第11話 有望な新人
午前九時という学期中ならばまずあり得ない時間帯に学校へ着いた。軽快な足取りは常にスプリットステップを踏んでいるようで自分ながらに気持ち悪い。しかしそれを自覚しながらも意気揚々と、一階にある三年四組の教室へと向かった。
「ちわーっす。ダンスの練習しに来ましたー」
教室には女の先輩が三人、男の先輩が一人、座っていた。
「お、第一号が来た」女の先輩の一人が立つ。ブロ長だ。「あれ、もしかして坂上くん?」
「そうです」
「えー、なっちゃんが言ってた子?」
もう一人の女の先輩がブロ長に確認する。
「そうそう」
女性三人がしげしげと眺めてくるので、嬉しいながらもちょっと恥ずかしい。
「そんじゃまず、自己紹介。私、Fブロック長の日下由里」
「私はダンスリーダーの野毛詩織。下の名前で呼んでちょうだいな」
頬にえくぼを作りながら、髪をお団子にした先輩が続く。
「副ダンスリーダーの御手洗陽子。私も下の名前でよろしく」
頭の右上で髪を束ねている先輩が言った。
「ほら、むっくん」
ブロ長にせっつかれて男の先輩が立ち上がった。短く刈り込んだ髪を金色に染めている。
「副ブロック長の村口健。お前が坂上かぁ」
村口先輩は睨むようにこちらを見る。いきなりどついてくるんじゃないかと構えていると、先輩は唐突に両手足を床につき、羨ましそうに言った。
「宮野さんに直接申し込むとか、卑怯じゃねぇか。くそ……」
「はあ」
なんだ、この人。
「ねぇ、なっちゃんと付き合ってるの?」
詩織先輩は興味津々である。
「いや、そういう訳じゃないです」
「それじゃあ好きなんだ、夏海が」
今度はブロ長が訊いてくる。
「そりゃ……もう、大好きですね。姉さ……いや、宮野先輩に限らず先輩たちみたいな美しい乙女は心の底から好きです」
あんまり気さくにチャンスボールを上げてくるので、いきおいこっちも普段通りのアグレッシブな話し方になる。
三人の女の先輩は揃って笑い出した。
「なんか、むっくんに似てる」
「どこが?」
村口先輩は憮然としている。
「それは、女好きなところでしょ」
「お前ら全然分かってないな」
村口先輩が露骨に呆れた口調になる。
「男というもの誤解していますよ」
考えに近いものを感じた俺は思わず後を続ける。
「女好きな男がいるんじゃなくてだな」
「女好きな人間のことを男と言うのですよ」
俺は思わず村口先輩と目を合わせ、直後ハイタッチする。サーブで崩してボレーで決める、理想的なダブルスの展開。しかし言うまでもなく、決まったと思ったのはあくまで主観であり、客観的には決め損なった観が強い。結局この展開は俺と村口先輩がそっくりであるという認識を、多少の気持ち悪さを伴いつつ、強めただけであった。
「すいませーん」
教室の入口から聞き覚えのある声がした。堀川さんだ。Tシャツに下は体操着、そしてありがたいことに髪はポニーテールに結んでいる。
「どうぞ。入って、入って」
詩織先輩が招じ入れた。
「坂上くん、有紀ちゃんと真理ちゃんってまだ来てない?」
堀川さんは遠慮がちに入って来て、俺に話しかける。先輩たちは練習の進め方を話し合い始めた。
「それは原さんと城崎さんのこと?」
「そう」
「まだ見てないね」
「うーん、そっか……」堀川さんはそわそわしている。「私、部活も入ってないし、先輩だらけ場所に来るのって緊張しちゃって。有紀ちゃんと真理ちゃんと行くって約束したから」
「まあ、そんな緊張しなくても大丈夫だよ。先輩はいい人ばっかだし」
俺もいるし、と言おうとしたら、「こんちわー」という大きい声と共に原さんと城崎さんが入って来た。
「いらっしゃーい、二年生かな?」
「そうでーす」
「今年は二年生の元気がいいねぇ」ブロ長が感心して言った。「ちょっと待ってて、今練習の段取り決めるから」
「はーい」
原さんと城崎さんはこっちへ来た。
「美穂、遅くなってごめん」
「ううん、私も今来たとこだから」
「お、坂上くんがいる」
原さんが驚いた。
「何をそんなに驚くことがあるんだい?」
「いやいや驚くよ。いつも昼ごろ学校に来てる人がこの時間にいるんだから。もしかして学校に泊ったの?」
城崎さんは容赦ない。
