第16話 体育祭
夏休みは幕を閉じ、全米オープンテニスが開幕した。自宅でWOWOWが見られない俺はWOWOWのホームページ上で日々更新される三分ほどに編集されたダイジェストを観賞するしかないので、やや鬱憤が溜まっているものの、夜更かしをしないで済んでいる。
そのため夏の間にダンス練習や部活で早起きに馴染んでいた俺は、通常一番起床が困難な休み明けに難なく起床するという妙な塩梅になった。体育祭を終えるまではこの生活リズムを保てそうだ。
めずらしく他の生徒と共に駐輪場に入ると折よく堀川さんが自転車に鍵をかけている。
「堀川さん、おはよー」
堀川さんの隣に自転車を滑り込ませながら挨拶する。
「あ、おはよう」
「久しぶりだね」
「うん。八月は夏期講習でほとんどダンス練行けてなかったから」
「大変だね、とか言っても俺も他人事じゃないけど……塾は結構二年生いるの?」
「まだそんなにいないかな。あ、でもテニス部の、日野くんだっけ?夏期講習にいたよ」
「マジで?」あのがり勉め、堀川さんと同じ塾だと。「そうなんだ。まあ、詰まらない奴だから関わらない方がいいよ」
「ええ、そうなの?」
堀川さんは笑った。
校舎に入った俺は休みの間の癖で三年四組の教室に行こうとして堀川さんに止められつつ、二年五組の教室へ向かった。久しぶりに見る授業前の教室は夏休みが終わったという気だるさ以外に何もない。俺も席に着くなり机に突っ伏した。
「めずらしー。坂上くんがいるよ」
声に反応して顔を傾けると、渡見さんが来ていた。やけにこんがりと日焼けしている。
「久しぶり、焼けたね……」
美味しそうだ、と言う寸前で言葉を切る。
「日サロに行ったの。それよりいつからそんなに真面目になったのさ?」
「たまには真面目になろうと思ってね」
たまには真面目になりなさいな、と姉さんは言った。しかし真面目に不真面目を心がけて生きている俺がこれ以上真面目になったら、その生活は不真面目の極北へ到達し、そのまま大原高校から追放されることになりかねない。それとも今更真面目を心がけろということなら、それは慣れ親しんだラケットが手元にあるのに、使ったことも無いラケットで試合をしろと言うのと同義で、承服できない、というより無理である。いくら姉さんの頼みでも無理である。しかし体をぺったりくっつけられながら頼まれたりしたらそれは断る方が無理である。別に頼まれた訳でもないのにダンスを教えた時に掴んだ姉さんの腕の感触を思い出しながらそんなことを考えていると、渡見さんは訝しげに俺を見て言う。
「何か変なこと考えてる?」
「俺は常に変なこと考えてるよ」
そう言いながらも、慌てて顔の緩みを正した。
学校が始まると体育祭まではもう一週間しかない。周囲の雰囲気は、やんわりしたラリーが全力でポイントを取りあう打ち合いになったくらい変化し、五人の足並みを揃えるのが難しくなったので部活は自主練という形になり、俺は久方ぶりにテニスから離れた。
体育祭にはダンスの他にも競技があるが、本番までの僅かな時間はそのほとんど全てがダンス練習に費やされた。俺は来る日も来る日も姉さんと踊ったために一際周囲の負の感情を買い、嫉妬・憎悪・怨恨・敵意と負の感情でグランドスラムを達成できそうであった。
けれども村口先輩の嫉妬を発端に起きた夏休み終盤の事件のようなことは、さすがに起きそうにない。今や『水の水曜日事件』と呼ばれて語り草のあの出来事は、歴史の短い大原高校で指折りの悪ノリであったとする向きが多く、水風船の出所に関しては噂が噂を呼んで未だに謎のままである。
