第13話 夏

「坂上先輩」

 翌日、敗戦の陰鬱さをコート整備用ブラシのように引きずりながらダンス練のために教室へ向かっているところを、呼び止められた。

「お、アッキー」

「どうでした?昨日の試合は」

 最初に会ってから一週間くらいしか経っていないのにアッキーの声量は格段に増した。ダンス練習への参加はアッキーの生活の流れを大きく変えたようだ。しかしその陽気な声でこっちの陰鬱さはコートブラシ五個分くらいになる。

「一回戦敗退……かな」

 アッキーとは真逆に、俺は声のボリュームを急速に失う。

「え、そう、ですか……それは残念です」アッキーは気まずそうに首を垂れてちらちらとこっちを見ている。「ご、ごめんなさい、知らなかったんで」

 俺がへこんでいるのが予想外だったのだろう。困っているアッキーが可愛いので、もう少しへこもうかと思ったが、すぐに気が変わった。

「謝る必要はないよ。それよか、慰めてくれ」

「えっ?」

「元気づけてくれよ。アッキーが慰めてくれないとダンス練に行く気力が出ない。あー、出ない。困ったなー」

「え、えっと、その、元気出して下さい。先輩だって調子のでない時ぐらいありますよ。終わった試合は気にしないで次の試合に向けて頑張って下さい。先輩が元気ないと私までしょんぼりなるじゃないですか……わっ」

 最後のセリフに俺はクラッときた。だがアッキーの方はもっとひどく、グラッと体が傾いていた。俺の方を見て話していたせいで目の前の段差に躓いたらしい。

 ドサ。

 やや受け身を取り損ねたアッキーは、俺の目の前で両腕と両膝を地面についてお尻を上に突き出した、甚だ挑発的な体勢になった。

 うむ、青と白のチェックとは悪くない。テニスの大会では決勝戦のマッチポイントを特別にチャンピオンシップポイントと言うが、そのチャンピオンシップポイントのラリーのようにアッキーのパンツから目が離せなかった。

「いたた」

「大丈夫?」

「はい、あっ」

 アッキーは自分の体勢に気がついて大慌てでスカートを抑えて立ち上がると、顔を真っ赤にして俯いたまま黙ってしまった。

「いや、慰めてくれてありがと」

「はい……」

 こうなると、会ったばっかりの頃のアッキーと変わらない。

「おかげで元気が出たよ」

 本当に。危うく関係ないところまで元気になりそうだった。

 アッキーはコクリと頷く。

 昇降口から校舎に入ったところで、ある重大な予想が頭をよぎる。

 このまま、ローランギャロスの赤土みたいに赤い顔をしたアッキーと一緒に教室へ入ったら、アッキーを可愛がっている女子の先輩たちからあらぬ誤解を受けそうだ。さらに村口先輩がいるかぎりそれでは済まないだろう。彼はその誤解をでまかせで煽って、余計面倒なことを起こすのに全力を傾けるだろうことは、まず間違いない。おほほ、あんたのやり口はお見通しなんだよ。そんな墓穴を掘ってたまるか。

「アッキー、俺はちょっと寄るとこあるから先に教室行っててよ」

「あ、はい」

 それにしてもアッキーの慰めはよかった。もちろん言葉の方である。やはりアッキーはマネージャーとして必要だ。四元さんの冷たいあしらいにも確かに魅力はあるが、俺だってたまにはまともに慰めてほしいところである。

 今会ったのが四元さんだったらどうだろうか。「昨日の試合、一回戦で負けちゃったよ」「ふーん、そうなんだ」「そこで、どうかこの俺を慰め、元気づけてくれないか」「あ、ダンス練始まっちゃう。先行くね」と、まあこんな感じだろう。