「まさか。勉強以外のためなら早く来ることも可能なんだよ。それよか、今日は皆一日中練習すんの?」
「私と有紀は午後から部活。美穂は十一時くらいには抜けるんだっけ?」
「うん。塾の夏期講習があるから」
「へえ、塾に行ってるんだ?」
「そう、最近入ったんだけどね。八月はもっと忙しくなってくるから、今の内にダンスを覚えちゃおうと思って」
それじゃあ俺もその塾に行こうかな、と言おうとしたら先輩たちの相談が終わった。
「よし、今日はペアダンスからやりましょう。多分七月は人数も集まらないだろうし、早くに覚えた人は、後半は教える側に回ってね」
ブロ長はさらりと言ったが、学年毎の行事に対する温度差は確かに頭の痛い問題である。とかく一年生は張りきりにくく、かくいう俺も去年は文化祭の準備に些かも協力的でなかった。上級生は苛立ち、下級生は反発する。そうなったらもうダンスで優勝を狙うのは試合中に喧嘩を始めたダブルスペアが勝利するくらい難しい。しかし姉さんと踊るのだから優勝くらいしたいところだと、ここしばらく行方知れずになっていた情熱を燃やしている内に教室内の机は寄せられ、ダンスの練習が始まった。
個人的にはもう少し体の接触があってもいいんじゃないかと思うが、やはりペアダンスは素晴らしい。手をつないだり腕を組んだりと、このようなダンスをブロックの男女比の関係から男同士でやらされる羽目になったら体育祭当日は是が非でも休むであろう。先手を打って姉さんとのペアを確約していた俺の行動はやはり間違っていなかった。
俺は自分でも驚くほどのスピードで飲み込んでいった。テニスとは雲泥の差である。
「坂上くん、覚えがいいね。一回私と踊ってみよっか?」
「お願いします」
詩織先輩の提案を断る理由がどこにあろうか。
踊り始めると、すぐに詩織先輩のしっとりすべすべした手を離すべき時に離すのが想像以上に難しいことを悟った。細くて柔らかい腕も然り。いつまでも触ってたい、とか一瞬でも思うと駄目だ。タイブレーク並みに気が抜けない状態で何とか踊り終える。
「よし、大体オッケー。繰り返し練習してしっかり覚えていこ」
詩織先輩は堀川さんたちを教えに戻る。
しばらくして二年生女子が一通り振り付けを覚えると、音楽に合わせて踊ることになった。原さんは村口先輩と、城崎さんは詩織先輩が男役を務めて、堀川さんの相手はこの俺である。幸運を噛みしめていると音楽が流れ始めた。
スムーズに入り、途中までいい調子で踊っていたのだが、横を向いて堀川さんと向かい合わせになるところまで進むと状況が一転した。はにかんだような彼女の顔の下では、体の動きに合わせて二つの柔らかそうなテニスボールがぼよんぼよん揺れる。テニスを観戦する客がボールを目で追うようにそのおっぱいの動きは目で追わずにはいられない。
「坂上くん、半テンポ遅れてるよ」
陽子先輩の声が飛ぶ。
「はい」
慌てて戻すものの、すぐにまたずれる。
ずれつ、戻しつ、取りあえず踊り終わった。
「順調、順調。でも、どうしても坂上くんずれるね。さっきは完璧だったのに」
「ちょっと、坂上くん。私ずっと見てたんだけどさ」
「断じて違います」
陽子先輩の口調に危険を察知したせいで、速球を予想したためついついラケットを早く振り過ぎてしまうような塩梅に、思わず言葉が飛び出した。
「まだ何も言ってないよ」
「坂上、てめぇ、堀川ちゃんの胸に見惚れてただろうが」
村口先輩は情け容赦なく言い放った。
「えっ」
堀川さんが恥ずかしそうに胸の辺りに手をやって半歩下がる。
「誤解だ、堀川さん。ちょっと村口先輩、何てこと言うんですか」
「うるさい、お前は俺と交代だ」
俺と村口先輩が入れ替わって再び曲を流したが、今度は半分も流れない内に止まった。横を見ると、村口先輩がブロ長と陽子先輩にメガホンでぼかすか殴られている。
「何が『交代だ』だよ」
「見惚れてんのはどっちだ。ほとんど体動いてないじゃない」
「すいません、すいません」
結局、堀川さんと詩織先輩が組むことになった。
まずい、堀川さんの誤解を解かなくては。しかし実は誤解ではないのだから、何て言えばいいのか難しい。『テニスをやり過ぎて、ボールの形をした動くものはつい目で追ってしまうんだよ』ちょっとフォローになっていない気がするが仕方ない。これでいこう。
