第2話
翌日。僕は普段どおり一人でプラネタリウム・カフェに入った。
「いらっしゃいませ」
「ああ、いらっしゃい」
望華さんと店長の出迎え。
カウンター席に座ると、なにも言わなくても望華さんがブラックを一杯出してくれる。元々この店には凝ったメニューはない。
「昨日の子は彼女かい?」
店長が尋ねた。やはり気付かれたか。望華さんもそう思っているだろう。
僕は少しためらったが、
「ええ、でも昨晩別れてしまったんです」
嘘をついた。
昨日のようなこともあってもう付き合ってはいられないという気にはなっていたが、まだらいむ本人には切り出していなかった。
「まあ」
「そう、かあ。いや、悪いこと聞いちゃったかな」
親子とも本当に親身になってくれる。
「いえ、せいせいしましたから。いいんですよ、あいつはこの店のコーヒーの味だって全然わかってなかったんだし」
ほんの一瞬、店長の表情が固まった。しかしすぐ、
「ははっ、そんな基準にまでしちゃっていいの?うちのコーヒーを」
と笑った。
「当たり前ですよ、僕にとってコーヒーは人生そのものですから!」
「おおっ、このご時勢にそこまで言ってくれるとはねえ、こっちもやり甲斐があるよ!」
店長は満足そうだ。
「いやしかし店長さんはすごいですよ、コーヒー難になる前だってこんなに良いコーヒーに出会ったことはなかったんですから、ねえ」
僕は望華さんのほうを向いた。
さっきはらいむの事で少し気を遣わせてしまったようだが、今は店長と同じく嬉しそうに微笑んでいる。それは僕にとってもなによりの喜びだった。
「ええ、父が世界何周分も飛び回って見つけた極秘ルートで仕入れてる豆ですから」
極秘ルート。そう、店長も望華さんもその言葉に全てを封じ込めてきた。
本当に店長は豆の秘密を漏らさない。直接豆を買って家で挽いて飲むことさえできない。
店長の全くぶれない姿勢が、いつかはこんな本物の店を開きたいという僕の気持ちを抑えこんできた。この店がある限り僕は店が出せないだろう。
しかし僕はこの店が大好きだ。単に本物のコーヒーを飲めるというだけの場所ではない。
だから、今はこのままで良い。
「世界何周分も、か。店長、感謝してます。店長みたいにできたらどんなにいいか」
僕がそう言うと店長はなんとも言えない表情になった。
「よしてくれよ、照れるって。ははっ」
店長は頭をかきながらカウンターの向こうに引っ込んでいった。
それを見ていた望華さんに、僕は尋ねてみた。
「店長が豆を探してた間、望華さんは日本にいたんですか?」
「ええ、その間私は祖母のところで何年も待たされていて。まだ中学高校くらいでしたし、不安だったんです。コーヒーのために捨てられたんじゃないかと」
店長に前に聞いたのは、それより前に望華さんのお母さん、店長の奥さんが亡くなり、店長は豆を探し始める前まで望華さんを男手一つで育てていたということだった。
「でも、望華さんはコーヒーを嫌いには」
「ええ、父が帰ってくるまではさすがに少し嫌いになりそうでしたけどね。でもやり遂げた父を見たらそんなのは吹っ飛んでしまいました。だから、私がコーヒーを好きになったのはコーヒー難になった何年か後なんです」
それは少し意外だった。
しかし考えてみれば、僕らの世代だとコーヒー難時代になる前はまだ子供で、普通は甘い飲み物の方が好きで当然だった。その頃周りの友達は、コーヒーを飲む僕を気取っているとからかったものだった。
「僕にとっては、コーヒー難になってよかったのかもしれません。この店のコーヒーにも、店長さんや望華さんにも出会えましたから」
そう言うと望華さんは、
「そう……ですね、うちのお店に出会えなかったコーヒー好きの方には申し訳ないですけど、私もそう思います」
と言って微笑んだ。コーヒー難になって本当によかった。理不尽だが本気でそう思う。
帰り道、望華さんが久しぶりに言った「極秘ルート」のことが思い出され、また気になってきた。
別に今豆を手に入れる必要は全くないが、プラネタリウム・カフェのコーヒーの味は産地を気にさせるのに充分だった。その点はらいむの言うとおりかもしれない。
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