第3話 モリス氏とレノア

モリス氏が郊外にある古い屋敷を購入したのはレノアとの結婚が目前に迫っていた頃だった。


破格の安値ではあったがその荒れようといい酷い有様であった。まずトイレや風呂は一体どんな使い方をしたのか想像もつかないほど汚れていてまるで壮絶な地獄の一端でも召喚してしまったのかと思われた。そして排水溝には

悉く有象無象が詰まっていた。モリス氏は果敢にそれらを使えるように片付けたが問題はそれだけではない。


リビングに繋がる客間の壁一面には汚物の飛び散ったシミがこびりついていて酷い悪臭を放っていた。レノアが懸命にふきあげてみたものの臭いはどうしてもとれず、結局二人は大枚を叩いて壁紙ごと張り替えることにした。


さらに寝室を含めた二階の部屋は悉く雨が漏れた。唯一雨が漏らない部屋があったが、その一室は大きな窓が割れて、一角には鳩の糞がうず高く積もっていた。しかし一階は壁紙を張り替えてしまうまでは以前の住民の亡霊にうなされておちおち眠れないので、仕方なくしばらくは雨が降るとその部屋で鳩達と寝起きを共にした。


普段から二人が喧嘩をする事は稀であったが結婚式に、黒い宝石のついた衣装が良いとレノアが言ったのをモリス氏は頑として受け付けず、彼女は泣く泣く承知をした。しかし結婚した後も二人は相変わらず山水に親しむが如くその家で穏やかに暮らした。


それから幾年目かの結婚記念日の夜に、二人で蝋燭の灯りを挟んで夕食をとっていた時。モリス氏は妻に桃の香りのついたシャンパンをプレゼントした。シャンパンを注いだグラスを傾けて、レノアは嬉しそうに微笑んだ。

そうして一口飲んだ後、急に思い出したように台所へ行くと、紅茶の箱を持ってきて言った。「この前の誕生日にいただいたプレゼントすごく良かったわ。いろいろ入っていて毎日飽きないもの」モリス氏が妻に捧げる贈り物は

常にそういったささやかな物ばかりであったが彼女はいつもそれらを心から喜んだ。

シャンパンを飲みながら、色取り取りの紅茶のパックをテーブルの上に広げてそれぞれの味について楽しそうにぽつぽつと話す彼女を見て、モリス氏はこの人はきっといくつ年をとっても変わらないだろうと思った。そして、変わらないでいて欲しいと願った。


「ねえ、○○橋のところに新しく綺麗なパン屋さんが出来たのよ、ご存知?」モリス氏には妻の言いたい事はわかっていた。「そうかい。じゃあ、行こうか」レノアはそれを聞いてまた嬉しそうに笑った。モリス氏は立ち上がると、短く切り揃えられた妻の艶やかな麦色の髪に口付けをして「今日はもう遅いから寝るよ」と言った。妻は「縫い物が途中だったの。針を片付けてから行きます」と答えた。


家の修復もだいたい済んで先住民の面影は、だいぶ薄れてきた。

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