 しかしとっさの判断で言ってみたものの、寄る場所なんてない。昇降口から出ると足が自然と部室に向かった。だが当たり前のように部室は鍵がかかっている。鍵は体育教官室にあるが、部室で何をするわけでもないのに担任の中田先生が高確率でいる場所に行くのはバカだろう。チャンスボールをチャンスボールで返してやるくらいバカだ。まあ、このくらいの時間差があればもういいか。三年四組の教室に向かおうと体の向きを変えた時、ふと扉の右下に何か落書きしてあるのに気がついた。

『己が行動の全てを肯定し、底抜けに面白い生活を送る……』

 あとは消えかかって見えない。

 ああ、そうだ。顔合わせの時、最後に言った言葉はこれだったな。

「諸君、己が行動の全てを肯定し、底抜けに面白い生活を送るためのテニス部にしようではないか」

 俺はひとりで呟いて、ため息をついた。

 底抜けに面白いどころか底なし沼に嵌ったような生活を送っている印象が拭えない。


 〇


「握りはウエスタンとフルウエスタンの間でややフルウエスタンより。脚は大体スクエアスタンスかな。左手を楽に伸ばして構える。こっから左腕で勢いをつけつつ腰を回転させてフルスイング」日野は説明しながら見本を見せる。「これが坂上の以前のフォーム」

「説明されて戻るなら、こんな苦労はしねぇよ」

「しっかし、そろそろ戻さんと県の新人戦は来週からやで」

「関係あるか。底抜けに面白い生活のためのテニスだからな。俺のテニスは試合の勝敗なんて超越しているんだよ」

「お、それ久々に聞いたな。しかし本当か?実は悔しんだろ?何せ負け続きだからな」

「陣からテニスを取ったら何も残んないからな」

「黙れ。今の俺にはダンス練習がある」

「それで、我らがFブロックは人数集まってんのか?」

「八月半ばだというのに、増える気配がほとんどないな。お前もそろそろ来い」

「気が向いたらな、っと」

 照り返しで異常な熱気を湛えたハードコートから出て、俺たちは我先にとジャグに飛びついた。しかしそのせいで男と男の汗が絡み合い、照り返しのきついハードコートにいるほうがまだマシだと嘆きたくなるような、凄絶な状況へと自分たちを追い込んだ。

「ちょっと待て」

「離れろ」

「お前がな」

「どかんかい」

「暑い」

 口々に罵倒し合いながら何とか麦茶にありつくと、もはやすぐさま練習に戻れるほどの体力は無くなっていた。

「くそ、無駄に疲れた」

「女テニみたいにコックが三つあるジャグに変えりゃあいいんだよ」

「それにしても暑いな。ハードコートは蜃気楼が見えそうだ」

「何や?オアシスでも見えんたんかい?」

「いや、四元さんの水着姿が」

「ただの妄想やん」

 昨日の練習で今と同じように暑さに不平を言っていた時、上杉先生がめずらしく「そうか」ではなく、「プールに入れたら、入るか?」と訊いてきた。いつもスライスサーブしか打たなかった選手がいきなりフラットサーブを叩きこんできたようで少々驚いたが、俺たちは「入ります」とライジングなみの即答をした。

 交渉が成立し、海パンを持参して意気揚々と部室に来た今朝、四元さんが「今日はマネージャーとして、先にビーチボールとか浮き輪に空気入れとくから」と非常にめずらしく張りきっていたので、以来俺の集中力は彼女の水着姿を妄想することに費やされており、練習の方は、まあいつものことだが、若干おざなりになっている。

