第9話

「陽菜先輩、長谷川先輩が先輩のマンションに引っ越したって本当ですか?」

 その言葉に陽菜は直前に飲んだお茶を吹き出した。数回咳き込み、その声の主を半眼で見上げる。

 芽依は食後のデザートであるプリンを食べながら、可愛らしく小首をかしげていた。


 二人が昼食を食べているのは社内にあるカフェテリアだ。そこは温かみのある木目調の床に白い壁の清潔感溢れる空間だった。広いスペースに大きな窓がいくつも立ち並ぶ開放的な造りに、お洒落な音楽が背景に流れる。多くの社員が利用する為か、席も余裕があるように設置されており、広い机の方では企画部が会議を兼ねた昼食をとっている。

 幸いなことに陽菜たちの周りに座っている人はいない。先ほどの芽依の言葉もこれからの会話も聞かれる事は無いだろう。

 そうわかっているのに、陽菜は少しだけ声を潜めて芽依に話しかけた。

「誰からその話聞いたの……?」

 長谷川が引っ越してきて一週間と少ししか経ってない。バレるにしてもあまりにも早すぎではないだろうか。長谷川が自ら言いふらすことは無いだろうから、マンションに帰る後姿を誰かに見られたか……。陽菜はそんな予想をしながら情報源を聞く。すると、芽依は「総務部の仲良しさんに教えてもらいました」と語尾にハートマークを付けて返してきた。

 情報の出所が総務部と聞いて、陽菜は何となく状況を理解した。住所の変更などを届け出た書類をみた総務部の誰かが、長谷川が引っ越したマンションが陽菜のマンションと同じと気付いたのだろう。そしてそれを芽依に伝えた……。

 人当たりも愛想もいい彼女は、どうやら社内の至る所に情報源を潜ませているらしい。

 後輩の情報収集能力に若干恐れを抱きながらも、陽菜は平常心を装い食事を進める。

「で、本当なんですか?」

 身を乗り出しながら興味津々で聞いてくる彼女とは反対に陽菜はちょっと距離を取った。

「いや、まぁ、本当だけど……」

「あ、やっぱりそうなんですね! で、どこの部屋なんですか? 陽菜先輩知ってますか?」

「……それは……」

 まさか隣だと言える筈もなく、陽菜はもごもごと口を動かす。正直、何と言えば正解なのかわからない。

 部屋が隣だということは勿論秘密にしておきたいが、ここで『知らない』と返して後々バレる方がリスクが大きい気がする。

「……それは本人に直接聞いたら?」

 なんとかそう絞り出すと、芽依も「そうですね!」と明るく同意してくれた。

 陽菜はその答えに安堵の息をつく。どうやら一難去ったようだと食事を再開したのも束の間、彼女がまた大きな爆弾を陽菜に落とす。

「私の予想だと、長谷川先輩って陽菜先輩のこと好きだと思うんですけど、先輩はどうだと思いますか?」

 その言葉に陽菜は盛大に咽た。飲み込もうとしていたパスタを喉に詰まらせ、それを流し込もうと飲んだ水を気管に通してしまいそうになる。

 何度も咳き込み涙目になった陽菜の背中を撫でながら、芽依は心配そうなそれでいて探るような声を陽菜にかけてきた。

「その反応……もしかして、もう告白とかされちゃったり? あ、それは無いかなー。甘い雰囲気とか二人に流れてませんもんね」

「な、なんでそう思ったのよ……」

 少しだけ赤くなった頬を隠すように、声を低くしてそう問えば、芽依は満面の笑みで陽菜にスプーンを向けてきた。

「だってそう思ったら、長谷川先輩の射殺すような視線とか、毎日の昼休憩前の会話とか説明つくじゃないですかー! それに、長谷川先輩って前々から陽菜先輩贔屓ですよね?」

「え、どこが……?」

 陽菜にとって長谷川はめんどくさくて嫌な仕事ばかりを回してくる同僚だった。しかも営業補助全体に回してくるものではなくて、指名付きで回してくる徹底ぶりだったので、むしろ告白を受ける前は嫌われているのだと思っていたぐらいだ。

 告白を受けた日だって、長谷川の仕事に使う資料造りを彼監修で作っていたのだ。

「だって、長谷川先輩が陽菜先輩を指名するのって、他の人に任せるのが不安だから先輩に任せてるんですよー? 陽菜先輩の仕事が一番正確で、頼りになるって!」

「どこ情報よそれ……」

「部長です! この前二人で飲みに行ったときに教えてもらったんですよねー。部長も長谷川先輩が陽菜先輩ばっかり指名するのが気になってたみたいでー」

 舌ったらずの甘い声でそんな恐ろしい情報源を暴露する。部長と二人で飲みに行ったという事実も驚きなのだが、その部長が既婚者で結構大きな子供がいる事実が一番恐ろしかった。望んでもいないのに他人の爆弾を一緒に持たされている気分である。

