第10話 姉さんの出立
夏休みに入って数日が過ぎ、いよいよ今日からFブロックのダンス練習が始まるという日、俺は朝の五時から玄関先でトスの練習をしていた。
トスとは言うまでもなく、サーブを打つために手でボールを上げることであり、その練習なのだからやっぱりこれもボールをひょいと上に投げ上げるだけである。恐ろしく地味というより、傍から見たら練習をしているのかどうかさえ分からない。しかし実はテニスにおいて、サーブが入るか否か、あるいはいいサーブが打てるかどうか、というのはトスでほぼ決まるのだ。そして思い通りの所へ高確率でトスを上げるという技術は、これがなかなか一朝一夕では身につかない。トスの練習とは思いの外重要なのである。
しかしながら、だからその練習をするために俺が早起きしたのかというと、そうではない。わざわざトスの練習をするためにこんなにも早起きする必要は皆無である。そもそも俺がこんな時間に身だしなみを整えて起きているというのは、小学校の林間学校以来、実に五年ぶりの快挙である。錦織圭がデルレイビーチ国際テニス選手権で優勝して成し遂げた日本人男子ATPツアー優勝の十六年ぶりには質的にも長さ的にも遠く及ばないけれど、それでもここしばらくなかったことなのである。
それでは、何故そのような快挙を成すに至ったか。理由は昨晩に遡る。
昨夜、弁当を買いに最寄りのコンビニに足を運んだ俺は、そこで真に幸運ながら姉さんと出会った。あまり幸運なので、そのつけでコンビニの弁当に毒が入っていることを覚悟したくらいである。
『姉さん、買い物?』
『おお、陣ちゃん。うん、ちょっとねー』
思わず姉さんの持っている籠の中を見ると、旅行用であろう、小さいボトルのシャンプーとリンスが入っていた。
『こら、人の買い物籠の中を無遠慮に見るんじゃない』
『ごめん、ごめん』
『それで、陣ちゃんはやらしい物でも買いに来たの?』
『失礼な。弁当だよ』
と言いながらも、姉さんと会えた満足感でお腹いっぱいになりかけていた俺は、危うく弁当を買い忘れそうになりながら姉さんとコンビニを出た。
『姉さんはいつからスペイン行くの?』
『明日からだよ』
『早っ』
『朝六時の電車だから寝坊できないよー』
『怖くて寝付けなかったら、いつでも俺を呼んでくれ。喜んで添い寝するから』
『小学生か、私は』
『そう言えば、幼い時はよく一緒に寝たねぇ』
『はいはい、そうね』
姉さんの呆れた声を聞きながら、閃いた。
『姉さん、明日駅までお見送りをするよ』
『お、嬉しいこと言うねぇ。でも陣ちゃんの家の前を通るのは六時前だよ。どうせ起きれないでしょ』
『見くびってもらっちゃあ困る。やる時がほとんどないだけで、やればやる男だよ、俺は』
『ふふ、じゃあ期待してる』
こういう次第で今俺は起きている。ちゃんと起きているのだ。なにせ、かつてないほど緊張して四時には目を覚ましたのだから。のろのろと身だしなみを整えて五時には玄関先に出た。何もしないでいるのも退屈なので、こうして家の前の道路でトスの練習をしている訳である。
夏の日の出は早く、辺りはもう明るい。家の前の公園は静かなもので、漂っている早朝独特の匂いを嗅ぐのは久方ぶりだ。時折聞こえてくる新聞配達のバイク音の他は物音一つなく、投げたボールの弾む音がやけに大きく聞こえる。
これがスライスの位置。ここがフラット。スピンはこっち。キックはこのくらいか。
練習をしながら改めて不思議に思う。球種によるトスの位置まで分かるのに、何故打てないのか。頭でっかちもいいところである。
当初はいずれ戻るだろうと軽く構えていたのに、最近では自分でも理由は判然としないが日増しに深刻な気持ちになっている気がする。俺はインターハイでも目指したいのだろうか?いやこれは断じて違う。最近の試合で負けが込んでいるからか?確かに悔しいけれどこれも違う。俺を馬鹿にしてくるテニス部仲間への復讐か?これは当たらずとも遠からず。四元さんの視線を取り戻し、その他の女の子の注目も集めるためか?これがドンピシャのはずなのに何故かまだズレている印象が拭えない。
考え込みながらトス練習を続けていると、ごろごろと何かを転がすような音が聞こえ始めた。だんだん大きくなる。やがて公園の西端の曲がり角からトラベルバックを引きずった姉さんが現れた。俺を見て一瞬立ち止まったが、すぐにこっちに来る。