「とっとと練習終わらせて、プール入ろうぜ」

「せやな。あとは、ストローク対ボレーと、サーブ練だけでええんちゃう?」

「サーブ練も要らなくね?」

「そんじゃあ、あとはストロボだけで」

 かくもいい加減に練習は再開した。


 〇


 練習が終わってから戻ると、部室にはビーチボールと浮き輪数個が雑然と並び、元より活動内容が見えない内装をさらに意味不明にしていた。

「これだけ膨らますのはしんどかった」

 四元さんは団扇で扇ぎながら座っている。

「まさか口で膨らましたの?酸欠だったら俺は人工呼吸をするに吝かでないよ」

 ビーチボールが飛んできて頭に当たる。

「足で踏むタイプのポンプ使ったから、問題ない」

「ほな、行こか」

 荷物を持ってプールへ向かうと、入口からすでに塩素の臭いが漂ってくる。右が男子更衣室、左が女子更衣室、と看板を確認していると四元さんが不意に宣言した。

「じゃあ坂上くん、わざとでもわざとじゃなくても更衣室に入ってくるようなことがあったら、警察に通報した上でマネージャー辞めるから」

 まだ準備をしていない内にサーブを打たれた気分である。

「ひどいな、四元さん。俺がそんなことすると思うかい?」

「思うから言ってんの」

「でも、わざとじゃないのは仕方なくない?」

 バタン、と大きな音を立てて四元さんは女子更衣室の扉を閉ざした。

「お前、ここでやったらアンフォーストエラーじゃ済まないぞ」

「せや、負け決定や」

「いや、出場停止もんだろ」

「普通に懲役じゃない?」

「うるせぇよ。早く着替えんぞ」

 誰もいない更衣室を五人で存分に使って着替えると、俺たちは足早にプールへ出た。何の変哲もない四角いプールだが、熱い日差しを反射させている水面が涼しげだ。準備運動もシャワーも無視して飛び込む。

「ひー、冷てぇ」

「そういや、学校のプール入るの始めてだな」

「おら、いくで」

 まだプールサイドにいた木戸がビーチボールをスパイクした。

 バチン、といい音を立てて我門の顔に当たる。

「やりやがったな」

 ビーチボールのぶつけ合いは水の掛け合いに発展し、水を浴びせ合っている内に壮絶な水掛け論が加わって、水を掛け合いながらの水掛け論という、俺たちの行為は大変水の無駄使いをしているようでしていない、無駄に使っているのは体力であるというよく分からない様相を呈してきた。しまいにはどこから持ち出したのか、大場がテニスラケットとボロボロになったテニスボールを持ち出してきて「天罰じゃあ」と言いながらサーブを打ち込み始めたので、他の者たちは泡を食って水中を逃げまどった。

 明らかに練習以上に体力と集中力を使ったのでプールサイドで休んでいると、そこへようやく四元さんが現れた。空色のビキニを履き、上半身はTシャツを着て裾を結んでいる。俺は颯爽と立ち上がって近づく。

「四元さん、めっちゃ似合ってるじゃん。Tシャツ脱がないの?」

「これは日焼け防止」四元さんが少しずつ俺から離れる。「ちょっとそんな近づかないでよ」

「その体じゃ照れることはない」

「照れてない、護身」

 四元さんはクロスへ剛速球のウィナーを打つように鋭く言い放つ。

「それはひどいんじゃない?」

「ひどくない」

「背中に虫付いてるよ」

「えっ、どこ?取って」

 四元さんは驚いて体振りながら、こっちに背中を向ける。

 ふふ、四元さんと言えど女の子だな。俺はちょっとした報復として体の動きに合わせてぷるぷる揺れる四元さんのお尻を少し眺めるつもりだったが、その想像以上の魅力につい目が離せなくなってしまった。

 むろん、すぐに四元さんに気づかれた。

 一瞬、四元さんがビーチボールを構えているのを見たが、次の瞬間には思いっきりそれを顔に押し付けられて何も見えなくなり、そのまま派手な音を立ててプールに落ちた。

「バカ」

 四元さんは吐き捨てるよう言うと、プールの端まで行ってからゆっくりと肩まで浸かり、浮き輪にしがみつく。

「アンフォーストエラーだな、何本目か知らんけど」

 四人がこっちをみて笑っている。

「うるさい」

 水面にぶつけた背中がヒリヒリする。

 もう一度ビーチボールを投げ合ってみたが、最初ほどのテンションが戻ってこない。ほどなく飽きて、俺たちは大場が打ちこんだテニスボールと共に浮かんだり、プールサイドに寝そべったりして、各自別々に、のんびりと貸し切りプールを満喫する態勢にはいった。