体育祭の準備には明らかに俺が平生全力で避けてきた絵に描いたような青春の雰囲気が漂っていた。だが懐の深い俺は易々とその矛盾から目を背け、平然と思うさま体育祭の準備を楽しんだのだった。決して易きに流れているわけではない。
〇
いよいよ体育祭当日になった。空はカラリと晴れ、競技が始まる前から汗が滲み出てくるような陽気である。二年五組のレジャーシートに座ると、校舎側に並んだ父兄用の席はテントの下に並んでいて涼しそうに見える。すでに開会式も終わり、最初の競技が始まろうとしているが生徒側は人の行き来が盛んで、競技を観戦する雰囲気ではない。
「やめちまえばいいのにな」
石村がグラウンドを眺めながらボソッと言った。
「何が?」
我門は顔にタオルをかぶせてシートに横になっている。
「競技だよ、競技。どうせ皆、体育祭はダンスにしか興味ないだろ」
「ま、それもそうだけど」
柿沢が水筒を出す。
「そんなこと言ってないで体育祭を楽しめよ」
俺は柿沢から水筒を奪おうとして失敗した。
「そりゃあ、お前は楽しくて仕方ないだろ。ダンスのペアがあの宮野先輩だもんな」
「それに匹敵する努力はしたぜ」
「テニスそっちのけでな」
我門はタオルをどかしてこっちを見ながらにやにやしている。
「しかし意外だね。坂上がちゃんと体育祭に取り組むなんてのは」
「確かに。あれだけ学校行事を面倒がってたのにな」
「分かってないな、お前ら」我門は体を起こした。「こいつは昔っから面白いことが最優先で立場やプライドは二の次だ。要するに軽佻浮薄なんだよ」
「なるほど」
石村と柿沢は声を揃えた。
「阿呆。素直なんだよ」訂正しながら立ち上がる。「便所行ってくる」
簡易的なポールとロープで囲った部分の外側を、各クラスのレジャーシートを避けながら校舎へと向かう。グラウンドから出て体育館棟と教室棟の間の道を行くと、そこには各ブロックの製作したボードが飾ってある。どこも凝り方が尋常でない。かつて水風船なんぞで製作の邪魔をしてしまったことを心から詫びながらそこを通り過ぎた。
昇降口に入ると、入れ違いにブロ長と詩織先輩と陽子先輩が出てきた。
「お、坂上くん、調子はどうだい?夏海のペアは務まりそうかな?」
「もちろんです。優勝はいただきかなと」
「言うねぇ。じゃあ、もし負けたら坂上くんのせいだね」
詩織先輩は笑顔で言う。
「負けたら打ち上げで何か面白いことやってもらおうよ」
陽子先輩が悪ノリし出す。
「いいねぇ」
「いいんですか?何するか分かりませんよ、俺は」
煽ると先輩たちは笑った。
「頼もしいね、任せたよ」
先輩達への軽はずみな発言に早くも若干の後悔を覚えながら、トイレの個室に籠って今朝家で出切らなかった分と格闘していると新たに人が入ってくる。学校のトイレは人が入ってくると集中しにくい。だからわざわざ校庭から一番遠いトイレを選んだというのに、何とも運の悪いことだ。諦めて入れていた力を抜くと入ってきた男がしゃべりだした。
「振動止めは、アガシがガットにコンドームを結びつけたのが最初だって聞いたんだけど」
「そら、いくらなんでも嘘やろ」
ここまで聞けば、後は小便の滴る音で声が掻き消されようとも、誰が話しているか分かる。数々の奇人がうごめく大原高校でも我流の関西弁を話す阿呆は一人しか知らない。
「やっぱりそうかな」
「ホンマやったらおもろいけどな」
木戸の言葉が終わると同時に再びトイレのドアが開く音がした。
「あれ」
「お、日野か。お前、振動止めの開祖はコンドームゆうたら信じるか?」
「何それ?」
日野が加わって、この上なく実りのない議論が加速し始めると、再度ドアが開く。
「ん、お前ら何やってんだ?連れションか?」
我門の声だ。