「おはよー。起きてるじゃん。やるねぇ」
「やるときゃ、やるんだ、俺は」
自転車の籠にボールを投げ入れ、駅へ向けて姉さんと歩き出す。
「その後、テニス部の方はどうなの?」
「木戸・大場がダブルスで青松地区優勝、日野がシングルで準優勝」
「流石だね。順風満帆」
「でも、俺は完全に座礁したね。もう以前のようなテニスは出来ないのかもしれない」
「まあ、そう焦りなさんな。待てば海路の日和あり。短冊にもお願いしたしね」
「効くといいけど」
公園の方に目をやったが、竹の飾りはとっくに撤去されている。
「姉さん、スペインは楽しみ?」
「当然。もう、どきどきわくわくで昨日は全然寝られなかったくらい」
ぽーっと姉さんの顔が緩んでいる。スペインめ、姉さんを虜にしやがって。これで姉さんに何かあってみろ、今後は一切スペイン人選手を応援しないぞ……いや試合妨害すら辞さない所存だ。
国家相手に不毛な嫉妬心を燃やしながら歩いた。
「でも最後の体育祭の練習に、あまり顔出せないのが心残りかな」
「大丈夫さ。俺が全部覚えて姉さんに教えるから。ペアダンスだけじゃない、女子ダンスだって。それに、ほら、俺たちは家が近いじゃん。だから別に学校で覚えきれなくてもさ……」
いつでも一緒に練習出来るじゃん、と言おうとして迷う。ちょっと下心の含有率が高いだろうか。強打のし過ぎだろうか。
「それもそうだね」
姉さんは普通に返事をした。
「そうそう。姉さんは心おきなくスペインを堪能して、土産話でも聞かせてくれ」
「うん、そうする」
姉さんがこっちを向いて笑うと、その笑顔の破壊力たるや凄まじく、危うく意識を持って行かれそうになる。
俺や姉さんの家から一番近いのは、平津加駅の西口だが、北口や南口と違って規模の小さい西口にはエスカレーターがない。エレベーターはあるのだが、見れば生憎なことに故障中である。俺は階段下で足を止め、ごく紳士らしく申し出た。
「お荷物お持ちいたしましょう、セニョリータ」
「ありがとう、セニョール」
姉さんのカバンを受け取ってよく見ると、キャスターが付いていながらスーツケースとは違い、リュックみたいに柔らかい。
「変わったカバンだね」
「これリュックにもなるんだよ。空港を出たら即バックパッカーになれるの」
「なるほど」横に付いている取手を握って持ち上げる。「軽いね」
「だってまだ中はほとんど着替えだけだもの。帰りはお土産とかで重くなるけど」
なんと。全く気にしていなかったのに姉さんの言葉を聞いたせいで、どうしようもなく中が気になってきた。よく考えてみれば、このカバンの中には姉さんの下着も入っているのだった、そうだった。しかしここでカバンを開けたら、パンドラの箱の中身を一手に引き受けるようなものである。底に眠っている姉さんの下着という希望は大いに魅力的だが……でも、やはり、しかし……
胸の内で理性と本能が壮絶なラリーを展開していると、いつしか改札の前まで来ていた。
「それじゃあ、お見送りありがとね」
姉さんは俺の手から荷物を受け取る。
「いえいえ、お礼なんか。それより、さよならのチューを」
はあ、と姉さんはため息をつく。
「私も唯奈ちゃんみたいに怒っちゃおうかな」
「な、何でそれを……」
「本人から直接聞いたの。陣ちゃん、あれはちょっと軽蔑に値するよ」
「い、いや、あれは俺も自分でやり過ぎたと思ってるんだよ。深く自省しながら反省してるから。そんな軽蔑したような蔑視の視線は……」オープンコートに打たれたボールを追いかけるように必死になるあまり、言葉の方は意味不明な同義反復になる。
「まあまあ、私は軽蔑してないから落ち着いて。でも、心して行動した方がいいよ」
「はい、肝に銘じておきます」
まさかここで怒られるとは……
「よろしい。じゃ、行ってくるよ。あ、ホントにありがとね」
俺の気落ちを察したのか、姉さんはいきなりチュッと投げキスをした。そして改札の前でもう一度こっちに手を振ってから、東京方面行のホームへ降りていった。
俺は股抜きショットでエースを取られた選手のようにしばしポカンとしていたが、やがて周囲の不審者を見る様な視線に気がついて歩き出した。しかしどうにもスキップが抑えられず、ますます周りの冷ややかな眼差しを集めるばかりであった。
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