 どうやれば、またテニスができるようになるんだろうか。

 飛び込み台の上に寝転がって、プールの水と競うように青い空を見ながら考えていた俺は、ハッとした。何を悩んでいるんだ、バカらしい。考えるなら女の子のことにしておけ。そうしないと日常がだんだんと高校テニス青春物語―目指せ、インターハイ―ゴッコみたいになってしまう。

 姉さんは何をしているだろうか。サグラダ・ファミリア大聖堂を前に感動している姉さんの顔が浮かぶ。

「何にやけてるの?」

 近くに浮き輪でぷかぷかと眠そうに浮かんだ四元さんが流れてくる。

「いや、貸し切りプールはいいな、と」四元さんのTシャツが濡れているせいで上の水着が透けて見える。下と同じ空色だ。「四元さんから見て以前の俺のテニスはどうだった?」

「うーん、急に言われても……」

「簡単なイメージでいいよ」

「ガンガンって感じかな」

 予想以上に簡単な説明が返ってきた。

「そりゃまた頭が痛くなりそうだね」

「真面目に言ってるんだよ。テニスってけっこう性格出るスポーツじゃん。だからプレーから受ける印象って色々。日野くんはコツコツかな。木戸くんはクニャクニャで大場くんはピシピシ。我門くんはドカドカって感じかな」

「なるほど」分からないでもない。「四元さんのお尻はぷりぷりって感じだったけ」

 バシャ。

 四元さんは俺の顔に水をかけ、プールサイドを蹴ると、ゆらゆらとプールの真ん中へ向かって流れていった。


 〇


 県の新人戦の会場に向かう電車の中で、俺は我門から聞いた話を思い出していた。それは我門がテニスを忘れる前の俺から聞いた話なので、つまるところ俺自身の話だった。

 その話によると、駅ビルの屋上にある、俺が通っていたテニススクールにはSというコーチがいた。そして、そのスクールには劣勢時の返球練習というものがあった。

 練習内容は至って単純で、打ち手がセンターに立ちコーチが次々と出すボールを返球するだけであり、指定した深さに十球入れるまで続く。しかしこの単純さが曲者で、球出しをやるコーチによってこの練習の苦楽は容易に激変したらしい。

 Sコーチはこの練習の球出しに特化した人物であった。

 彼が打ち手の体力、体勢、心理状態を計算して出すボールは常に全力でなければ追いつけない場所であり、テンポであり、速さであった。その正確さは無類を極め、数多のスクール生が十球入れる前に膝を屈した。屈したついでに退会届に判をついた者も少なくない。

 その彼のスパコンにも匹敵するのではないかと思われる意味不明にすごい演算能力は、彼の度を超えたサディスト精神からきているというのが、当時俺が語っていた通説らしい。それにしても、ハアハアしている女の子を見て興奮する人なら友人になるに吝かでないが、ゼエゼエしている男を見て楽しむ人となると半径五メートル以内に踏み込んで欲しくない。

 テニスを失ってからの俺の状況は、そんなSコーチの得意としていた劣勢時の返球練習を彷彿とさせるものがある。

 完全な記憶喪失とあらば、月並みだけれど大原高校の数多のレディたちとロマンス的展開を期待することもできよう。しかし中途半端にテニスだけ忘れた現状の、どうしようもないみっともなさ何だろう。全てはSコーチの陰謀か。これは人生における劣勢時の返球練習なのか。やや憔悴気味に精神を病んだような自問をしつつも俺は電車を降りて穂樽田駅を出た。

