第15話 ダンスレッスン
ようやく事態に気がついた先生方の怒声によって事が治められた時には、一階のホールは観測史上最大の台風が通過したばかりだと言っても嘘に聞こえないくらい浸水していた。しかし、あまりの人数があまりに大っぴらにしでかしたので先生のほうでも呆れかえり、説教もそこそこに掃除ということになった。
ハードコート用の水切り道具をテニスコートから動員し、廊下から昇降口や中庭へと水を押し出しながら、水風船の残骸やバケツやホースの片付けをしている内に時間は過ぎてゆく。今や、今日はどのブロックもまともな練習をすることができないということが明々白々になりつつある。けれどもその割に片付けをする生徒たちの間には満足感が漂い、心なしかボランティアの草むしりでもしているような清々しささえ感じられる。
我がFブロックの女子だけは唯一の例外で、休憩がてらに教室を出てきた姉さんや詩織先輩は百人以上の生徒が一階ホールを掃除する姿を見てひどく驚いた。
「何があったの?陣ちゃん」
「話すと長くなるから今日は一緒に帰ろう、宮野先輩」
「ま、別にいいけど」
よし。
メディカルタイムアウトで流れを変えたような気分になった俺は集めた水風船の残骸を掴み、力を込めてゴミ箱に投げ入れた。
〇
「というわけで、俺と村口先輩の鬼ごっこが水かけ戦争に発展したのである」
「いやはや、陣ちゃんは相変わらずだね」
帰宅ラッシュで車道がやや混雑した七間通りを、俺は姉さんと自転車で並走しつつ南に向かっていた。この瞬間一つ取っても今日の戦争には意味があったのだ。未だに乾き切らないTシャツの着心地の悪さも気にならないくらい俺の気持ちは軽やかである。
「むっくんと山ちゃんがすごく怒られてたけど」
「山ちゃん?」
「あの黒髪でツンツンの人」
「ああ、あの二人はホースで散水してたから」
「何それ、あの二人も変わらずぶっ飛んでるなぁ」
国道一号線の信号が折よく赤に変わった。そのまま青にならなかったらどんなにいいかと考えながら自転車を止め、姉さんの方に目をやる。何だか姉さんの口元が緩んでいるのは気のせいか。
「何か嬉しそうだね」
「うん。何かさ、高校生活も残り短いし受験とかあるけど、皆相変わらずだなって、それで安心したっていうか何ていうか」
「そっか、姉さんも受験か」
「そうだよ。悩み多き時期なんだよ」
「その割に随分長くスペインに遊び行ってたけど」
大学受験を控えた女子高生に何一つ悩みがないなんて、どんな小さい大会も優勝しないで世界ランク一位を取るくらいあり得ない気がするが、姉さんならそれもあり得そうな気もする。
「息抜きは不可欠なの。陣ちゃんはどうなの?」
「俺は悩みとは無縁だね。女の子が悶々と悩んでいるのは可愛いけど、男がウジウジ悩んでいるのは気持ち悪くてしょうがない」
「そうかな?可愛い一年生を新しくマネージャーに誘ったみたいだけど」
「な、何故それを?」
「アッキー本人から聞いたよ。さっそく今日仲良くなっちゃった。陣ちゃんは邪な気持ちで女の子に近づく割に、相手は何故だかいい子ばっかりだよね」
「邪とは失礼な。まあ、見る目があるということだよ」
「それで、悩みがないということは、テニスは戻った?」
「いや……」
「あるじゃん。悩み」
「悩んでない」
とは言ったものの、本当にそうなのか今一つ自信がない。
「ほほう、強がるね。今まで悩まなかったんだから、その分悩んでもいいんじゃない?」
「強がってないさ」何でムキになっているのか自分でも分からない。相手の挑発に乗って、不必要に力んでラリーしているようだ。「梅に鶯、竹に虎、芝にフェデラー、クレーにナダル。それらと同じで確かに青春と悩みは映える取り合わせだけど、すごく月並みでわざとらしい。そんな月並みでわざとらしい青春はごめんだよ。求めているのは底抜けに面白いことだから」
偉そうにまくし立てながらも、胸の内の自信は芝のコートで打ったスライスボールのように沈む。
姉さんは言葉と裏腹な俺の心持を見透かすような視線を向けてきたが、信号が青になると何も言わずに前を向いてこぎ出した。
「そう、じゃあ今の生活は底抜けに面白い?」
「今日の水風船は面白かった。けど……」つられて気持ちの悪い感傷的なことを言いそうになっているのに気づき、即座に方向転換する。「今日これから姉さんと二人でダンス練習なんかできたら、さらに面白くなるけどなぁ」