しかしながら一計空しく、十一時に慌ただしく帰っていった堀川さんに誤解を解くチャンスは無かった。
「勘弁して下さいよ、村口先輩。これじゃ、完全に変態扱いだ」
「事実だろうが」
「まあ、そうですけど」
あんたに言われたくない、という言葉は我慢した。
堀川さんが帰った後も練習を続けていると、ふと教室の外を小柄な女の子が一人うろついているのに気づいた。教室の中に入っていいのか分からないらしく、二つに束ねた髪を揺らしておろおろとしている。一年生だろうか。すぐに飛んで行った。
「君、もしかしてFブロの子?」
「は、はい」
女の子はおっかなびっくり答える。
「それじゃあ、一年二組かな?」
「そうです」
「名前何て言うの?」
「あ、秋澤瑞穂です」
少し幼げだけど可愛らしい顔立ち、身長は低いけど体の発達もなかなかじゃないか、と秋澤という女の子が目を伏せているのをいいことにゆっくり観察していると、いつの間にかブロ長が後ろにいた。
「ほら、何してるの?坂上くん」
「新しいダンス練参加者ですよ」
「本当?それじゃあ、入って、入って」
秋澤という子はおずおずと教室に入る。それにしても、一年生が一人で乗り込んでくるとは随分と勇敢だな。相手のマッチポイントで飄々とドロップショットを打つような果敢さがある、と俺が一人で感心している間に彼女は自己紹介を始めていた。
「一年二組の秋澤瑞穂です。よろしくお願いします」
「よろしくー。何かあだ名とかないの?」
詩織先輩が訊く。
「え、と、特にないです……」
「じゃあ、秋澤だからアッキーとかでいいんじゃない?」
陽子先輩が提案した。
「いいね。それじゃあ、アッキーって呼ぶね」
「は、はい」
恥ずかしそうに先輩たちの顔をきょろきょろ見ながらも、アッキーは頷いた。
順繰りに自己紹介が済み、練習が再開される。
「そいじゃ、アッキーに振り付けを教えがてら、各自も再確認ということで」
「じゃあ、ゆっくりやるから私のマネしてね」
「はい、お、お願いします」
アッキーは傍目にも分かるくらい動きが強張っている。
「ふふ、そんな緊張しないで。それより、アッキーそのままの格好でやるの?」
「えっ?」
他の全員がTシャツにハーフパンツで踊っている中でアッキーはただ一人、ブラウスに制服のスカートだった。あの丈のスカートで踊られては、いかに強い精神力を豪語する男でも集中力を削がれること甚だしい。だがしかし別段困るということではないので、俺としてはそのまま続けてもらっても一向に構わない。
「そっか。やばい、私、体操着持ってくるの忘れちゃいました。どうしよう」
アッキーは慌てだして頬が赤くなってきた。さっきから一挙手一投足に恥ずかしがっているアッキーが可愛いのは気のせいではないようだ。村口先輩の伸びきった鼻の下を見て確信する。
「そっか。まあ大丈夫でしょ。落ち着いて、落ち着いて」
「はい、すいません」
アッキーは俯く。
そのまま踊るのか、と驚いた時には村口先輩が行動を起こしていた。
「やべぇ、ちょっと疲れたわ。座って休んでるから、練習続けてて」
即座にブロ長と陽子先輩が飛んできて、両腕を引っ張り上げ、尻を蹴っ飛ばして村口先輩を立たせる。
「むっくん、次座ったりしゃがんだりしたら、教室から追い出すから」
「はい、もーしません……」
村口先輩が許しを請うのを見て、俺は曲げかけた膝を静かに伸ばした。
〇
二時間後、三年四組の教室で昼食を取りながら、俺は午後から部活に出るかダンス練を続けるかを悩んでいた。原さんと城崎さんはすでに部活へと行ってしまった。
「坂上くんは午後も練習するの?」
陽子先輩がおにぎりを食べながら訊いてくる。
「一応、部活があるんですけど、考え中です」
「お、いいね。やってきなよ」
「陽子先輩が誘惑してくれたら、確実にダンス練に残るんですけど」
「そんなこと言ってると、夏海に言いつけるよ」
「それは勘弁して下さい」
「あはは。そう言えば坂上くんはテニス部でしょ?」
「何で知ってるんですか?」
「だって、球技大会の試合、私も見てたもん。あれはすごかったね」