 県大会ともなると、青松地区とは比べものにならないくらい範囲が拡大する。地区でいえば青松の他に五地区が集まるのだから、運が悪ければどんなに遠くの会場に飛ばされるか分からない。小俵テニスガーデンが会場の俺はまだ運が良かった。穂樽田駅は東海道線と小田急を駆使すれば平津加駅からでも四十分程度で着く。あまり考えたくはないが、一回戦敗退だったとしても時間と交通費が妥協できる範囲である。

 駅からテニスガーデンへの道には、まちまちな制服の高校生が歩いている。少ないながら女子の姿もある。マネージャーだろうか。それとも……

 畜生、女づれで試合とはいい度胸じゃねぇか……って、そう言えばプロも試合にガールフレンドとか連れて来てるよな。マラト・サフィンなんかは、試合直前にナンパした女の子たちをファミリーボックスに招待したとかいう猛者。俺も見習いたいところだが、見習ったところで無様に敗退しては、その痛々しさはダブルスパートナーのサーブを後頭部に食らった時などとは比較にならない。

 あれこれ考えている内にテニスガーデンに着いた。

 真っすぐに伸びた通路の両脇はひな壇状の観客席だ。その先のテニスコートは片側に八面ずつ、十六面ある。幅の広い通路の真ん中あたりには簡便な小屋があり、そこが大会中は本部として使われるようだ。

 俺がその小屋のそばに席を取って一息つくと、すぐに本部役員をやっているどっかの高校の先生の眠そうな声で試合前のコールが始まった。


 〇


 電車代を返してくれ。

 そんなことを言いたくなるような試合であった。

 相手は何故予選から出場しているのか分からないほどの強者で、そんな強者ばかりが集うのであろう本戦で勝ちまくっていた昨年の俺の実力がどこに行ってしまったのかは、ますます分からなかった。

 負けてぼんやりしていた俺の心を呼び戻したのは、他でもない、負け審である。各コートとも最初の試合はセルフジャッジで、二回目以降はそのコートで行われた試合の敗者が次の試合の審判をやらなくてはならない。

 何と審判を愚弄した制度だろう。

 刻苦勉励の果てに資格を取得して彼らはコートに立つ。細心の注意を払ってジャッジをするも、観衆は野次を飛ばすし、時として選手でさえも悪態をつく。されど彼らはコートに立つ。最近はホークアイなどというボールの軌道計算装置を用いて判定に異議を唱えるチャレンジ制度が導入されて、彼らの積み上げてきた実績と誇りは風前の灯だ。しかしそれでも彼らはコートに立つのである。

 そんなにも偉大な彼ら、チェアアンパイアと同じ役目を担うというのに、それをまるで罰ゲームででもあるかのように、負けた奴が審判をやるというこの制度は何だ。審判を見くびるにも程があるだろう。この仕事は勝者にこそ相応しい光栄な務めですぞ、と本部に座っている高体連の役員に俺は懇々と説いた。

「君、いくら審判をやりたくないからと言って、免除してやるわけにはいかんよ」

 五十代くらいの恰幅のいい役員は笑って取り合わない。

「いや、そういう意味で言っているのではなく……」

「どうしましたか?」

 ガッチリとした若い役員が本部に戻ってきた。

 それを見て思わずギョッとした。桜南高校のテニス部顧問だ。

「いやあ、この子が負け審をやるのが不服らしく……」

 俺は頭上を通過したロブを追いかけるように走り出した。なにせ桜南高校テニス部の顧問は冗談が通じないことでは右に出る者なしという石頭であり、「あの先生に冗談?英語の方がまだ通じるぜ」と人は言う。決して冗談のつもりで言った訳ではないが、なら万人の理解を得られるかというと、この話題を持ち出したタイミング的に些か自信がない。

 仕方なしにコートで次の試合の選手を待っていると、ほどなく選手が二人揃ってやって来た。片方は帽子に長めのソックス、ジャグボトルを脇に抱えて十本くらいラケットの入りそうな太いラケットバックを背負っている。もう片方は肩まで伸ばした髪を金色に染めて、ペットボトルのお茶を左手に、右手にはバボラのピュアドライブをむき出して持っている。