わざとやってんじゃねぇだろうな、こいつら。
「偶然や。まさか我門まで来よるとは」
「誰一人得をしない偶然だな」
「うかうかしてると、坂上まで来そうだね」
もういるわ。
「そう言えば、さっきトイレ行くって言ってたな」
「我門は知ってるか?振動止めの先駆け」
散々生産性の欠片もない話と小便を垂れ流すだけ垂れ流してようやく四人が出ていった時には、やや疲労さえ感じた。最近まで毎日あんな会話に自分も参加していたとは信じがたい、と思いながらトイレから出た途端、誰かにぶつかった。
「す、すいません」
「ごめんなさい……って、アッキーじゃん」
「あ、先輩」
アッキーのジャージのポケットから体育祭のプログラムが飛び出しているのを見て、ふと未だに自分の出場する競技の開始時間を知らないことに思い当る。
「アッキー、大縄跳びって何時からか分かる?」
「え、はい。えーっと」アッキーはパラパラとプログラムをめくり出した。「大縄跳びですよね。午後二時からですよ」
「まだ大分時間あるな。ありがと」
そのまま成り行きでアッキーと歩き出す。競技がまだだと分かった以上、傍らにアッキーがいるのにシートに戻ってクラスの野郎どもの会話に付き合うのは、コートが空いているのに素振りの練習をするようなものだ。
「いやあ、いよいよ本番だな」
「そうですね、緊張します」
と答えたものの、アッキーの声はどこか気分が沈んでいる。
「何か元気ないけど、調子でも悪い?」
「いえ、別にそんなんじゃ。ただ……今日で終わっちゃうのかと思うと寂しいなって。体育祭の準備はすごく楽しかったんで……」ボソボソした小声になりかけてアッキーは言葉を切る。「あ、すいません。なんかテンション下がること言っちゃって」
「いやいや、同感だね」
体育祭が終われば部活に戻るのだ。俺だって虚しくはなっても、嬉しくなることはない。
「私、先輩が誘ってくれたマネージャーの話、受けようと思ってます」
アッキーは突然、意を決したように言った。
「ダンス練とかやってて、やっぱり何かやってた方が楽しいなって思ったんです。だから先輩が誘ってくれてからかなり時間経っちゃってるんですけど、あの、大丈夫ですか?」
「全然問題ないよ。いつでも大歓迎だ」
とは言ったものの、アッキーが入る以上は体育祭のあと即座に部活へ復帰しなくてはならず、それを思うと気が重い。まるで自らチャンスボールを出して自分を追い込んでしまった観がある。
「ボード、すごいね」
再びボードの並んだ場所まで来たので話題を逸らす。Fブロックのボードからは竜が飛び出していて、背景は星を散りばめた夜空だ。
「ホントですね。星がきれい」
そういえばアッキーはあんな柄のパンツ履いてたよね、という言葉は紳士らしく控える。
「あ、いた、いた。アッキー」名前は知らないが、Fブロックの一年生であろう二人の女の子が小走りでこっちへ来る。「そろそろ、障害物競争始まるよ」
「ホント?分かった」
「そんじゃ、頑張って」
「あ、はい。ありがとうございます」
アッキーは二人の一年生と一緒にグラウンドの方へ走って行った。体育祭の準備を通して随分とクラスにも馴染んだようだ。
改めてボードへ目をやると飛び出した竜が笑っていることに気がつく。どうも癇に障る笑顔だ。まるで露骨に明暗を分けつつあるアッキーと俺を見比べて笑っているように見えるのは被害妄想か。近くに落ちていたテニスボールを拾い、竜の左の鼻の穴に詰め込む。すると敵意ある笑みは愛嬌のある笑顔になった。いや愛嬌を通り越して阿呆に見える。
「うむ、大原高校らしい雰囲気になった」
決して後ろめたいからではないが、やや速足にその場を離れた。
〇
