
それは菓子職人を諦める宣言に聴こえた。
でも、違った。
「でもね、菓子職人になりたいのも本当。だから……どっちもやってみる。中途半端だけど、でも、それでも良いやって今、思えた。菓子職人は目指すけど、冒険をきっぱりやめてしまう必要なんてないって分かった。どっちかしか駄目なんて思い詰める必要はなかったんだよね」
彼女の中に閉ざされていた思いが吐き出されていく。
湖面に向かって吐き出されたそれは、静かな水面に優しく受け止められたように感じられた。
春太は特に声を掛けなかった。
メルムの中で気持ちに整理がついたなら、それでいい。
彼女の中にしまい込まれていた気持ちは、予想とは少し違っていたようだ。
本当は菓子職人になりたいのに、親がネックになっていてやれない、そういう風に思っていた。いや、それも完全に間違いではないんだろうけど。でも、彼女の中には冒険者に対する未練というか、そういうプラス面もどこかにあったのかもしれない。だから、菓子職人を目指すなら冒険者はきっぱりやめなければいけない、でも、なるべくならどっちもやっていたい……そういう気持ちがあったんじゃないか。
彼女は菓子職人を目指すのを親に報告したがらなかった。
頑なに。
何で頑なに報告しなかったのか……それは、そういうことなのかもしれない。
なるべくなら両方。
でも、それは中途半端だ。
こんなんで良いのだろうか……
それが彼女を苦しめていたものの正体ではないだろうか。
中途半端。
中途半端は、悪いことなのかもしれない。
でも、今はそれで良いんじゃないだろうか。
いずれ、どちらかを選ぶ時が来るかもしれないし。
メルムの背中を見ていると、何かに向かって歩き出したように感じられた。
人生の中で、自分の見付けた道を。
春太も少し、元気をもらえた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます