進行

 尚美が倒れて4目の朝、右手の激痛で目が覚める。

「いったぃ…!!湿布薬全然効かないじゃない!!」

 右手をさすりながら湿布を剥がす。

 昨日、肘まで痺れを感じ、書庫で術の奥義を探すのを諦めた私は、揉んだり温めたりしながら休んでいた。

 だが、今日は肩まで痛みが『上って』来たのだ。

 怪我をした形跡もない。いや、小さな丸い痣が二つ程、人差し指に何時の間にか浮き出でいるのだが…しかも、前にあった傷に類似しているが…

「何かに咬まれたあと?」

 しかし、やはり心当たりは無い。

「痛っ!」

 親指で人差し指の痣をさすっていると、痛みが走る。

 やはりこの痣が原因のようだけど…

「取り敢えず病院に行こうかなぁ…」

 しかし今日は師匠のお葬式。流石に出席しない訳にはいかない。

「お葬式が終わり次第、病院に…っ!!」

 トランクから喪服を出そうとしただけで痛みが走る。

 私は痛みを堪えながら喪服に着替えた。


 少し早かったようで、屋敷の弟子達もまだ喪服に着替えていなかった。

「あら?随分早いわね?」

 梓が驚いたように話し掛けてきた。

「少し早起きしちゃったのよ。痛っ!」

 右手を押さえた。

「どうしたの?捻挫でもしたの?」

「何か昨日から右手が痛いんだよね…」

 袖を捲って梓に見せる。

「別に腫れている訳でもないけどね……ん?」

 梓がいきなり食い入るように右手を見る。

「結奈っ!!アンタ一体!?」

 真っ青になりながら私から一歩、二歩と下がった。その表情は明らかに怯えを見せていた。

「な、何よ?右手が何なのよ?」

 思わず右手を隠す。

「アンタこのままじゃ死んじゃうよ!!」

 梓が私を泣きながら見ている。

 泣きながら。いや、半狂乱になりながら、だ。

 私が死ぬ、死んでしまうと叫び、泣き喚いているのを、他人事のように私は見ていた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 尚美が呪いの殆どをその身に受けてくれたおかげで、屋敷の人間にはあまり危険が及ばなくなり、通常通りにお客様に宿泊を勧める事ができた。

 無論、呪いの飛び火や屋敷に蜷局を巻く分身など、問題もある。

 それも九尾狐やフェンリル狼、ソフィアさん、宝条さん、生乃のおかげで何とか凌げそうだ。

 だが、お葬式を屋敷で執り行う事は避けた。

 お葬式ともなれば、有り難いお経などを詠む。呪いを悪戯に刺激するような事になるかもしれない。なので執り辞めて、屋敷近くの葬儀場を借りることにしたのだ。

 これで北嶋さんが帰って来るまで一安心だ。

 そう。私は、いや、私達は油断していた。

 師匠が生涯を賭して封じていた神の呪い…何時、如何なる時にどんな形で現れるか、解らない。

 それ程強大な呪いだった事を忘れ、油断していたのだ。

 誰か死ぬ。

 感じた言い得ぬ不安を、まだ私は感じていた筈だったのに。

 目の前の友達の魂が、蛇に絡まれている事に何故気が付かなかったのだろうか…

 いや、少なくとも、2日前にはそんな兆候は無かった。

 いや、それも言い訳。

 現に、結奈の魂が、徐々に蝕まれているのだから…

 私は絶叫し、そして意識を失う。

 涙で掠れた目に見えている、結奈の右手に食い込んでいる蛇を見ながら。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「断続的に暴れてはいますが、桐生さんのおかげで時が稼げた分、グレイプニルの予備も沢山作れました。この分ならキョウ達が帰ってくるまでは大丈夫そうですね」

 ソフィアさんは軽く笑顔を作りながら話した。

 表情が当初より柔らかくなっているような気がする。

 フェンリル狼と共に、寝ずの番をしていたのだ。僅か1日とは言え、精神的に疲労が溜まっていたのだろう。

 今は日中、私が見張っている分、フェンリル狼も睡眠を取る事ができ、ソフィアさんもグレイプニルを嵌める時意外はリラックスして過ごしている状態。

 私でも役に立てて良かったと思う。

 残り3日間、北嶋さんが鏡を持ってくるまでは耐えれそうだ。

「そうですね。このままなら大丈夫ですね。これ以上、問題が起こらなければ」

 冗談で笑いながら軽口を叩く。

「小さな問題なら兎も角、飛び火や分身と同じくらいの問題なんか起こる事は無いでしょう」

 ソフィアさんも笑いながら応えた。

「きゃあああああああああああ!!!」

 談笑中、屋敷の中から発せられた絶叫に、私達の心臓の鼓動が高まった

「今のは…梓!?」

「間違いなく有馬さんですね…一体何が…」

 先程の和らいだ空気が掻き消され、暗く冷たい空気に支配される。

「桐生さん!行ってみましょう!」

「え、ええ…でも…」

 梓の状況が気になるも、私の仕事は分身の大蛇が暴れ出したら押さえる事。

 請けた仕事を途中で放棄する訳にはいかない。

 現に私はお師匠のお葬式にも出席せずに、ここに留まるつもりだった。

「桐生さん!!」

 ソフィアさんが私の手を握り、引く。しかし私はここを動く訳にはいかない。

――…早く行け。そんな状態では逆に迷惑だ

 ワンボックスカーの横から欠伸をしながらフェンリル狼が出て来た。

「しかし、あなたの仕事を半分奪って、私はここに居るのよ?」

 フェンリル狼に申し出たのは私。トイレ以外はここから梃子でも動かないと決めたのも私。

――その様で俺の助けになるか!早く行け女!

 威嚇にも似た唸りを上げるフェンリル狼。

「桐生さん!!」

 ソフィアさんに引かれる手を、素直に受けた。

「すぐ戻ってくるから!」

――解ったから行け

 フェンリル狼にも促される形で、私達は屋敷の中に急いだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「神崎さんの呪い…屋敷に蜷局巻く分身…これだけの筈だよね…」

 神崎さんから湧いて出てくる黒い蛇は、昼は私、夜は九尾狐で滅ぼしている。

 しかし、何か他の力が現れたような気がしてならない。

 私は意味も無くそわそわしていた。

――気になるか?

 九尾狐が食事を取りながら話し掛けてくる。

「そりゃあ、ね。あなたは何か解っているようだけど?」

――気になるならば調べるが良い。尚美は妾が守る故、貴様は貴様で勝手にするがよい。何度言ったと思うておるのだ?

 九尾狐は事ある毎に私を必要としないと発言をしていた。

 九尾狐に任せるのは容易いし、それを本人も望んでいるのも確か。

 だが、私も意地がある。

 1人より2人。神崎さんを、屋敷のみんなを守る為には、ここは曲げられない。

「生憎だけど、私も守りたいと言う気持ちがあるのよ。ここを離れる事は…」

「きゃあああああああああああ!!!」

 言葉を続けようとしたその時!屋敷のどこかから、絶叫が聞こえてきた!!

「今のは有馬さん!?」

 駆け出そうとした私だが、我に返り、踏み留まる。

――どうした?行かぬのか?

 九尾狐が挑発するように私を見ながら促す。

「……私の仕事は飛び火を滅する事なのよ…っ!!」

 今向かったら、仕事放棄と見なされても仕方ない。そうなれば、九尾狐は決して私と共に戦おうとはしないだろう。

 それは、屋敷のみんなの命を危険に晒すと同じ事になる。

 九尾狐の力は信じてはいるし、北嶋さんに言い付けられた、屋敷のみんなを守る事は、九尾狐は命を賭してやり遂げるだろうが、一匹では寝ずの番になってしまう。

 不眠不休で挑める程、神の呪いは甘くはない。

――女、妾は貴様の助けは必要としてはおらぬ。現に貴様が昼間に見張っている間、妾は休んではおらぬ。常に気を張り巡らせ、尚美の容態を見ておるのだ

 奥歯を噛み締める。

 そんな事…とっくに気が付いていた。

 九尾狐はやはり北嶋さんと神崎さんにしか心を開いていない事も。

――しかしながら…

 こちらを見ようともせず、九尾狐が話を続ける。

――妾が勇に頼まれた事は、屋敷の人間全てを守る事。だが、妾にも助けたくはない人間はいるのだ。しかしながら、勇との誓いを破る事は、妾にはできぬ

 九尾狐も葛藤があるように、軽い溜め息を付きながら進める。

――女、妾の代わりに助けてこい。妾が人間に頼み事をするのは滅多にない。妾の願いを叶えてくれたならば、妾も貴様の願いを叶えてやろう

 やはり私を見ようともせずに話した九尾狐だが、背に腹は変えられぬ、と、言って首を襖に振る。

「本当に一つ頼みを聞いてくれるのね?」

 対する私は、九尾狐から決して目を反らさずに問い返す。

――無論。誰かを殺したくば、妾が代わりに殺してやろう。金が欲しくば、妾がどこからか盗んでこよう。そして、妾と共に尚美に付き添いたいならば、それを許そう

九尾狐は神崎さんの傍に近寄って座る。早く行けと、此処は任せろと言っている様に。

「…ありがとう九尾狐!!」

 私は九尾狐に笑顔を向け、部屋を出た。


 絶叫した有馬さんの周りには、水谷先生のお弟子さんや、お葬式に出席する泊まりのお客様が群がっていた。

「木村さん!有馬さんの代わりに葬儀の準備を!」

 人集りを掻き分けて有馬さんの元に辿り着いた私の目に見えたのは、気絶している有馬さんを抱きかかえながら、お弟子さんに指示を出す義父の姿。

「嬢ちゃん!早くこっちへ!」

 松尾先生が、呆然と立ち竦む女の子の肩を抱きながら場を離れようとしている。

 あの人は確か千堂 結奈とか。

 北嶋さんを侮辱し、九尾狐に殺されそうになった女の人だ。私も十拳剣を突き付けちゃったけど。

 不意に九尾狐の言葉を思い出した。

 自分にも助けたくない人間がいる……

 まさか!?

 慌てて女の人を目で追い、霊視した。

 女の人の右腕から、微かに出ている冥い気…神崎さんから出ている神の呪いの冥い気と同種!!

 勿論、神崎さんのそれとは比較にならない程小さいが、人一人ならば簡単に殺せる呪い!!

「あなたが!!」

 呼び止めようとした私だが、女の人は松尾先生に引っ張られる形で場を離れた。

「お義父さん!一体何故!?」

 気を失ってしまった有馬さんを抱えながら義父は首を横に振る。

「解らない…有馬さんの叫び声で駆け付けたら、あの子の右腕が…」

 神崎さんと同種の呪いなのは間違いないが、何故あの人の身に降りかかったのだろうか?

 本体も分身も、私達がしっかり見張りをしていたから、漏れる事は無い筈…

 他から現れた呪い?

 じゃあどこから?

 そしてあの人で終わり?それとも、まだ続く?

 凄く嫌な予感がして胸がざわめく………

「ちょっとすみません!!」

 少し散った人集りだが、それでも掻き分けなければ有馬さんの元には近寄れない。

 桐生さんとソフィアさんは、やはり掻き分けながら有馬さんの元に辿り着いた。

「梓っ!!」

 真っ青になって有馬さんを揺さぶる桐生さん。

「大丈夫、気を失っているだけだよ」

 義父の言葉を余所に、尚も揺さぶる桐生さん。

「梓っ!!一体何を視たのっ!?」

「視た?」

 桐生さんは義父の方を向き、頷く。

「梓はお師匠の傍で仕事をしている内に、能力が霊視や霊夢に特化していったんです!!」


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 梓がお師匠の傍らで秘書みたいな役割をし出した頃から、ちょっとした切っ掛けを得ると、霊視や霊夢を視るようになった。

「おかげで本当の冥獣の顎を覚えたけどね」

 軽く微笑んでいたが、実際は結構参っていた。

 視たい時に視るのでは無く、日常で視えるようになってしまったのだから。

 しかし私達は仮にも水谷一門。

 それも大分慣れたらしい。

「視たい物は視えないんだよね~」

 慣れ出した梓は、より能力を鍛えるべく、何でも視た。

 かなりの確率で当たるようになった霊夢、不吉のみ直ぐに感知できるようになった霊視。それ程まで高まった能力でも、視えない物があった。

「何を視たいのよ?」

 梓が視えない物に興味を抱いた私は、好奇心丸出しにして身を乗り出して訊ねた。

 軽く微笑みながら、梓が言う。

「北嶋さんの心の中よ」

 ドキッとした。それは私も視たい物だから。

「北嶋さんは何でも規格外だからね」

 だけど、視えないのも、妙に納得してしまう。相手が北嶋さんだから。

「何か悔しいよね~」

 そこは間違いなく、梓は本心で笑った。

 梓は北嶋さんの心の中を視る事はできなかったが、霊視、霊夢に特化している事は変わりは無い。

 私は必死で梓を揺り起こす。

「梓っ!寝ている暇なんて無いのよ!私達は絶対負けられないのよ!負けたらお師匠が浮かばれない!北嶋さんが帰ってくるまで、耐えればいい!それだけでいい!!!」

 誰か1人でも死んだら、私達の敗北。北嶋さんにも、お師匠にも顔向けができない。

「桐生さん、少し落ち着いて」

 ソフィアさんが私の肩に、そっと手を添える。

 我に返って揺り起こす腕を緩める。

「すみません…少し焦っていたようです…」

 顔が赤くなって火照っている。興奮した事と、恥ずかしさからだ。

「あの、千堂…さんの右腕が」

 宝条さんが先程見た事を話した。

「結奈が…」

「ほぼ間違い無く……」

 宝条さんが神妙な表情で続ける。

「あれは神崎さんの呪いと同種…このままなら…」

 死ぬ。このままなら死ぬ。

「解っています」

 最後まで言わせずに、強く頷きながら、私は立ち上がった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「北嶋さん!!」

 帰って来た北嶋さんに、私は切羽詰まったように駆け寄る。

「北嶋さん………」

 結奈が、結奈が…

 説明したくとも、うまく言葉が出てこない。

 情けないやら悲しいやらで涙が出てきた。

 そんな私に北嶋さんは一言…

「誰も死なないから」

 それは全く気休めでも無い言葉。

 軽い。いつもの北嶋さんの軽い言葉。

 涙が止まらない。今度は安心感からの涙で。

 その一言が私の不安を全て掻き消した。

「北嶋さん…!!」

 抱き付こうとして飛び込む。


「は……」

 そこで目が覚めた。

 私は私の部屋のお布団で寝かされていた。

 私の顔を覗き込む、生乃、宝条さん、ソフィアさん、石橋先生…

「有馬さん、大丈夫ですか?」

 宝条さんが心配そうな顔を私に向けて話しかける。

 私は黙って頷いた。

「叫んだと思ったら、急に気を失ってね」

 石橋先生の安堵した表情。

「…ご心配をおかけしました…」

 頷いたついでのようだが、そのまま頭を下げた。

「結奈は?」

 生乃が真っ直ぐに私を見る。俯いたまま、答える。

「尚美に掛かった呪い。微弱だけど、同じ呪いが…」

 生乃が私の肩を掴む。

「そんなの、もう知っているよ!あと何日で結奈は死ぬの!?」

 慌ててソフィアさんが生乃をたしなめる。

「桐生さん、まだ死ぬと決まった訳じゃ…その言い方は…」

「勿論死なせません!!だから現実を知らなきゃいけない!!」

 手の打ち方が変わる、と言いたいのだろう。ソフィアさんも察して黙ってしまう。

「……あと3日…くらいかな……」

 それを聞いた生乃は、あからさまに安心して力を抜いた。

「良かった…北嶋さんが戻るまでは何とかなりそうみたいね…」

 生乃の北嶋さんへの信頼は見事だ。いや、それは恐らくは皆同じだろう。緊張が緩んだのが解ったからだ。

 だけど、私がさっき見た夢は霊夢なのか、ただの夢なのか…

 北嶋さん絡みの夢だから、私には自信が無い。

 だから私は見た夢の事は敢えて話さないようにした。

 この緩んだ空気を壊す必要もないだろう。

 ついでのようだが、そのままの姿で霊視をした。

「…摘んだ指…咬まれた跡…咬まれたから呪いに掛かったのね…何て事!!」

 あまりにも愚かな行為を霊視で視た私は、驚いて霊視をストップさせた。

「な、何ですか一体?」

 宝条さんが身を乗り出して聞いてくる。

 周りを見ると、皆私の視た事が知りたい様子。まさに固唾を飲んで続きを待っている状態だ。

「結奈は呪いの本体…尚美に憑いたナーガのミイラを摘んだんです。親指と人差し指で…その時、蛇は結奈の人差し指を咬みました。その傷口から、微かに残っていた呪いが結奈に入り込んだ。その前に魅入られていたようですが…」

 霊視して初めて知った事だが、屋敷の地下に封印されてあったナーガの箱。それを蹴って壊した。その時にも咬まれたようだが、尚美に呪いが降り掛かってしまったおかげで無事だった。

「ミイラ?何故そんな物が?」

 ソフィアさんの疑問に相槌を打つように続ける。

「ナーガが入っていた黄金の箱をお金に変えようとして、くすねた。箱は難しい造りになっていて、なかなか蓋が開けられなかったけど、偶然開いたみたいですね」

 お金に変えようとして、のくだりから、皆が溜め息をついたのが解った。

 だが、これも愚かな行為だが、これ以上の馬鹿な行為を結奈はしたのだ。

 私は躊躇いながらも、話を続ける。

「結奈は、ナーガのミイラをトイレに流してしまいました…気持ち悪いから…」

 皆の顔色が変わる。

「トイレに流した!?それってヤバいんじゃない!?」

 生乃の言葉は皆の言葉を代弁したようなもの。全員青ざめているのが解る。

 死んで干物と化した今でも、咬みついて呪いを注入するような相手だ。

「下水道を通って広がるんじゃ……」

 考えたくもないが、ソフィアさんの言う通りだ。その可能性は充分にある。

 伝染病の如く瞬く間に広がり、収拾が付かなくなるような、そんな気がする。

「あの人に憑いたのは、残り少ない力を振り絞って憑いたと言う感じですが…」

 宝条さんの言う通り、ナーガの力があれで終わりならば問題は無い。

 いや、あるだろうが、北嶋さんが戻るまでなら、何とか踏ん張れる筈。

 だけど、蛇の執念そのままを具現化しているような奴だ。

「私にも解りません…引き続き、霊視して追ってはみますが…」

 皆が押し黙り、顔を伏せる。

 予測不能なナーガの脅威に、何とか心を折らずに踏ん張っていた。

 そして誰も口に出していないが、こう思っていた。

 北嶋さんとて、無限に近い程、広がった呪いを滅する事はできない。と……


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「やはり駄目か…」

 右腕に昇っているナーガを何とか引っ張り出そうと試みたワシじゃが、奴は全く微動だにしなかった。

 いや、そればかりか、右腕ばかりじゃなく、段々と身体中に浸蝕しようとしておる。

「ま、松尾先生…いっったい!!」

 先程は肩の付け根付近を押さえていた残りの左手が、今は首に近い箇所を押さえているのが何よりの証拠。

「何とかしたいが、浸蝕を食い止めるのが精一杯じゃあ」

 ワシの霊力を直接当てて、浸蝕スピードを遅めるのが限界。何と歯痒い事じゃ。

「早く!!早く何とかしてえぇぇぇ!!きゃああああ!!いたあああああいっっっ!!」

 奥歯を噛み締め、うっすらと涙を浮かべながら泊まっておる部屋を所狭しと転げ回る。

「金剛!!」

 ワシの背中の金剛が転げ回る嬢ちゃんを押さえ付ける。

「ぎぎぐぐぐぐぐぎぐ……!!!」

 痛みを堪えるのが精一杯の様子。

「せめて痛みが無いならばのう…」

 ワシには押さえ付けて、いらぬ怪我を負わせないようにする事しかできぬ。

 己の力の無さが恨めしい…

――煩い!!黙らせろ!!

 ワシの頭の中に怒鳴り込んできた九尾狐。苛立っているのが解る。

「そう言うな。嬢ちゃんも必死に堪えておるんじゃ」

――ふん、自業自得の馬鹿者が!!そのまま死んでしまえば良いのだ!!

「…九尾狐、お主、何か知っておるのか?」

――知らぬのかジジィ?ならば教えてやろう!その女の愚行をな!

 九尾狐が原因を話す。それは驚きの事実で、ワシも見捨てようか一瞬悩んでしまった程じゃ。

 ワシは嬢ちゃんをゆっくりと見る。

「嬢ちゃん、そりゃあ…嬢ちゃんが悪いわぁ…」

 嬢ちゃんは聞いているのかいないのか、顔を伏せながら痛みに堪えて脂汗を流している。

「呪いに掛かるも必然か…流したナーガが、どんな悪影響を及ぼすか解らんなぁ…」

 ワシの関心は嬢ちゃんからトイレに流されたナーガのミイラに移った。

 嬢ちゃんは可哀想じゃが、それよりも関係の無い人間が脅威に晒される事の方が問題じゃ。

――その女を呪いから解放する手はあるぞジジィ

 九尾狐の思いも寄らぬ言葉に、ワシの関心は再び嬢ちゃんに移った。

「ほう、お主がこの嬢ちゃんの命を助けようとはなぁ」

――屋敷の人間誰一人とて死なせはせんと誓ったのでな

 北嶋 勇との約束か。しかし、まことに天晴れな忠義じゃ。本当に国を滅ぼした大妖か?と思う程に。

 しかし、嬢ちゃんが呪いから解き放たれる事は有り難い。

「では教えてくれるか?」

――簡単な事よ。その女の右腕を斬り捨てれば良い

 言葉が出て来なかった。

 ゆっくりと嬢ちゃんに目を向ける。

 嬢ちゃんはワシの方に目を向いていた。九尾狐との会話を『聴いて』おったのだろう。

 やがて嬢ちゃんは歯をガチガチと震わせながら、ワシに懇願するように声を出す。

「ま、松尾先生…」

 ワシはジッと右腕を見て、目を逸らせた。

「それしか方法は無いかのぅ?」

――幸いに浸蝕は右腕のみ。浸蝕された部分を斬り落とせば問題は無くなるだろう

「命に届く前に…か」

 今ならばまだ…

「嫌あああ!!!」

 嬢ちゃんが暴れ出す。金剛に押さえ付けられて無くば、部屋の物を滅茶苦茶にする勢いで。

――それが嫌ならば、勇が戻るまでジジィ、貴様が押さえ付けておる事だ。騒がしくするならば、妾が問答無用で浸蝕された部分を咬み千切ってやるわ。妾が誓ったのは屋敷の人間の命。怪我をさせるなとは言われておらぬ故

 九尾狐は本気の様子。一番助けたい嬢ちゃんにどんな影響があるか解らぬ故、騒ぐなと言っておるようじゃ。

「嬢ちゃん、北嶋のガキが戻るまで、耐え切れるか?」

 嬢ちゃんは何度も何度も頷く。九尾狐の本気を感じ取ったのじゃろう。

――ならばジジィ、貴様が責任を持って女を押さえておけ。その女が騒いだおかげで、もしも尚美に何らかの影響が出た場合は、妾の牙は何の躊躇いもなくその女を襲う事になろう

「解った。嬢ちゃんもいいな?」

 嬢ちゃんは再び何度も頷く。

――腕を取ったら楽になるものを。あれもこれも惜しいか。ふん

 意味有り気に一言発した九尾狐は、それからワシに話し掛ける事は無くなった。


 ワシは石橋らを、嬢ちゃんの部屋に呼び出した。

 気を失って倒れた嬢ちゃんも現れた。

「もう大丈夫か?」

「はい。お騒がせしました」

 弱々しく頭を下げる嬢ちゃん。

 そして皆、金剛に押さえ付けられている嬢ちゃんを遠巻きに見ている。

「取り敢えず北嶋のガキが約束の時間までに戻る事ができるならば、それまでは大丈夫のようじゃ」

「はい。有馬さんもそのように言っていました」

 石橋の言葉に皆が頷く。

 ここに居る連中は皆、北嶋のガキは絶対に間に合うと信じておる。

 嬢ちゃんが余計な事をせん限りは、命に問題は無いとの見解で一致した。

 そして問題、と言うかまだ問題にはなっておらぬが、トイレに流されたナーガのミイラ。

「あれは今後どうなるか、全く予測出来ません」

 有馬と言った嬢ちゃんの言葉に同意して頷いた。

 そして、回収しようにも、もう処理場へ流れている筈。

 ミイラに力が残っておらぬならば心配は無いが…

「私が霊視で追います。結奈の事、お願いします」

 有馬の嬢ちゃんの申し出に頷いて応える。そして石橋にも振る。

「九尾狐とも約束をしたからのう。石橋よ、お主にも手伝ってもらうぞ」

「勿論です」

 こうして、右腕を侵された嬢ちゃんの面倒はワシと石橋が見る事になった。

 不安しか無いが、やるしかない。

 これ以上君代ちゃんに、いや、あの時の仲間に無様は晒せない…


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 何て事…この私が知らない間に呪いに掛かってしまうなんて…

 人差し指を咬んだのは、あの干からびた蛇だったなんて…

『欲は全ての見る目を曇らす』

 私が金の箱をお金にしようとしなければ…

『死してる者を冒涜するな』

 トイレになんか流さずに、ちゃんと埋めて供養したりすれば…

 私は右腕の激痛に悩まされる事も無く、鬼神に身体を押さえ付けられる事も無かったかもしれない。

 九尾狐に右腕を斬れと言われた時、松尾先生の見せた表情…それで命が助かるなら致し方ない。確実にそう言っていた。

 嫌だ!!

 私は目で懇願する。

 九尾狐も梓も、3日くらいならば私の命までは呪いが届かないと言った。

 ならば3日の間、呪いを解く術を探して下さい…

 右腕を失うのは嫌…命を失うのは嫌です…!!

 右腕に走る激痛に、奥歯を噛み締めて堪えながら心で訴える。

 その訴えが通ったのかどうかは解らない。

 解らないが、出た答えが、北嶋 勇に抜いて貰う。だった。

 北嶋 勇…

 何故彼がそれ程までに頼りにされているのか、何故彼に頼らなければならないのか…

 彼を一方的に敵視している私には理解はできない。

 できないが、彼が何とかしてくれるなら、私は彼が帰ってくるのを待つしか無い。

 鬼神に身体を拘束されながら、九尾狐の牙が私に襲い掛かって来る事の恐怖に耐えながら、呪いに徐々に蝕まれていく命に怯えながら、私は待つ。

 待つから…

「助けて下さい……」

 皆に聞こえないよう、か細い声で彼に願った。

 私を助けて下さい。

 私が流したナーガを何とかして下さい。

 最初会った時の無礼を、何度も何度も謝罪しますから助けて下さい…

 私に出来る事なら何でもしますから助けて下さい…

 私は心の中で何度も何度も彼に願った。

 涙を堪えながら、何度も何度も彼に願った……

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