「えっと、高校は?」

 テニスに対する気持ちの温度差を直接肌で感じ取れそうだ。

「自分は、江田崎学園です」

 熱そうな方が答えた。

「三芝高校」

 冷めてそうな方はすでに荷物を置いてベンチに腰掛けている。

 俺はのろのろと審判台へと上がり脚を組んだ。これは早々に決着がつきそうだな、と安堵したのも束の間、サーブ練習を見た俺の気分は早くも不安に陰る。

 江田崎の方は見た目の割にやや上手さに欠ける。そして、三芝の方は見た目の割にやや下手さに欠ける。双方の実力が中途半端に見た目と裏腹なせいで、試合は不必要に伯仲しそうな気配が濃くなってきた。

「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ、江田崎サービスプレイ」

 さしてすごい内容というわけではなく、ただただ腕前が拮抗して、いっかな差が出てこない試合は辛いものだ、審判が。

「ゲーム。ゲームウォンバイ江田崎。ゲームカウント1―0、江田崎リード」まずは立ち上がり、江田崎が苦しみながらのサービスキープ。このまま勢いに乗って欲しいですねぇ、できれば6―0で。「ゲーム。ゲームウォンバイ三芝。ゲームカウント1オール」お互いのサービスゲームをキープして始まりました。どちらが先に仕掛けるか。「ゲームウォンバイ江田崎。ゲームカウント2―1、江田崎リード」どちらが。「ウォンバイ三芝。ゲームカウント2オール」先に。「ゲームカウント3―2、江田崎リード」仕掛けるか。「3オール」

 ダメだ。三芝の生徒くん、君はもう少し冷めた奴だと思っていたよ。なのに、そんなにボールに食らいつくとは。江田崎の生徒くん、君はもう少し熱い奴だと思っていたよ。そこを一発集中で決めないからデュースになるんじゃないか。

 テニスに対する温度差が混じり合い、試合はぬるま湯のごとき展開だ。しかし異性へのアプローチという明確にテニスから外れた目的でテニス部を創設した俺が文句を言えることではないかもしれない。それにしてもこのアプローチ、全然ボレーにつながる様子がない。アプローチからのボレーミス量産。このままでは「得意なプレーは?」と訊かれたら「異性へのアプローチからのボレーミス」と答えざるを得ないではないか。

 まったくテニスそっちのけだ。だが待てよ。創部以来、毎日練習してきた事実もある。これはすごいテニス熱ではないか。しかし動機からしてそれは本当にテニス熱なのか。熱いのか冷たいのか分からない。正にこの試合のようではないか。一体、俺にとってテニスとは何なのか。あれ、そういえば姉さんもそんなこと言ってたっけ……

「4―3、江田崎リード」

 いつの間にか第七ゲームが終わっており、慌ててコールする。

 しかし、まさか負け審の退屈しのぎで急に姉さんの質問にたどり着くとは。考えるのもなんだかバカらしい気がするが、実際のところどうだろうか。

「4オール」確かに毎日練習した。「5―4、江田崎リード」でも練習中は阿呆なことをしている方が多い。「5オール」しかし、わざわざ創部したのも事実「6―5、江田崎リード」だが、目当ては女の子。「6オール、タイブレーク」テニスは楽しい。「1―0、江田崎リード」女の子を追いかけ回すのはもっと楽しい。「2―1、三芝リード」けれども、テニスができないくていいかと言うと、そうではない。「3―2、江田崎リード」なぜなら、それを用いて女の子に接近しようとしているから。「4―3、三芝リード」そうか。「5―4、江田崎リード」女の子を追いかけるためにテニスが必要なわけか。「6―4、江田崎リード」テニスを辞められないわけだ。

「ゲームセットエンドマッチ。ウォンバイ江田崎。ゲームカウント7―6」

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