「それ、私も見てた。坂上くんなかなかカッコよかったよ」
詩織先輩も会話に入ってきた。
「すいません、もう一回言って下さい」
「なかなかカッコよかったよ」
ああ、なんと素晴らしい響き。試合の記憶がないことが残念でならない。そして途端にテニスがしたくなってくるとは自分の思考回路の単純さが残念でならない。
「その試合、私も見てました」
アッキーが小さい声で言う。
「へえ、アッキーも見てくれてたんだ。もしかして俺を応援してくれてた?」
「は、はい」
「無理しなくていいぞ、アッキー。どうせ坂上のことだ、注目集めるためにわざと試合時間稼いでたんだろ」
的確すぎる村口先輩の指摘に意表を突かれ、パンが喉に詰まりそうになる。
「よーし、そろそろ練習を再開しますか」
ブロ長が元気よく立ち上がる。
さてどうするか。確かにダンス練は楽しい。しかし詩織先輩の言葉を聞いてから、気持ちは大分テニスに傾いていた。そういえば四元さんの期待にも応えねばなるまい。
「すいません、やっぱり部活行きます」
「オッケー、気にしないで。また来てね」
「また明日来ます」
「はーい、待ってるから」
「あの、ちょっと飲み物買ってきてもいいですか?」
アッキーが控えめにブロ長に訊く。
「いいよー」
俺はアッキーと教室を出た。
自動販売機は昇降口を出たところにあるので、自然と方向が一緒になる。一緒になったので、自然と話しかける。
「アッキーは何か部活やってるの?」
「いえ、やってないです。私、運動音痴だし」
「そうかな。ダンスとか別に悪くなかったと思うけど」
「そ、そんなことないです」
「それにしてもよく一人で参加しに来たね。偉いなぁ」
急にこのまま部活に行ってしまうのは勿体ない気がしてきた。ここは親睦を深めるためにもアッキーと一服していくのが、同じブロックの先輩として取るべき行動ではないだろうか。学校行事を通して普段接することのない違う学年の生徒と親睦を深める。それは、まったくもってテニスよりも大切なことだ。断じて下心があるからではない。
夏休みをいいことに外履きのサンダルのままで校舎内に入っていたので履き換えの必要がなく、昇降口に着くと律儀にも靴を履き替えるアッキーをそばで待っていた。
アッキーは一番下の段にある自分の靴箱を開けようとして、スカートを履いている女性らしく腰を曲げずにしゃがんだ。しゃがみ方は完璧であった。しかしながら、彼女は腿のあたりの中途半端に開いた靴箱の蓋に、器用にスカートを引っかけていることに気がついていなかった。
ぺろん。と効果音が聞こえてきそうなほど見事にスカートがめくれ、薄ピンク色の星柄パンツが露わになる。
アッキーはまだ全く気がついていない。
どれどれもう少し近くで拝見させてもらいましょうかと思っていると、背後から男の声が数人分、近づいてくるのが聞こえてきた。まずい、これは可哀そうだ。
「アッキー、パンツ見えてるよ」
急いで近寄り、囁く。
「へ?えぇっ」
慌ててスカートを抑えながら立ち上がったアッキーだが、頭上にも開きかかった靴箱があるのに気がついていなかった。
ガン。
「痛っ」アッキーは頭を押さえて膝をついた。スカートは急な動作のおかげで靴箱の蓋から外れ、元に戻っている。「いったーい」
「大丈夫?」
「は、はい。すいません」
アッキーの顔はすでに真っ赤である。恐らく頭への衝撃で彼女の目の中には星が飛んでいるだろうが、俺の目の中にも今しがた見たアッキーのパンツの星柄が舞っていた。
アッキーの頭の痛みが落ち着いてから昇降口のすぐ前にある自動販売機まで行き、パンツを見せてもらったお礼を兼ねて、痛さと恥ずかしさで心身ともにダメージを受けたアッキーにジュースを奢った。
「すいません、ジュース買ってもらっちゃって」
アッキーは消え入りそうな声だ。
「いいの、いいの。お礼だから」
「何のですか?」
「いや、気にしなくていいよ」
アッキーは気落ちして俯いている。
「ぶつけたとこ、大丈夫?」
「……はい」
まあ問題はそっちではないか。真剣勝負の最中に相手がサーブを空振りした時くらい反応に困る。何だかそそくさと部室にも行きづらい雰囲気になってしまった。
