第8話
「嫌なら抵抗してくださいね」
その言葉を合図にちゅっと鼻先にキスが落とされた。陽菜の肩がびっくりして跳ね上がるのをよそに、長谷川は瞼にも同じように啄ばむ様なキスを落とす。
抵抗しようと思えばできるのに陽菜の身体は動かない。もう両手だって自由だし、押し戻そうと思えばそう出来るのに、陽菜の両手は長谷川の胸を緩く押すばかりだ。
「いいんですか?」
抵抗しない陽菜に長谷川はそう最後の確認をする。
「やっ! だ、だめっ!!」
陽菜は小さく首を振って、先程よりも少しだけ強い力で長谷川の胸を押す。もうどうしようもなく頭は熱くなっていて、心臓が体を突き破らんばかりに跳ね回っている。
長谷川は自分の膝で陽菜の足を割ると、ぐっと距離を縮めてくる。もう少しで唇同士が当たりそうなところまで顔を近づけると、内蔵に響くような低い声を響かせた。
「それならちゃんと抵抗してください」
「やっ……!」
発しようとした言葉を塞ぐように、長谷川の唇が陽菜のそれを塞ぐ。二、三度子供のようなキスをして、そこからまるで貪られるような深いキスに変わった。じゅっと唾液を吸われるような音に陽菜の目尻にじわりと涙が浮かぶ。
その様子に長谷川は少しだけ陽菜から距離を取った。そして、苦しそうな声を出す。
「泣くほど嫌ですか?」
「ちが……っ、は、恥ずかしくて!! 頭も混乱してるし、ちょっとまだうまく状況が整理できな……っ!」
「よかった」
「え?」
「その答えだと、俺に抱かれても良いという事ですよね?」
先程とは打ってかわって、長谷川は機嫌が良さそうに口の端を引き上げる。陽菜はその顔を見ながら自分が犯した失態に顔を青くした。
「や、そういうことじゃなくてっ!!」
「俺は、巡ってきたチャンスは最大限生かすべきだと思ってます」
「は、長谷川さんっ! ちょっと!」
「好きになるのは後からでも良いですよ。諦める気は無いので……」
そう言いながら、長谷川は部屋着の裾から手を差し入れる。ひんやりとした手の平が腹部に当たって、ゾワリと背筋が粟立った。
流されているという自覚はもちろんある。
抵抗しなくてはと思うのに、陽菜は何故か固まって動けなくなってしまっていた。
「好きですよ。陽菜さん」
囁かれた耳元があっという間に燃え上がる。そうしてもう一度唇が重なろうとする、その時だった。
突然しっとりとした雰囲気を壊すように、けたたましい電子音が部屋に鳴り響いた。
その音に陽菜ははっと我に返る。
「何ですか、この音……?」
長谷川の不機嫌な声を聞きながら、陽菜は音源を探そうと必死に首を左右に振る。
まるで空気を読まないその音は、陽菜が普段使っている無料通話アプリの呼び出し音に似ている気がした。しかし、携帯電話は昨日無くしてしまっているはずである。
「あっ!」
陽菜はソファーの下にあった音源に手を伸ばす。そうして手に取ったのは、やはり彼女の携帯電話だった。
「携帯電話、家に忘れてたんだ……」
「まったく……」
ため息のような呆れ声を聞きながら、陽菜は着信画面を見る。するとそこには『由美』と表示してあった。慌てて電話に出ると、怒ったような安堵したような声が耳朶を打つ。
『陽菜、心配したんだからね! 大丈夫? ちゃんと家には入れてる?』
「へ? あ、うん。大丈夫! どうしたの? いきなり……」
『『どうしたの?』じゃないわよ! あんた昨日、お店に家の鍵置き忘れたでしょ? 昨日電話したのに何故か繋がらなくなってるし、どうしようか本当に悩んだんだからね!!』
その由美の剣幕に陽菜はたじろぎながら礼を言う。とりあえず鍵は由美が預かっているそうだ。