「それじゃあ、ペアダンス教えてよ。陣ちゃん家の前の公園でいいかな」
「ま、マジで。いいよ、全然オッケー、どこでも」
姉さんの返答があまりに予想外で上手く言葉がつながらない。しかしその分、脳内では実況と解説が久しぶりに饒舌な会話を繰り広げている。『ここでまさかのチャンス到来。いやあ、突然来ましたね』『そうですね。試合では時々あるんですよね、こういうことは。そしてそれをしっかりと活かしていけるか否かが、ランキング上位の選手とそうでない選手の違いではないかと思います』『なるほど。坂上としてはこのポイント、どういう風にプレーしていったらいいでしょうか?』『焦らないことですね。大胆さももちろん必要ですが、彼の場合は力んで攻め急がず、慎重にプレーしていくことが大切だと思います』『はい。思わぬところで訪れたチャンス。この後の坂上のプレーに注目です』
夏の長い日がようやく暮れる頃に俺は姉さんと自転車で羽衣公園に滑り込んだ。七夕の時もそうであったが、羽衣公園には誰もいなくてひっそりとしている。あまりの都合の良さにやや不安さえ覚えるくらいだ。
「誰もいないね。お誂え向きじゃん」
姉さんは自転車を降りて伸びをする。
「確かに。そんじゃ、俺の動きに合わせて動いてみて」
振り付けを教え始めると、気合の入っていた姉さんは真に残念ながらこちらが手取り足取りするまでもなく、一通り覚えてしまった。
「ぱぱぱぱー、たりらりらー、ぱぱぱー、りーららー、たたったたん、じゃっじゃっじゃっじゃじゃん」
姉さんは俺の口頭の音楽に合わせて最後のポーズを決める。
「どう?もう完璧じゃない?」
「そだね。でも最後に伸ばした腕の角度はこのくらいかな。むしろ下気味に」
俺は姉さんの後ろに回って、手首をそっと掴んで腕の角度を直した。この一連の動作は極めて自然であった。それはもう下心など寸毫も入り込む余地はないほどに。
しかし、こちらとしても健全な男子高校生である以上、常日頃から下心に対する門戸は広く開いている。というか全開である。姉さんの髪の毛から漂ういい匂いに釣られて視線を落とすと、細い肩、そしてその下にはぷっくりと膨らんだおっぱい。今にも手が滑りそうだと思った時にはすでに滑りかけていて、俺の手は不可避の磁力で正確に姉さんのおっぱいに引き寄せられていた。
突然、姉さんがするりと俺の前から消え、俺はイレギュラーバウンドをしたボールを追うように即座に顔を上げる。
姉さんは右斜め前方で、腰に手をやりつつこっちを見ている。プロの試合では、ベースラインで打ちあっていたと思ったら次の瞬間にはネットに詰めているという選手の身のこなしを目にすることがままあるが、姉さんの動きは正にその身のこなしを連想させた。
「じーんちゃん。今、何しようとしたのかな?」
「別に、何も……」
空中で固まっていた腕をポケットに押し戻す。
「あっそう。じゃあ、もう陣ちゃんに教えてもらうのやーめよ。ペアも変えてもらおうかな」
姉さんは振り返って自転車の方へ歩き出す。
「あ、ちょ、姉さん待って。その、今のは魔が差したというか、手が滑ったというか、姉さんのおっぱいの魅力がすごかったというか……」
「それで?」
姉さんは足を止めて振り向く。
「ごめん」
姉さんが他の男とペアダンスを踊ることになったら、ミスをしたプロ選手が時折やるように300Gを叩き折ってしまいかねない。
「よろしい。以後気をつけること」
安堵と同時に再び脳内で実況と解説が騒ぎ出す。『いやあ、手に汗握る展開でした』『そうですね。ホントにもうダメかと思ったんですが何とか繋げました』『はい。それにしても坂上のプレーがややおかしかったような気がしたんですが、これはどうしたんでしょう?』『やはり力んでいたんでしょうね。少し抑えがきかなかった印象を受けました』『なるほど。さあ、チャンスを活かしきれませんでしたが、まだイーブンです。どうでるか、坂上』
顔を上げて見た姉さんの表情は厳しさが残るものの、口元が微かに緩んでいる。
「そうやって、たまには真面目になってみなさいな」
その言葉を言い終える頃には、姉さんの表情は元どおり柔らかくなっていた。
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