第14話 水の水曜日事件
八月も後半に入り、ダンス練習はようやく人数が増えだした。俺は午前中の部活を終えるとさっさと頭を切り替えて三年四組の教室へ向かう。一向に出席しない我門に理由を訊くと「デートだ」とほざいたので、奴のダンス習得は一切助けないことにした。
「ちわーっす」
ガラリと教室のドアを開けると、十五人近い女子がCDプレーヤーから流れる音楽と共に女子ダンスを踊っている真っ最中だ。男子はどこか違う教室で練習しているのだろうが、強いてそこへ急ぐ必要はない。というか、敢えてそこへ行く必要もない。俺は荷物を置いてゆっくりと女の子たちを後ろから眺めた。
随分と人数が増えたな……あれ?
見覚えのある後ろ姿を見つけた俺は思わず一人でガッツポーズをした。いつ帰ってきたのか知らないが、姉さんだ。
音楽が止んだ瞬間、俺は飛ぶようにして姉さんのところへ行く。
「姉……宮野先輩、いつ帰って来たの?」
「おお陣ちゃん、久しぶり。昨日だよ、昨日」
姉さんは少し日焼けしている。
「それでスペインは」
「はいそこ、練習中にいちゃいちゃしない」
詩織先輩が割って入る。
「ちょっと詩織ちゃん、その言い方は非常に難があるんですけど」
「俺はそうは思わないんですけど……」
姉さんにじとりと睨まれたので、それ以上言葉を繋ぐのを諦める。
「まあまあ、とにかく坂上くんは隣の教室で男子が練習してるから、そっちに行ってね」
「あまり気が進みませんなぁ」
「行かないとペアを変える、って由里が言ってたよ」
「喜んで行かせていただきます」
俺は泣く泣く隣の空き教室へ足を向けた。
男子の人数も女子と同じくらいに増えている。村口先輩が新しく来た面々に振り付けを教えているので、俺は隅まで行き床に腰を下ろした。新参の中には石村や柿沢もいる。それにしても男ばかりが踊り狂う教室は正視に堪えない。俺は潔く目を閉じて思索に沈んだ。
「おい、坂上」
姉さんと二人きりのダンス練習は果たして可能か、と差し迫った問いに対して深謀遠慮を巡らしていた俺は石村と柿沢の声で思索を中断させられた。いつの間にか振り付け講座は一通り終了し、休憩に入ったらしい。他の面々も水分補給や談笑をしている。
「同じブロックの三年生の女子に、少しばかり日焼けした美人がいたんだが、見たか?」
「このくらいの髪でさ」
柿沢は石村の肩甲骨あたりを指でつついた。
「ああ」姉さんのことだな。「宮野先輩のことだろ?」
「そういう名前なのか。ペアダンスなら、ああいう人とがいいぜ」
「残念だな、諸君。宮野先輩のペアはすでに決まっているのだよ」
「マジか?誰だよ?」
「俺だ」
石村と柿沢はポカンとしている。
「はいはい、分かった、分かった」
「信じていない様だな。説明してやろう……」
姉さんとペアを組むに至った経緯を、姉さんと俺の関係も含めて、多少の誇張も織り交ぜつつ語りだそうとした正にその時、姿が見えなくなっていた村口先輩が騒々しく戻ってきた。
「さーかがみぃ」
村口先輩はぼこぼこと歪に膨らんだでかいビニール袋を持っている。
「ど、どうしたんすか?」
「今日改めて宮野さんを見て思ったぜ。やっぱり可愛いなぁ」
「それは、そうでしょう」
相変わらず意味不明なところがある人だ。
「そして、改めてお前に腹が立ったよ。お前が宮野さんとペアを組むなら、相応の代償を払え」
代償とは?と訊こうとしたが、質問よりも先に答えが飛んできた。村口先輩は袋の中の物を掴み出し、容赦なく俺の方に投げてきたのだ。
バシャ。
泡を食って身をかわすと、村口先輩が投げた物は教室の壁に当たって破裂した。どうやら水風船らしい。それにしてもあの袋いっぱいに入っているのか。
「待って下さい。話せば分かる」
「問答無用」
「それじゃあ、坂上は本当に?」
柿沢の質問に答えている余裕はなかった。村口先輩は次々と水風船を繰り出すので、巻き込まれまいとして教室にいた男どもは外に避難した。
十球ばかり紙一重でかわすと、村口先輩の方も少し間を置いた。教室の床は大分濡れ放題になっている。
「どうあっても受け入れない気か」
「理不尽過ぎますよ」
俺と村口先輩が睨みあう中、石村が村口先輩の方へ進み出る。
「村口先輩、協力させてください。俺もあいつをこのまま見過ごすわけにはいかない」
「石村、てめぇ」
「先輩、俺にもやらせてください」
「柿沢、お前もか」
「よく言った同志よ。さあ、武器を受け取れ」
村口先輩がビニール袋を差し出した一瞬の隙をついて、俺は教室を飛び出した。
「逃げたぞ、追え」
教室を出た俺はすぐさま右へ曲がり、三年一組から三組の教室が並んでいる方へと走る。ふいに水風船が肩を掠めて壁に当たり、ビシャッと破裂した。
外でもお構いなしか。
通りがかった女子がそれを見て「え、何?何?」と驚く。
廊下ではいい標的になる。ここは集団の中へ逃げ込んで、迂闊に水風船を投げられないようにしてやろう。俺は三年三組の教室へ飛び込んだ。
何ブロックだが分からないが、三年三組はなかなか集まりがいい。慌てて入ってきた俺を訝りながらもしっかりと踊っているところは瞠目に値する。しかし、言うまでもなく俺よりも三年三組の面々の方が俺に瞠目している。
「何だ、お前は?」
「すいません」
質問を無視してするりと教室の奥へ入ると同時に、村口先輩たちが入ってきた。
「逃がさねぇぞ。坂上」
「ここでそんな物投げたら、他の人にぶつかりますよ。あなたはそれでも投げ……うわっ」
最後まで言う前に村口先輩は平然と投げてきたので、慌てて身をかわした。
「どわ、何するんだ」
水風船は後ろにいた太った男にものの見事に命中した。
さすがに石村も柿沢も唖然としている。しかし、村口先輩は歯牙にもかけず次を取り出して投げ始めたので、三年三組にいた生徒も逃げ惑いだして大混乱となった。
俺は混乱に乗じて再び教室を抜け出し、隣の三年二組に駆け込む。
三年二組はどうやら休憩中らしい。それでも男女合わせて二十人くらいはいる。
「お、練習に来たのか?」
黒髪を逆立てた男が声をかけてきた。背後に迫る水風船の脅威に気が気でないながらも、その男がなかなかのイケメンであることに気がついた。我ながら相手のマッチポイントで客席に手を振るが如き余裕である。
「いや、あの」
「ちょっと、何してるの?坂上くん」
なんと教室の奥から四元さんが出て来た。訝しげにこっちを見ている。
すると、ここはCブロックか。とにかく四元さんを巻き込むのはまずいな。
「四元さん、ここは危険だ。というより間もなく危険になる。離れた方がいい」
自分がここに来たせいで危険になるという事実は都合よく伏せる。
「何それ?」
バタン、とドアが開く。混乱のせいで三組を出るのに大分手間取った様子で、村口先輩や石村、柿沢は息を切らしていた。
「坂上、神妙にしろ」
「いい加減止めた方がいいっすよ」
「おい、むっくん、何なんだよ?」
爽やかに戸惑いながらも、黒髪の男が言う。
「やましー、細かいことは気にするな」
村口先輩は水風船を放った。受け答えをしながら投げたせいで、狙いがずれ、隣にいた四元さんの肩を直撃した。
「ひゃあ」
と驚いて両腕を上げて自分のTシャツを見下ろしている四元さんが可愛くて、ついついそちらに目を逸らすと、水に濡れたTシャツが透けて四元さんの下着の色が露わになっている。ラリー中に滑って転んだが、逆に相手がそのチャンスに力んでミスをしてくれたような思わぬ幸運だったので、思わず声が出た。
「わ、オレンジか」
四元さんはキッとこっちを睨み、「見るな」と両手で胸を抑えつつ怒鳴り、思い切り俺の腹を蹴る。衝撃で後ろによろけた俺は、そのおかげで二発目の水風船を避けることができた。水風船は代わりに窓際にいた男に当たり、三年二組をも混乱に陥れた。
女たちが叫び、男たちが右往左往する中で三年二組を後にして、一組へと逃げ込む。何故わざわざ袋小路である教室に逃げ込むのか。それは俺自身、混乱を引き起こすのが若干楽しくなりつつあったということに他ならない。しかし逃げ込まれる教室にしたら迷惑極まりないことも他ならない。案の定、すぐに一組の教室も混乱に陥った。
すでにこの意味不明の抗争に巻き込まれた人々は数知れず、平和な大原高校の夏の昼下がりは、一転して阿鼻叫喚の惨状を呈し始めていた。
