第9話 去年の球技大会

 四元さんの眼差しを奪いたいという下心から来る集中力は、俺のストローク、ボレー、スマッシュ、サーブを少しずつ上達させた。それに伴って練習の中心は球出し練から普通のラリーへと移行していき、ようやく特別メニューをやる機会も減ってきた。

「大分入るようになったやんか」

 ストレートでラリーしながら木戸が言う。俺に返事をする余裕はない。

「まだまだ、打ちごろやけどな」

 サービスラインくらいの所でバウンドしたボールを木戸に叩かれてあっさり決められた。部室での憂さ晴らしなのか、木戸は容赦なく決めてくる。

 二球目を出すと今度はいきなりドロップを打ってきた。なんとか追いついて返すと次はロブだ。そしてまたドロップ。俺はまるでシャトルランでもやるようにコートを前に後ろに走らされる。にやけ面をして打っていた木戸はしかし、何度目か分からないがついにドロップをネットにかけた。

「っしゃ」反射的に声が出る。自分でも不可解なほど嬉しい。「勝った、ついに勝った」

 テニスでは一つの種目で四大大会全てのタイトルを取ることをグランドスラムという。それにオリンピックの金メダルが加わるとゴールデンスラムになる。しかし今の嬉しさたるや、四大大会全てでシングルス、ダブルス、ミックスの三種目全てを制すことを意味するボックスセットを成し遂げたような気分である。よくよく考えてみれば六月にテニスを忘れて以来、初めて自力で取ったポイントではないか。

「喜び過ぎや」

 木戸が苛立ちを露わにして言う。

「いやあ、自信がついたよ。ありがとう」

「さっそく、その自信を粉々にしたってもええんやで」

「でもまあ、随分返るようになったじゃん。平ジュニではゲームくらい取れるんじゃない?」

「阿呆言え。勝つんだよ、俺は」

 もう片方の反面コートに移り、今度は我門に球を出す。

 パアァン。

 我門はいきなり剛速球を打ち込んできた。あっという間に球は俺の横を通り過ぎて後ろのフェンスに当たる。

「この野郎、いきなりか」

「テニスはそんなに甘くない、球出しの直後だからって気を抜くな」

「と、よく自分で言ってたじゃないか、陣よ」

 我門の言葉を大場が続けた。

「忘れたな、そんなこと」

 練習が一区切りしたところでコートの外に出ると、いつもの長机を見て誰もお茶を作っていないことを思い出した。せっかくチャンスボールが来たのに隣のコートから飛んできたボールのせいでポイントのやり直しになったように力が抜ける。

「くそ、部室で何だかんだやってたせいで、作るの忘れたな」

「陣はあれに挑戦しないんか?」

 木戸は同じ長机に置いてある赤いウォータージャグを指す。女子テニス部のジャグだ。

「流石の俺でも少し覚悟を必要とするね。しかし味は気になる」

「ただのお茶でしょ」

「ただのお茶も淹れる人によって味は変わるんだよ。ガットを張る人によって打ち具合が変わるようにな」多分、そんな違いが出るのは張り手が常軌を逸した下手くそだった場合だけであろうが。「実際、喉が渇いて困っているのだ。ここで俺が止むに止まれず彼女達のジャグから飲んでしまったとしても、彼女らの懐の深さならドロップボレーのごとき優しいタッチで俺を扱ってくれるであろう」

 俺はピロティの段差の上に飛び乗って長机に向かい、コップを取り上げた。

 待てよ、女子用のコップを使うことの方が色々と角が立ちそうだな。そう考えた拍子にハードコートの入口が開き、河内さんを先頭に女子部員がぞろぞろと出てきた。

「はあ、あっつい、あっつい。あっ、そこで何してる?坂上」

 慌ててコップを置いたのは、見られただろうか。

「いやあ、実に良いジャグだなと思いましてね。なにせ三つもコックが付いている。これなら、待ち時間は三分の一ですからね」

 我門と日野と大場と木戸が女子たちの後ろで肩を震わせて笑いを堪えている。

 河内さんは目を細めて睨んでおり、その後ろの女子たちは不思議そうなこっちを見ている。改めて見ると女子は部員が多く、無言の圧力がすごい。最大の客席数を誇る全米オープンテニス会場のセンターコートであるアーサー・アッシュスタジアムで、満員なのに自分の応援が一人もいないような心細さだ。