 そんな陽菜の憂いを払拭するように、芽依は両手を振って声をあげた。

「あ、違いますよ? 部長とは何もないですよ! むしろ部長より、部長の奥さんとの方が仲良くて! あの日だって、その後すぐ奥さんとも合流したんですよー」

 芽依が言うには、たまたま部長の奥さんと通ってるジムが一緒だったらしい。彼女の友達の輪を辿っていったら、いつか総理大臣にまでぶち当たりそうな人脈の広さである。

「そんな事より、どうなんですか? 長谷川先輩からアプローチとかないんですか?」

「あるわけないでしょ。長谷川さんが私を指名するのだって仕事で使えるからでしょ? そこに恋愛感情はないわよ」

「でもぉー……」

 納得がいかないのか、芽依は不満げな声を出す。そんな時、とてもタイミングよく陽菜の携帯電話が鳴り響いた。

 これ以上追及されたく無かった陽菜は、まさに天の助けと相手を確かめることなく電話をとる。そして、電話口の声を聞いて心底後悔した。

『陽菜さん、今大丈夫ですか?』

「…………」

 電話口の長谷川の声を聞いた瞬間、陽菜は黙って電話を切る。目の前では芽依が不思議そうな顔で陽菜を見ていた。

 そして、また鳴り響く携帯電話。陽菜は溜息を付きながら立ち上がり、芽依に目配せをして距離を取った。こんな時に長谷川から電話がかかってきたなんて知られれば、芽依に追及されることは目にみえている。

 陽菜は億劫な気持ちを出来るだけ声に乗せて電話を取った。

「はい」

『……さっきはなんで切ったんですか?』

「いや、というか、なんで携帯の番号知ってるんですか?」

 長谷川の不機嫌な声に負けじと陽菜も不機嫌な声を出す。

『この番号は同僚から聞きました。それより、今いいですか?』

「なんですか? まだ昼食食べ終えてないので早めにお願いしますね」

『はい。では、手短に……。陽菜さん、デートしましょう』

「……はい?」

 思わず聞き返した陽菜に長谷川は「耳まで遠くなったんですか?」と嫌味を一つ零す。そしてそのまま言葉を重ねた。

『君と同じマンションに引っ越したにもかかわらず、君との仲が全く発展しないことを憂いた末の提案です。どうですか?』

「『どうですか?』と言われても……。デートって……」

 確かに、長谷川が引っ越してきた休日以来、二人の仲で目立った変化はない。

 陽菜がそれを望んでないのだから当然といえば当然なのかもしれないが、長谷川はどうやらそれが不服のようだ。

『俺が完璧なデートを……』

「あ、いいです。そういうの」

 完膚なきままに即断する。電話口で長谷川が狼狽えたような声を出した。陽菜はその気配に小さく笑う。

 長谷川はなんの進展もないと言っていたが、実はそうでもない。少なくとも陽菜は前のように長谷川がウザったくて仕方ないということはなくなったのだ。

 こうやって電話を切らずに話し込んでもいいと思えるぐらいには、距離が近づいている。

 まぁ、だからと言って恋愛関係になってもいいと思えるほどではないのだが……

『じゃぁ、君はどういうところに行きたいんですか? 文句ばかり言ってないで少しは案を言ったらどうなんですか?』

「いやいや、私誘われてる立場だし、そもそもまだ行くって言ってませんけど……」

『じゃぁ、いかないんですか?』

「休日は家でごろごろしたい派なんですー」

『…………』

 急降下した長谷川の気配に頬を掻く。別に傷つけたいわけではないのだが、雰囲気に流されるがままキスして以来、彼との距離を取りかねているのだ。心の距離は少し近づいた気がするのだが、物理的な距離を縮めるのは躊躇してしまう。

 つまり、二人っきりになるのが少し怖いのだ。それも長谷川が何かするのではないかというのが怖いのではなく、何かされた場合に流されてしまう自分が怖いのだ。

 陽菜がどうしようかと考えていると、すぐ後ろで人の気配がした。その瞬間、手からするりと携帯電話が奪われる。

 その携帯電話を取ったのは芽依だった。

「長谷川先輩ですかー? すみません、話盗み聞きしてましたー! デートですか? しましょう、しましょう! ダブルデート!」

「は?」

 多分、電話口で長谷川も同じような声を出したのだろう。芽依は可愛らしい声で、それでも反論は許さないというように早口でまくし立てる。

「陽菜先輩も二人っきりは緊張すると思うんですよー。私、彼氏連れていきますから四人でデートしましょう! その方が絶対いいですって! 私が絶対に先輩連れていきますんで! あ、はい! はい! 了解しましたー! 詳しい連絡先、後で渡しますね! 先輩のも勿論!」

 止める間もなく連絡を取り付けていく芽依を見ながら、陽菜は開いた口が塞がらないでいた。

 来週の日曜日にダブルデートの予定を華麗に取り付けて、芽依が電話を切る。そして、陽菜に有無を言わせない笑顔で詰め寄った。

「先輩! もう大体予想ついちゃってますけど、長谷川先輩とのこと教えてくれますよね?」

「あ、いや……はい……」

 陽菜は目を逸らしながら一つ頷いた。

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