「そうそう、さっき話してたけど、一人でちゃんとダンス練に来たのは偉いぜ。明日からは友達もじゃんじゃん呼べば先輩とか喜ぶと思うよ」
「いや、その、私、あんまり友達いないんです……」
元々小さい声が尻すぼみになっていくので、会話はいよいよリスニングテストの様相を呈してくる。
「あ、そうなの?まあ、まだ高校に入って三カ月くらいだもんな。そりゃ、そうか」
「そうじゃなくて、自分から人に話しかけるのとか苦手で……体育祭のダンスも分からなくなったら、その、同級生とかに聞ける人いないから、ちゃんと最初っから出て覚えないとって思って……」
何だか会話の流れが思わぬ方向に向かい始めた。軽くラリーしようぜ、と言っておきながらいつの間にか全力で打ち合っているような塩梅だ。
それにしても、それだけシャイなのによくぞ一人でダンス練に参加したものだ。そうやっていじらしい努力をしているとは、なんと放っておけないタイプだろう。サーブを打とうとしたら足元に転がってきたボールくらい放っておけない。しかし、自分がこういう真面目な相談が何よりも苦手という事実も看過できない。さて、どうフォローしたものか……
「それじゃあダンス練はいいきっかけになると思うよ」
「でも私、自分から話さないから先輩たちも面倒くさがってるかも……」
「無理せず、ちょっとずつ変えていけばいいんじゃない。俺は面倒だなんて思ってないし、むしろアッキーのことはもう友達くらいに思ってるよ。多分、原さんや城崎さんやブロ長や詩織先輩や陽子先輩もそうだ」村口先輩は下心を考慮して外す。「大丈夫。難しく考えてないで気楽にいこうぜ」
限界だ。自分の台詞がかなり気持ち悪い。昼飯が食道を逆行する。木戸と『陣子の放課後秘密特訓(R18指定)』ゴッコをしている方が遥かにマシだ。
「ほ、本当ですか……?」
「何が?」
早く部室かトイレに逃げたい。
「あの、友達って……」
「ああ」一番繰り返したくない所。「本当だよ」もう無理。「じゃ、そろそろ部室行くよ」
「あ、先輩」テニス部に後輩がいないせいで、先輩という言葉はスマッシュのごとく胸に突き刺さった。「あの、色々、ありがとうございます。それで、良かったら、迷惑じゃなかったら、アドレス教えて下さい」だいぶ戻っていたアッキーの顔にまた赤みが差す。
「いいよ」
そういうことなら全然構わない。だけど、そんなに恥ずかしがられながら言われると何だかこっちも恥ずかしい。まあ恥ずかしがっているアッキーを見るのは、それはそれで興奮するのだが、と考えながらアドレスを交換していると、ふと思いついた。
「アッキー、もし何も部活とかやる予定無いんだったら、テニス部のマネージャーをやらない?」
「え、でも私何も知らないですよ、テニスのこと」
「大丈夫、麦茶が作れれば十分だから。ま、体育祭の後でもいいから考えといてよ」
「は、はい」
「じゃあ、ダンス練頑張って」
「先輩もテニス頑張ってください」
アッキーに手を振りつつ別れ、部室へと歩き出した。
冷静に分析すると、現在二年しかいない男子テニス部は創部二年目にしてすでに存続が危ぶまれていると言えなくない。セオリーではないが、まずマネージャーから一年生を入れるのも一つの手だ。それに、あの『先輩』という呼ばれ方一つ取っても、一年生の女子マネージャーを入れる価値はある。絶対にある。誰が何と言おうとある。
「うぃーっす」部室に着くと、いるのは四元さんだけだった。例のでかいテニスボールにまた何かを描き加えている。「他の奴らは?」
「もう練習始めてるよ。随分遅かったね」
「ダンス練が楽しくて気がついたら時間が過ぎてたよ。心配したかい?」
「してない。むしろ期待した」
ああ、なんと落ち着くことか。馴染んだやり取りだ。自分が正気に返った気がする。
「私もそろそろダンス練行こうかな」
「四元さん、何ブロックだっけ?」
「Cブロ。ブロ長がなかなかカッコいいんだな、これが」
「でも、俺ほどじゃないだろう?」
「テニスができない坂上くんなんて足元にも及ばない」
かつて最速サーブ記録の保持者でもあったビッグサーバー、イボ・カルロビッチのサーブはかくやと思われる強烈な一撃である。
