憑きもの研究史

 憑きものの研究をふり返ってみると憑きもの研究は古くからあり、出雲や白耆地方ではどこよりも早く始まっている。

 山根与右衛門源祐時『出雲国内人狐物語』(天明六年丙子十一月朔日)は専門書の先駆であるといわれ、ついで陶山簸南の『人狐弁惑談』(文政元年九年)があり、実証性を比べると後書の方が前書よりも上回っている。


 明治時代に入ると、文明開化によって憑きもの研究も社会の問題として考えられるようになる。

 加藤祐一氏の『文明開化』、檜山守正氏『旧習一新』、井上円了氏の『妖怪学研究』などに至り、学的体系を形成することになる。


 明治半ばに入ると近代医学の考えで研究されるようになった。これは精神医学的研究で明治35年に公刊された門脇真枝氏の『狐憑病新論』が草分けになっている。


 大正に入ると森田正馬氏の『迷信と妄想』(実業の日本社)として集成され、森田氏は憑きものを一般的な内因性精神病との区別をした。

 その他にも昼田源四郎氏による『疫病と狐憑き』(みすず書房、昭和60年)が挙げられる。

 これは「近世庶民の医療事情」と副題があり福島県郡山市歴史資料館に保存する、陸奥守山領の『御用留帳』(元禄16-慶応3)の中から疫病・乱心狐憑き・治療・養育に関する事項を分析し解説している。


 しかし、これら精神医学的研究は医師の立場でなされた物であり、史学者の史的研究には見られないものがある。

 また、憑きものの研究には心理学的研究もある。早い時期では昭和27年野村暢清氏が行っている。

 憑きものは憑くモノとして主に動物が挙げられるため動物学的研究もなされるべきであるが、これを行う研究者(特に動物学者)は少なくない。

 その中、岩田正俊氏の『人狐』はほとんど動物学者の研究書として唯一のものと思われている。

 憑きものの研究はその他にも様々な学問に力を借りなければ解決しない。

 特に民俗学的研究がこの問題の解決の糸口になる。


 日本の民俗学は柳田国男(1875-1962)によって発展させられ、表立つ事になる。

 憑きものの民俗学的研究もやはり柳田氏により始められ、「巫女考」や「毛坊主考」が端緒である。

 柳田氏は憑きものは“古代信仰が崩れたもの”であって、初めは普通であった信仰が次の時代には捨てられて行者により変えられたものであると考えた。

 柳田氏が民族伝承をもとに研究するのに対し喜田貞吉氏は別の視点から研究を行っている。

 喜田氏の主宰する『民族と歴史』のグループがそうである。


 氏らによって出版された「憑物研究号」は大正という時代において、東北以外の全国のほとんどの地域から報告を集め、それを満載している点で貴重である。

 戦後の民俗学的研究は堀一郎氏がいち早く動き出した。

 戦後の日本では新興宗教の乱立、祈禱師の横行が目立ち、敗戦に伴う人々の心の不安が高まっていた。

 復員や引き上げに伴い結婚が急増するとそれに伴いいわゆる家筋の問題が目立つようになり、これは社会問題へとなった。

 今までも家筋について問題はあったが戦時中はとやかく言われても反撃に出ることは少なかったが戦後、人権擁護委員会へと訴えるみにが現れた。

 すると新聞等は様々なことを書き立て、地方によって格差はあるものの出雲・土佐では社会問題となった。

 文部省は迷信打破のために迷信調査委員会を構成、迷信の調査に乗り出した。


 堀氏は委員会の承認と後援を受け、憑きものに関する調査要項を作り、昭和24年10月の『民間伝承』に発表した。

 この中には初めて憑きもの筋の存在量が書かれている。


 また、石塚尊俊氏は憑きもの筋の残存量の研究を行い、日本列島を大きく三様に区分した。

 一つは憑きものという俗信はあってもそれによる家筋という思考はない。これは主に近畿地方に見られる。

 対して東北や南九州などのかつての文化の中心地より遠い地方では、憑きものを使役する家がある。

 しかしその数はごく少数で、その多くは祈禱師であり、職業からして他の家と異なる。自他共に認め合っているために問題は少なく社会的弊害も少ない。

 しかし、この両者の中間地帯である西日本の中国・四国・東九州の一部、東日本の中部地方の一部から北関東の一部にかけての地方になると状況は一変する。

 中でも出雲・豊後の一部では村の過半数が憑きもの持ちだというところも出てくる。

 こういう家の特色があるかと言えばあまりなく、職業や宗旨が他と違うわけでもない。

 伝承の通りの傾向は見られず、憑きもの持ちは通常、金持ちだと言われているが実際には貧富の格差はさまざまである。

 しかし、ひとたび村で妙なそぶりをする者が出ると、すぐに憑きもの筋の家と結びつけてしまう。

 そのために憑きもの筋の家では結婚をはじめ日常生活の一部で影響を受けていた。

 石塚氏は現状の正確な把握と分析を行い、昭和23年「憑きもの問題」(『島根民俗通信』四号)、翌24年「狐憑研究覚書」(『出雲民俗』八号) を発表した。


 憑きもの筋の研究には社会経済史研究もある。

 速水保孝氏の研究『憑きもの持ち迷信の歴史的考察』(柏林書房)はこれにあたる。

 速水氏は文献資料、実地調査につとめ憑きもの筋が大きくいって江戸中期の以後のもので自然経済から貨幣経済への移行時期におきたものだとしている。


 社会人類学的研究での憑きものの研究は吉田禎吾氏が石塚氏に『日本の憑きもの』に出ている村名を照会して、フィールドワークを行い『日本の憑きもの ---社会人類学的考察』(中央公論社)を出版した。

 これは世界的視野に立って日本の憑きものを検討したものである。


 このようにたくさんの研究がなされてきた訳だが、民俗学的には研究が進んでいるものの、その時代背景と結びつけて考える歴史的憑きもの研究は少なく、近年においては憑きもの研究においてあまり新しい発展をしなくなり、憑きもの筋が発生する原因についても推測の域を越えないのが現状である。

 そして主に憑きものの研究は憑きもの筋地帯が多い西日本を中心に行われており、憑きもの筋のあまりみられない東日本(特に東北)においては極めて少ない。

 それは東日本を研究する者がいなかったからではなく、古来日本の文化や政治、歴史の中心地が西日本にあったからでると思われる。



参考文献


石塚尊俊

『日本の憑きもの』未来社 1959

「憑きものと社会」『講座日本の民俗宗教』4 弘文堂 1976

「憑きもの 解説」『憑きもの』日本民俗文化資料集成 7 三一書房 1990

吉田禎吾

『日本の憑きもの 社会人類学的考察』中央公論社 1971

小松和彦

「憑きもの」『講座日本の民俗』7 有精堂出版 1979

速水保孝

『憑きもの持ち迷信の歴史的考察』柏林書房 1953 (旧版)

『憑きもの持ち迷信その歴史的考察』明石書店 1999(改訂版)

宮本袈裟雄

「憑きもの信仰」『日本民俗学講座』3 朝倉書店 1976

三春町

『三春町史』第二巻 近世(通史編2)1984

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