プラネタリウム・カフェ
M.A.F.
第1話
「おい、こんなところに来るのにビートル・パールの指輪なんかするなよ」
僕は苛立って彼女に言った。
「え?……あっ、ごめんなさい。気付かなくて」
彼女、宗田らいむは慌てて指輪を外し、財布にしまった。まったく、ビートル・パールこそがこういう良い喫茶店に陽も当たらなくなった元凶だというのに。
ここは東京の片隅、ビルの地下にひっそりと開く、いまや数少ない「本物のコーヒー」を出す喫茶店である。
名を「プラネタリウム・カフェ」という。
地下で努めて目立たないように開いていることと、店のシンボルとして真ん中に古くて大きなプラネタリウム投影装置があること以外、ここはかつての喫茶店と変わらない。
本物のコーヒーが珍しくも何ともなかった、二千十年代までの喫茶店と。
二千十年代末、スマトラの奥地で新種の昆虫が見つかり「コンゴウカタゾウムシ」と名付けられた。その後一般には「パール・ビートル」として知られることになる。
その虫の特徴は二つ。
様々な植物の種子で育ち非常に繁殖力が強いこと。
それに、飛ぶことを犠牲にして作り上げた、真珠に勝るとも劣らない輝きと強度を誇る甲羅である。
それは完全な半球が取れる胸部を始めとして、ほぼ全身が本当に宝飾品として通用するほどだった。
生息地から十匹ほど持ち出されたパールビートルが、コーヒー豆で、しかも売り物にならない出来の悪い豆でも簡単に育てられるとわかると、世界のコーヒー農場がたちまち飛びついた。
捨てるようなひどい豆でも育つ真珠。低賃金にあえぐコーヒー農民には僥倖だった。さっそくパールビートルの飼育が広まり、その甲羅を宝飾品に加工する働き口は農園の地元にありがたがられ、宝飾業界もそれを受け入れた。
安価で真珠並みに美しい「ビートル・パール」は、ごく短期間のうちに世界で最も普通に見られる宝石となった。
だが、虫を手軽に大量に飼おうとすればどうなるか。世界中に出荷されるコーヒー豆……虫共の主食のすぐそばで。
ちょっとした隙間から這い出してきた虫は宝の山たるコーヒー豆の備蓄をすぐに見つけ出し、食い荒らした。それはその地域全体に広まり、やがては…… 。
本来飛ぶための翅を持たないパールビートル、いや、コンゴウカタゾウムシだったが、人類が作り上げた物流という新たな翼を得て広まるのはたやすかった。はじめに脱走が起こったのがどこかさえ分からないほど。
結局、脱走したコンゴウカタゾウムシは世界中のコーヒー農場とコーヒー豆の備蓄に大打撃を与えてしまった。農業害虫が物流で広まるのはよくあることらしいが、この場合人間自身がもてはやしていた虫なだけに、コーヒーの被った被害は大変なものだった。
そうして今、二千二十年代末はコーヒー難時代となった。
他の植物から作られる代用コーヒーや茶の台頭。本物のコーヒー豆から作ったコーヒーはすっかり過去のものになってしまった。
コーヒーになんの愛着もない人はそれでいいだろうが、僕には全く我慢できない。インスタントのコーヒーだって……以前は一応本物の豆から作られたものだったが、不満だったくらいだ。
しかし大学からの帰り道にこの店の小さな看板を見かけたとき、僕は本気で期待して入ったのではなかった。
そのくらい、数多くの代用コーヒーに裏切られてきたから。
看板には店名しかなく、その店名を検索しても何も出てこなかった。
狭く長く、薄暗い階段を、ほんのわずかな期待と、がっかりさせられずに済むよう充分な諦めを持って進んだ。
「どうぞ」
あれ以来、毎日のように通いつめて繰り返してきたとおりに、エプロンドレス姿の店員が僕の前にコーヒーを置いた。もちろん向かいに座るらいむにも同じものを。
「ありがとう」
店長以外の従業員は店長の実の娘である彼女、土屋望華(もか)さんだけだ。
飴色に輝く、きちんとまとめられた長い髪。すっきりと整った目鼻に、洗練された立ち居振る舞い。
僕はゆっくりとカップを口に運び、最初の一口を味わった。
理想のコーヒーを完璧に体現する味わいが口の中に広がり、僕を違う宇宙へと誘う。以前でも滅多に飲めなかった味だ。
つかの間の夢の中で、望華さんもまたこのコーヒーに負けず理想的だなどと思う。
しかしテーブルの向かいから投げかけられた一言が僕をつまらない俗世へと引き戻した。
「フツーのコーヒーとあんまり違わなくない?」
許しがたいとは思いつつ、僕はその真意をらいむに確認せざるを得なかった。
「普通のコーヒーってのは」
「だから、普通にコンビニで売ってるやつ」
間違いなく代用コーヒーのことだった。信じがたい味覚音痴。
「味もわからないなら何で行ってみたいなんて言ったんだよ」
「えー、だって青山君の行きつけのお店だって言うから……」
しゅんとするらいむを見て僕は少しうんざりした。
その場の成り行きと彼女くらいいないとという見栄で付き合い始めたもののどうも気が合わない。
「あれ何?」
らいむの視線の先には、この店のシンボルであるプラネタリウムの投影装置が、店内のひかえめな照明に黒光りしていた。
ツァイスⅣ型プラネタリウム。六十年以上前に製造され、国内でも活躍していた由緒ある投影装置だ。昨今の一つの球体からなる洗練された装置と違って、二つの球体をたくさんの骨組みでつないでやぐらで持ち上げた武骨なスタイルをしている。
彼女にはずいぶん旧式なそれがなんなのか分からないようだった。一通り説明してやると、
「じゃあ星を映せるの?」
「いや、ここじゃあ電力も設備も足りないから無理なんだってさ」
「じゃああるだけ無駄じゃない?」
「それはお前、店のシンボルなんだから」
「ふーん」
それきり投影機には全く関心を示さなかった。
あんなに神秘的で風格もあって、気分を最高に盛り上げてくれる装置なのに。
常連客の一人が、カウンターの向こうの店長と隣に立つウェイトレス姿の店長の娘さんと楽しそうに話している。
正直に言ってらいむではなく望華さんと付き合えたら……。
カウンターの三人の笑い声が聞こえてくる。こちらのテーブルでは会話は途切れたままだ。と思ったら、
「ねえ、これってどこ産の豆とかないの?」
こともあろうにこんなことを言い出した。店長がこちらを見ている気がする。
「お前、そんなの言えるわけないだろ。コーヒー豆は貴重なんだぞ」
豆の産地や入手ルートはいつ話しても、何度聞いても常連の僕にさえほのめかしてすらくれなかった。少しでも踏み込んで聞くと、店長は決まって、
「それは軍事機密並みのトップシークレットさ、細い細いルートをライバル店と奪いあってたらたちまち値上がりして、気軽に手が出せる代物じゃなくなってしまうからね。絶対に情報は漏らさないよ」
と答えるのだった。
「どこ産だって分かったって、お前に味の違いが分かるのかよ」
「だって、普通そういうの気にしながら飲むのかと思って……」
それきり、らいむは黙り込んでしまった。
いたたまれなくなって、まだ一杯しか飲んでいないが店を出ることにした。
「ありがとうございました、またいらしてくださいね」
「うん、また来るよ」
いつもの望華さんの挨拶に、僕もいつもどおりに返した。
しかし、らいむにとっては不機嫌の種だったようでますますうつむきがちだった。
やはり連れて来るべきではなかったのか。彼女と何か共有できる気が全くしない。
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