第3話

「コーヒーのDNA検査?代用品の素性でも暴くってか?」

 電話口で北見が応えた。北見は高校時代からの友人で、今は別の大学で分子生物学を専攻している。

「違う違う、本物だよ。本物のコーヒーが手に入ったとして、産地か品種がDNA検査か何かで割り出せないかと思って」

 なんとか豆の出所の手がかりだけでもつかめないかと二、三日考え込み、ようやく出したアイディアだった。

 コーヒーの一部をこっそり持ち帰り、北見の大学の設備で検査する。その協力を仰ぐために、普段ならほとんど連絡しない北見に電話してみたのだが。

「ううん、そりゃあうちじゃ無理だなあ。本物でも代用でも、コーヒーを作る過程で遺伝情報はボロボロになっちまうだろうからなあ」

 答えは芳しくなかった。

「ん、そうか……」

「そうそう。それに、豆から直接いくとしても比較用に産地や品種のわかった豆がもう何種類かないとなあ。コーヒー一杯だけDNAがわかったってなあ」

 もちろん、他の豆まで何種類も手に入るくらいなら、最初からプラネタリウム・カフェの豆の入手ルートも秘密にするようなことではなかっただろう。

「そうか、いや、無理言って悪かったな。それじゃあ」

「ん、じゃな」

 僕は肩を落として通話を切り、どかっとソファーにもたれかかった。

 これでコーヒーを持ち帰って検査するという手段も使い物にならないことがわかってしまった。

 第一あの狭い店内では、いくら店員が店長と望華さんしかいないとはいえ、こっそりコーヒーを容器に注いで鞄に入れたりしていたらさすがに気付かれるだろう。

 そこまでしていたら豆の秘密を盗もうとしているのは明白だ。

 と思ったところで、「一部分だけ持ち帰る」他の方法ならすでに実践していたことに気が付いた。

 つまり、僕は確かあの店で最近、シャツの袖口にコーヒーのシミを作ってしまったのだ。

 そのときは帰ってからうっかりその事を忘れてしまっていたから、ちゃんとしたシミ抜きはしていなかった。店内で拭いた分と普通に洗濯した分しかシミは落ちていないはずだ。

 どのシャツかは忘れてしまったし、別にシミがあったところでもはや何の手がかりにもならないことはわかっているが、シミがあること自体少し気になった。

 とにかくシャツの袖口を全て調べてみよう。

 そう思うのとほぼ同時に着信音が鳴り、少しびくっとした。らいむからだった。

 ソファーから立ち上がり、着信音を無視して、クローゼットにかかったシャツを念入りに調べ始めた。

 あの後きっちり別れを告げ、その後顔も合わせないようにしていたのに、電話だけはこうして毎日かかってくる。

 かなり一方的だったのは確かだし泣かせてもいたが、らいむと僕は元々知り合ってから一、二ヶ月の仲でしかなかった。

 その間、あの日のように特に何も通じ合えなかったのだから、執着や怒りにつながる考えが分からない。

 着信音が鳴り止み、シャツも調べ終わった。

 かなり薄まっているかもしれないし袖口以外のところかもしれないと注意はしたつもりだったが、シミのあるシャツはなかった。

 シミをつけたというのは思い違いだったのだろうか。立ち上がりついでに風呂に入ることにした。

 しかし湯舟に浸かっている間もシミのことがじわじわと気になってきて、上がってから歯を磨いている間に他にも少し妙なことがあるのに思い当たった。

 例えば、あの店のコーヒーは何杯かお代わりしたくらいではほとんど腹にたまることはないのだ。

 それから、あの店には食事のメニューはなく、つまみの小さなクッキーがある程度だった。こちらも、小さいのだから当たり前かもしれないが、腹を満たすということはなかった。

 正確には、店を出てから腹がすっきりするまでがやけに早いのだった。

 シミをつけたのが本当だとすれば、なにか全体としてこう思えた。

 コーヒーもクッキーも、店の外に出れば消えてしまう、と。

 決してコーヒーの産地を明かさないという頑なな方針がなせる業だとでもいうのだろうか。しかしそれにしたって腹の中身が消えてなくなるなんてことがあるはずはない、手品か魔法でもあるまいし……。

 おかしなことを気にし始めるからそんな風に思えてしまったのだろう。コーヒーもクッキーも腹の中から消えたりはしない。シミも店内で拭いて家で洗濯した分でもうほとんど落ちてしまったのだろう。

 そう考えるのが自然だということで納得し、気持ちが切り替わったところでもう寝ることにした。


 翌日の夕方。僕はいつもどおり薄暗く細長い階段を抜けてプラネタリウム・カフェの扉を開いた。

「いらっしゃーい」

「いらっしゃいませ」

 二人はいつもどおり、変わらない笑顔で迎えてくれた。

 豆の産地なんて、今は知る必要はなかった。最高のコーヒーと望華さんの微笑み。今はそれだけで充分だと気付き、夕べの疑問も豆への探究心もすっかりどこかへ消え去っていた。

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