このままでは新しい敵を何人作ることになるか見当もつかない。最早普通に学校生活を送ることさえままならないのではないか。むろん、俺の学校生活が元から普通じゃないと言われれば否定はできない。が、このままでは明らかに明日から四面どころか八面楚歌レベルである。俺はついに昇降口を飛び出してテニスコートの方へ駆け出した。
各ブロックがボード製作をしているピロティを飛ぶように横切り、テニスコートの入口へ着いてから振り返った。村口先輩、石村、柿沢はもうピロティの中ほどまで来ていて、今にも水風船を投げんとしている。慌てて右に曲がり、体育館棟とテニスコートの間で休憩中の女子テニス部員をすり抜けて進む。しかし橋本さんと鈴谷さんがジャグからお茶を汲んでいるのを目の端に捉えた俺は、自らの危険も顧みずに立ち止まって叫んだ。
「橋本さん、鈴谷さん、いや女子テニス部の皆さん。ここは危ないから避難した方がいい」
その時、村口先輩たちもピロティを抜けた。
「坂上、覚悟」
数個の水風船が宙を舞い、女子テニス部員たちの悲鳴が上がる。一つが橋本さんの背中に直撃した。濡れたテニスウェア越しに浮かんだ橋本さんのピンクのブラジャーに目を奪われた俺はその刹那に水風船の命中を覚悟したが、投げ手も同じだけ目を奪われていたので普通に平気であった。我に返って再度逃走を開始するのと同時に、忠告している暇があったら逃げ続けていれば女子テニス部は巻き込まれなかったのではないか、というまさかの失態に気がついたので気がつかなかったふりをして逃走を続ける。
建物に沿って右に曲がり部室の前を走り抜け、教室棟と体育館棟の間の道をさらに右に曲がり昇降口へと駆け戻る。後ろからは尋常ならざる執念で三人が追いかけてくる。
「あ、坂上先輩」
「ぬお、アッキー」唐突に呼びかけられて思わず立ち止まって振り向くと、アッキーだ。今来たばかりなのか制服を着ている。「ここは危ない、早いとこ教室に行った方がいい」
「え、何でです」
バシャ。
これは初めからアッキーが狙いではなかったか、と些か疑義を挟みたくなるような見事さで水風船はアッキーの胸に直撃した。期待してなかったと言うと嘘になるかもしれないが、やはりというか何というかブラウスに対する水の効果たるや絶大で、水色の下着はかなり明確に輪郭が浮かび上がる。
「きゃあ。え?何?え?」
本能を全力で押し殺し、アッキーの下着の観察を諦めて教室棟の中へと舞い戻る。
三年四組の教室には入らずに五組、六組、七組と順調に騒ぎを大きくしていると、あちこちの水道で大勢の人間が必死に何かをこねくりまわしているのが見えた。「決戦の時は近い。各々全力で準備にかかれ」などという声も聞こえる。何なのか分からないが、そこはかとなく不穏な空気である。
七組まで騒ぎの種を蒔き終わり、折り返して元いた空き教室と昇降口の間のホールのような渡り廊下まで戻るとさすがに息切れが激しく、立ち止まって振り返った。すぐに追いついた三人も同じく疲れたようで、立ち止まっている俺を見て思わず足を止める。
「もう、やめましょう。こんな不毛な戦」
「戦とは往々にして不毛。やめたくば我が水風船を甘んじて受けよって……あれ?」
何が「あれ?」なのだろう、と思う暇もなく俺も「あれ?」と思った。村口先輩たちの後ろにぞろぞろと、他のブロックの人々が集まってきたのだ。異様なのは、どこからかき集めたのか全員が手に手に水風船を持っていることだ。やはり姉さんとペアダンスを組むというのはこれほどまでに代償がつきまとうことなのか、と一瞬考えたが、村口先輩や石村たちの視線を追って振り返ると、どうやらそれは間違いであることが分かった。
俺の後ろにも同じように多くの生徒が、これまた同じようにどこから持って来たのか水風船を装備して立っている。いくらポジティヴになったところで味方には見えず、むしろそれは挟み撃ち以外の何ものでもない。
思わずじりじりと後ずさりをすると、背中に何かがぶつかった。村口先輩たちの背中である。彼らも敏感に危険を察知してホールの中央へと後ずさりしていたのだ。
「何ですか、これ?」
「さあ?」