Bブロックは女子ダンスが可愛らしかった。Eブロックは肌色に染め上げたスパッツだけを纏った数人の男がうごうごしていて、歓声というより悲鳴をまきおこしていた。
すぐにFブロックの番が回ってきた。音楽が流れ出すと、あれよあれよという間にダンスが進み、気がつくとペアダンスになっていた。慌てて俺は姉さんと踊っている一瞬一瞬を、もう一度テニスがリセットされそうなくらい深く脳に刻み込んだ。そしてそれを反芻している内に全体ダンスが終わり、Fブロックのダンスは終了した。
終わってしまうと、あまりにもどうということもない。物足りなさを感じながら俺は、大縄跳びでは右斜め前で大きく上下に揺れる堀川さんのおっぱいに見惚れて二度ほど跳び損ね、リレーの応援ではいつの間にかCブロックの四元さんの尻を目で追っていた。
何か足りないが下心でないことは確かのようだ。結局、不足感の出所が判然としない内に高校生活最初で最後の体育祭が終わってしまった。閉会式はいつもの全校集会のように話声で何一つ聞き取れなかったが、結果発表の段になると嘘のように静まり返る。
「結果発表。ブロック対抗ダンス、第三位」
マイクで拡大された校長の声が校庭に響く。
「Cブロック」
Cブロックから歓声が上がった。立ち上がってガッツポーズをする者や抱き合う者、喜びの声が夕闇の中にしばらく尾を引いた。
「第二位」
Cブロックが静かになりはじめたのを見計らって校長が再び口を切った。それでグラウンドは一気にまた静かになる。
「Fブロック」
一瞬の沈黙の後、ワンテンポ遅れて声が上がりはじめたが、どう誤魔化しても勝利の雄叫びよりも、悔し涙の滲む悲嘆の方がよく聞こえた。どうやら皆優勝の自信があったらしい。しかし俺は悔しくなかったと言えば嘘になるが、悔しかったと言っても嘘になるといった、表現に困る感情を抱えて周りでさめざめと泣いている女の子たちをぼんやりと見ていた。
〇
体育館で行われた後夜祭も、その後に校庭で上げられた打ち上げ花火も、ダンスの敗北を忘れさせるに十分なほど楽しかった。勝者も敗者も一緒くたに盛り上がって、締めくくりは上々だ。なのに、折からの不足感はますます強く兆す。
「はーい、皆聞いてー」打ち上げ花火が終わった後、校庭の端に集まったFブロックのメンバーに向かって、ブロ長が声を張り上げていた。「打ち上げの場所は海です。市営プールの横の道から浜に出たところ。八時。打ち上げは八時に海。皆来てねー」
高校生が大勢で騒ぐとなると場所選びは大変難しい。居酒屋はまあ論外、人数が多いので大富豪でもいない限り誰かの家というわけにもいかず、自然と屋外が最適となる。その場合、大原高校のすぐ隣の総合公園か海が相場だ。どちらも環境などで一長一短だが、どちらにしても周りに民家が無い場所を選んでいる大原生は高校生の鏡である。映っているのはきっと立派な阿呆高校生だろう、と一人で誇らしげに胸を反らしていると団扇で肩を叩かれた。
「坂上くん、約束覚えてるかな?」
詩織先輩だ。
「何のことでしょう?」
「その様子なら大丈夫だね。面白いこと期待してるから」
陽子先輩もいた。
面白いこと、という陽子先輩の言葉を聞いた途端、俺の中で漠然としていた不足感が鮮明になる。同時に今幕を引こうとしている素晴らしい青春のお手本のような体育祭が、俺にはひどくわざとらしく滑稽で納得のいかないものに見えてきた。
「任せて下さいよ。おい我門、木戸と大場と日野を探しに行くぞ」
「はあ、何でだよ?」
俺は渋る我門を押して駆け出した。
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