陽菜が鍵を付け替えた事と、携帯電話を無くしたと思って利用停止していたことを伝えると、由美は呆れたように溜息をついた。
『あんた相変わらずおっちょこちょいね……。で、昨日はどこに泊まったの? まさか野宿でもしたの?』
「えっと……」
口ごもりながら陽菜は自分を見下ろす男を眺めた。そして、少しだけ顔色を悪くさせる。
「ごめん……その話はまた今度……」
陽菜は追及を逃れるために強制的に通話を終了させる。電話口で由美が何か言っていた気がしたが、聞こえないふりをした。
そして、再び目の前の現実と向き合う。長谷川は変わらず陽菜を見下ろしていた。
「では、続きをしましょうか?」
「しませんっ!!!!」
今度は渾身の力で陽菜は長谷川を押し返した。
◆◇◆
「さっきの人、女性でしたね……」
長谷川がそう言ったのは、玄関で靴を履いている時だった。隣なのだから適当に履けばいいのに、こんな時でもきっちりと長谷川は革靴の紐を結ぶ。
陽菜は玄関で座る長谷川をばつが悪そうに見下ろしていた。
「そうですけど、なにか?」
「昨日会ってたのは、先ほどの人ですか?」
その問いに陽菜は首を縦に振る。
「他に誰かと会ったりとかは……?」
「昨日ですか? 昨日は由美と飲んでただけですけど……」
「そうですか」
どこか安心したような声色に陽菜は首を傾げる。すると、靴を履き終わった長谷川は陽菜に向き合ってふっと顔を綻ばした。
「安心しました」
「え、何が?」
「君が昨日一緒に飲んでいた人が女性で。先ほどまで男性と一緒に飲んでいたと思っていたものですから……。更にその男が既婚者で、てっきり君が不倫をしているのだと……」
「フリン!?」
想定外の勘違いに陽菜はひっくり返ったような声を出す。長谷川は眼鏡の縁を上げながらふんと鼻を鳴らす。
「俺の勘違いでよかったです。まさか不倫をするような、リスクマネジメントのできない人を好きになったのかと思いました」
「……リスクマネジメント……」
この人は恋愛を何だと考えているのだろうかと、陽菜は心の中で大きくため息をついた。もしかしたら、彼の中で恋愛とは企業と企業の合併的なものなのかもしれない。そうすれば理想云々言ってる理由もなんとなくわかる気がする。しかし、もし本当にそう思ってるのならば、陽菜は長谷川と恋愛することは一生ないだろう。あまりにも考え方が違いすぎるからだ。
「あの……」
陽菜がその事を伝えようとした瞬間、不意に彼の耳が目に入った。その耳は茹で上がったように真っ赤に染まっている。
「耳、赤いですよ……?」
「――っ!」
狼狽えたように長谷川が少しだけ距離を取る。そして、踵を返して陽菜に背を向けた。陽菜はその背に思ったままの言葉をぶつける。
「もしかして、嫉妬……したりとかしました?」
「…………」
「長谷川さん?」
「……当たり前でしょう? 男性社員が話しかけるのも嫌だと言ったじゃないですか」
そう言った背中に陽菜は目を丸くする。先ほどまで余裕綽々だった彼とは別人のようだ。
もしかしたら、そうは見えないだけで彼だって緊張したりしているのかもしれない、そう思ったら少しだけ親近感が沸いた。
「では帰ります」
「はい」
陽菜は玄関を出ていく長谷川の背を見送る。
玄関の扉が閉まる直前、長谷川が振り返った。その顔はいつもの仏頂面が張り付いている。
「いろいろ、ごちそうさまでした。……本当にいろいろ」
そう言って自分の唇を叩く長谷川に、陽菜は真っ赤な顔で勢いよく扉を閉めるのであった……
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