昨日の敵は今日の友、しかしあまりの急展開を前に我々は日を跨がずして背中を預け合う仲となった。
「むっくん。よくもまあ、やってくれたな」黒髪を逆立てたCブロックの人が教室側の生徒集団から前に出てくる。「おかげで練習が滅茶苦茶だぜ」
「相応の報復は覚悟してね」
昇降口側の金髪に赤いメッシュの入った女の人が続けた。確か一組にいた人だ。
「そ、そうだ。お、俺の携帯なんか、おかげ水没したんだからな」
昇降口側の太った男がこっちを指さす。ああ、彼は最初の犠牲者だな。携帯が水没とは真に申し訳ないことをした、と反省していると「この野郎」と叫んでその男はいきなり水風船を投げつけてきた。
思わず腕で体を庇うようにしたが、その男の奇妙な投げ方に負けず劣らず水風船は奇妙な軌道で飛び、俺たちの上を通過して教室側の集団に落下した。
「ああぁ。ちょっと、何」
水風船は髪を頭の後ろで二つに束ねた女の子に当たっていた。
「あ、ごめんなさい」
太った男は自分で自分のノーコンぶりに衝撃を受けている。
「お前、あの子の下着の色が気になって、俺たちを狙うふりして彼女を狙ったな。なかなかやるじゃないか。彼女の今日のブラジャーは黄色だぞ」
村口先輩は報復集団の団結に僅かに走った亀裂をトッププロのサーブさながらに狙い澄まして見事にほじくり返す。
「こ、この、変態」
羞恥と怒りで女の子の言葉は切れ切れだ。
「ご、ご、ごか、誤解、だ」
あらぬ濡れ衣で太った男の言葉はもっと切れ切れだ。
女の子はそれ以上何も言わずに水風船を投げた。こちらは非の打ちどころのないコントロールで、まっすぐ男へと飛んでいったが男は焦って避けた。たとえ故意でなかったにしてもそこは女の子からの制裁を甘んじて受けるべきだろう。紳士の風上にもおけん奴だ、と思って見ていると水風船は後ろにいた男の股間に命中する。
股の部分が濡れたジャージで笑いが巻き起こり、それに怒り狂った男が水風船を二つ教室側の集団に投げたので、ついに今か今かと危惧していた戦いの火蓋は切って落とされた。
両集団はずいずいと前に詰め寄り、至近距離からあらん限りの力で水風船を投げ合い出す。無数の水風船と雄叫びと奇声と悲鳴が交差して、ホールは凄絶な戦場へと様変わりした。この戦いの渦中でただ一人何も持たずにいた俺は、水風船を顔に食らい、背中で受けつつ、他人のポケットから水風船を奪い取っては投げることでなんとか戦闘に参加する。
縦横無尽に飛び交う水風船でグショグショになっていると、ふと恐ろしいものが見えた。もみくちゃになっている戦場の外側からバケツを持った集団がやって来ている。諸君、それは悪ノリが過ぎるというものだ、と叫ぶ暇もなく彼らはバケツの水を我々の頭上へぶちまけた。よく見ると、それは後から被害を受けた五組から七組の人たちのようだった。滝のような水がそこかしこで撥ねあがり、ほぼ全員が服を着たままプールに飛び込んだような状態になったが、それでも各人の士気は濡れも湿りもしなかった。というより、このバケツによる水の投下が、節度というにはあまりにも乏しい最後の不文律を破壊した。
「ほら、ほら、水が欲しけりゃくれてやる」
村口先輩はいつの間にかホールの昇降口側の端にいて、全身から水を滴らせながら叫んでいた。その手にはどこから引っ張って来たのか、ホースが握られている。村口先輩はホースの先を潰して容赦なく放水を開始した。
「調子に乗るなよ」
反対側から同じくホースを持って現れた例のCブロックの人が、負けじと放水する。
二人の雄々しい戦いの被害を一番受けたのは、もちろん間に挟まれたその他大勢である。それでも未だに投げ尽くされていない水風船が飛んだり、ホースから飛んでくる水をバケツで受け、溜まった水を辺り構わず撒き散らしたりと、戦いは水がかかればかかるほど水本来の役割に反してヒートアップした。
ああ、さすが大原高校だ。
意味不明な戦いの中心で、不思議にも湧きあがる自分の高校への愛校心に気づかない訳にはいかなかった。
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