「では、失礼しました。ごゆるりと休憩を」

 俺は逃げ出そうとしたが、「ちょっと」と河内さんに呼び止められる。

「来週の月から水曜なんだけど、ランキング戦やりたいからハードコート二面とも一日使わしてくれない?」

「うーん、三日間かぁ」

 正直五人しかいないのだからコートは二面も必要ない。だがあまり易々と承諾しても今後の立場がどんどん悪くなりそうなので、無意味に渋ってみる。

「どうなの?」しかしスピンのかかった深いボールでこっちをコートの後方に追いやるように、河内さんは持ち前の圧力で押してくる。「ねぇ?」

「わ、分かりました。大丈夫です」

 こっちがラリーの主導権を見出す暇もなく交渉は終了した。

「相変わらず、使われ放題だな」

 結局、日野が作ったお茶を飲みながら我門が言う。

「そもそも何で平部員の陣が交渉してるん?」

「部長の日野が来ないからだ」

「呼びもしなかったけどな」

「日野、お前に任せた方が良かったか?」

「どっちにしても結果は変わらないと思うよ」

「だとさ。それにしても天下に鳴らしたストローカーが会話のラリーで、ああも押されるとは、自分ながらに情けない」

「天下は言い過ぎや。せいぜい大原高校、もしくは青松地区くらいやな。まあ、県の本戦も三回戦まではいきよったけどな」

「青松、平ジュニ、球技大会と三つもタイトル取ったのに」

 ささやかではあるが。

 俺の言葉に木戸と大場と我門が突然笑い出した。

「球技大会はおもろかったで」

「何がだ?」

「相変わらずの忘れっぷりだな。説明してしんぜよう」

 大場が説明を始めた。


 〇


 今年の五月、大原高校で開催された球技大会で俺は再びテニスに参加した。今年の決勝の相手は日野だったらしい。それならば勝ったも同然、と気が緩みかけたところを昨年のフラッシュバックが襲い、半ば強制的に俺の気は引き締まったそうだ。

 案の定、日野はシコラーとしてすさまじい粘りを見せた。それはもう、一ポイントの平均ラリー数が二十にも三十にもなるくらいであったという。当然時間はかかる。俺は苛立ちつつもポイントを重ね、ゲームカウント3―0にしたところで周りの変化に気がついた。

 コートを見下ろせる体育館横の通路にかなりの生徒が見物に来ていたのだ。他の競技が続々と終了してきていたらしい。ここで俺の見栄は芝コートでのスライスボールのような伸びを見せた。何をしたかというと、観客を増やすために俺もシコり始めたのである。

 俺のプレーの変化に戸惑いつつも、自分のプレースタイルを捨てなかった日野の精神力は称賛に値する。おかげでラリーは五十も六十もつながり、百を超えるのも数ポイントあったそうだ。

 観客はその後もかなりの勢いで増えた。調子に乗った俺は、トイレタイム、ゴミが飛んできたという理由でのポイントレット、飛んでいったボールをゆっくり取りに行く等など、あらゆる手段を使って時間を引き延ばしたらしい。もしそこまでの実力があれば、自らサーブでレットを取り続けることも辞さなかったであろうほどの熱意だったという。

 隣のハードコートや体育館横の通路に人がぎっしりとなり、1ポイントごとに飛ぶ歓声や口笛が俺のテンションを推奨以上にした時には、カウントは3―3となっていたそうだ。

「すごい根性じゃないか」

 話を聞いた俺は素直に感心した。

「坂上の魂胆を見抜けなかったのは迂闊」

 日野が首を垂れる。

「そっからは、えらい盛り上がっとったでぇ」

 再び持ち前のアグレッシブなプレーに戻した俺は、1ポイント決まるごとに大げさなリアクションを繰り出し、観客を沸かしたという。それはもう、ほとんどテニスをしているのか演劇をしているのか判然としないくらいだったらしい。

「でもまあ、そうやった方がカッコいいじゃないか」

「そう思うか?俺が一番うけたのは、日野のゲームをブレークした時にやった女の集団への投げキスアピールだな」

「ごっつ引いてたもんな」

 木戸が言うと、我門と大場は再び笑い出した。

「バカな」

 そんなことするはずがない、と言いたかったが少し自信がない。なにしろ推奨テンションを遥かに超えていたのだから、多少脳みそは変形していたかも知れないのだ。

 試合は華々しいエンターテイメント性を発散しつつ、膨大な時間を使って6―4で幕を引いたそうな。

 勝った瞬間、俺はコートに倒れ込み両手でガッツポーズをしながら歓声を受けた。そしてしばらくしてから起き上がり、日野との握手を済ませ、ラケットで拍手をしながら観客の声援に応えた。ここまではやや調子に乗り過ぎているように見えるもののまだ良かったのだ。勢いあまった俺は、プロのように体育館横の通路にいた観客に向けてウィニングボールを打ったのである。軽やかにラケットを振り抜き、ポーンと上げたつもりのボールは試合で疲れていたせいか狙ったよりも上がり過ぎ、見事に体育館の窓ガラスに命中して大きな亀裂を入れた。表彰式に先んじて説教が始まったのは言うまでもない。

 俺は表彰式で受け取った賞状を二年五組の仲間、主に女の子たちに向けて、高々と掲げるというイメージトレーニングを重ねつつ説教が終わるのを待ったが、あんまり長引いた試合と説教のせいで表彰式が割愛されたという。

『誰のせいだ?』と俺は我門に怒鳴り散らしたらしいが、よく考えるまでもなく百パーセント俺のせいであった。

「あれ以来、一躍有名になったろうな、陣は」

「まったく、天下に鳴らした阿呆やな」

「ま、エンターテイナーとも言えるかもね」

「トラブルメーカーでしょ」

「黙れ」

 と言いながら俺は今聞いたことを反芻していた。そのような自由自在で千変万化のテニスができたとは信じがたい。一体、俺はどんな気分でテニスをしていたのだろうか。

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