「それじゃあ、テニスができる俺はカッコいいと考えていいと?」
「できないよりはね」
「ならば今に実力を取り戻して、君のハートに激烈なウィナーを決めてあげよう」
「よし、完成」ネットにかかったボールのごとく俺の言葉は無視された。「それじゃ、私はダンス練に行ってくるから」
巨大テニスボールを棚に戻しながら四元さんは宣言する。
「了解。俺も練習に行きますか」
かくも冷たい四元さんの応対を経て、アッキーを励ました時に並べ立てた気味の悪い言葉で火照った脳は見事にクールダウンされた。些か冷やされ過ぎて寂しいくらいである。
コートの方へ向かうと、先週の約束通り女子テニス部がハードコートを使っており、男子はオムニコートの一面に追いやられている。ランキング戦の順番待ちで座っている女子部員の間を縫って、オムニコートへ入っていった。
「やっと来よったか」
「来てやったんだよ。ダンス練を諦めてな」
「そういう偉そうなことはあいつを倒して言え」
「もう、一籠半くらいあいつがリターンだぞ」
練習はシングルスのゲーム形式である。リターンは一人、その他はサーバーで2ポイント交代。2ポイント連取したらそのサーバーとリターンが交代するのだが、今のところ日野がそれを許さないらしい。
「任せとけって」
籠からむんずとボールを掴む。
まずはデュースサイド。トスを上げて、打つ。速くはないが、ほとんど浮かないスライスサーブがややセンターよりに入る。日野はフォアでリターンし、角度をつけずにセンターへ返す。俺はそれをまた向こうのコートの真ん中へ返す。日野もまた同じように返す。またまた俺も似たような所に返す。回転もスピードも角度もないボールを打ち続けていると、痺れを切らした木戸が叫んだ。
「ええ加減にせえよ。はよ、攻めんかい」
無茶なことを言う。俺は飛んできたボールをよく見てガットに当てるので精一杯だ。どんなボールを打つかなどという選択肢はない、と言ってやりたかったがラリー中に話す余裕すら今の俺にはなかった。
日野は徐々に角度をつけて俺を左右に振り始める。角度が広がるにしたがって、こっちのストロークは当てて返すだけになり、テニスをしているのか反復横とびをしているのか分からなくなってくる。ついに俺はボールをネットにかけた。
「やっと1ポイントか。ほら、はよ、次打たんかい」
「ばか、言ってんじゃ、ねぇよ」
息も絶え絶えで言葉が繋がらない。しかし、それでも俺はアドバンテージサイドのサーブの位置についた。
少し呼吸を整えてからサーブを打つ。スライスサーブはまたも浮かずにセンターよりに入る。自分で言うのも難だが結構進歩したじゃないか。日野は真ん中に返してくる。再び緊迫したラリーが始まった。しかし言うまでもなく緊迫しているのは俺だけである。
「それでもテニスのつもりなんか」
再度、木戸が声を上げる。
日野は、今度は角度をつけるのではなく、徐々にスピードと回転を上げてきた。自然とこっちはベースライン後方に押しやられる。それから間もなく俺はフレームショットであらぬ方向へボールを飛ばした。
「完敗やな」
「よし、そろそろ交代さてやる」
大場がサーブ位置に入っていった。
「くそっ」
傷がつかないように気を遣いつつ、ラケットを地面に放る。300Gはカランカランと音を立てて転がる。
「苛ついてるな」
「苛ついてるね。一体どうしたら戻るんだ、俺の実力は」
「そう焦るなって」
姉さんに言われると落ち着く言葉も、我門に言われると何故だか苛々する。
「もうすぐ平ジュニだぞ、焦らない方が無理だ。第一シードで無様な試合ができるか」
「以前のお前は、そんなことを気にしたことはなかったけどな」
「それがよしとしても、カッコいい俺はいつ戻ってくるんだ」
「以前のお前も、そんなにカッコよくはなかったから気に病むことはない」
「くそったれが」
我門の言葉など、フレームで打ったサーブくらい当てにならない。
テニスは一日にして成らず、それは分かってるさ。だけど、一日にして消えてしまうこともないだろうが。
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