第6話

「長谷川さん、帰ってください!」

「嫌です」

 二人は陽菜の部屋の前で対峙していた。陽菜は扉を背に長谷川を睨みつける。一方の長谷川は腕を組んだままそんな彼女を冷たい目で見下ろしていた。それを後目に管理人が呼んだ鍵屋は手早く鍵を付け替えている。

「君は俺の部屋に入りました。だったら俺が君の部屋に入っても問題ないでしょう?」

「問題大ありです! 普通女性の部屋にズカズカ入ろうとします? 帰ってください! 女性の部屋には見られたくないものがたくさんあるんです!」

「あぁ、もしかして下着でも部屋に干してるんですか? 俺は別にかまいませんよ?」

「私が構うわっ!」

 そう吠えてから陽菜はじりじりと長谷川から距離をとる。その距離を容赦なく縮めながら長谷川はどことなく楽しそうな声を出した。

「じゃぁ、なんですか? 何を見せれないんですか?」

「み、見せれないものなんてないですっ! 大体、なんでそんなに私の部屋に入りたいんですかっ!」

 全く引く気配のない長谷川に、陽菜の額からは冷や汗が滲む。

「君がどんな生活をしてるのか気になったんです。別にはいるだけですよ。見せたくないものがないなら良いじゃないですか。別に」

「やだやだやだ! この部屋見られたら確実に死ねるっ!」

「人はそう簡単に死ねませんよ。別に君のように泊めてほしいと言ってるわけじゃないんだから良いじゃないですか」

 いつものようにさめた表情だが、長谷川は確実にこの状況を楽しんでいる。それが陽菜には何となくわかった。

「良くないです! それに私『泊めてほしい』なんて一言もっ!」

「でも、泊まりましたよね?」

「ぅ……」

 そう言われると弱いのだ。確かに泊まった。助かった。だからといってあんな汚部屋を長谷川には見せられない。

(無理無理無理! こんな部屋見られたらヤバいって! 確実に幻滅されるっ! 何とかして追い返さないとっ……)

 少し前に『長谷川を諦めさせるためなら、自分の部屋を晒しても構わない』と考えた同じ頭で、陽菜は今『どうやったら長谷川に自分の部屋を見られないか』を考える。

 そして、閃いたのがこんな案だった。

「し、下着! やっぱり下着があるんです!」

「先ほどとは言ってることが違いますね。どうせ嘘……」

「昨日っ!」

「は?」

「昨日一緒に飲んだ人の下着があるんです! よくうちに泊まりにくるからっ!」

「…………」

 長谷川の目から光が冷えた。しかし、必死な陽菜はそのことに気がつかない。

「ほら、結婚してるとやっぱり鬱憤がたまるみたいでっ! たまーに愚痴とか言いにっ! んで、大体そのまま泊まっちゃうんで。ホント新婚なのに何してるのーって感じですよねー……って、あれ?」

「……君は本当にデリカシーが足りないですね」

(んんん? また怒ってる? え、なんで?)

 長谷川から沸き上がる冷気に陽菜はぶるりと身震いをする。

「普通、そういうことを告白してきた男に言いますか? まぁ、それで諦めさせようとか思っているのかもしれませんが……」

「えっと……」

 その剣幕に思わずたじろいでいると、鍵屋の男が困ったように「終わりましたー……」と報告をしてきた。陽菜がその声に振り向くと長谷川が問答無用で扉に手をかけた。そのままするりと部屋に入る。

「別に俺は不倫男に怯んだりはしませんので、あしからず」

「え?」

 そして、長谷川はそのままズカズカと玄関を進む。陽菜はその後ろ姿を数秒眺めた後、まるで驚いた小動物のように飛び上がった。そして、新しい鍵を受け取ると礼もそこそこに長谷川を追いかけた。

「ちょっとまったぁああぁぁっ!」

「…………」

 長谷川は玄関をあがったところで陽菜の部屋を見ながら固まっていた。その隣で陽菜も天を仰ぐ。洗濯物はカーテンレールに所狭しとかかってるし、ソファの上にはこんもりと洗濯物の山。床には大量のマンガ雑誌が転がって、部屋の隅にはこんもりと埃が溜まっている。

 長谷川の部屋と比べたらあまりにも酷い惨状に、陽菜は顔を青くした。

「……は、長谷川さん……?」

 冷や汗をかきながら隣のから彼を見上げる。すると長谷川は青筋を立てながらきっちりと着込んでいるシャツの袖ボタンを外した。そしてそのまま腕まくりをする。

「掃除……」

「はい?」

「掃除しますよ! 何日掃除機かけてないんですか、君はっ!!」

「はいぃいぃ!!」

 そんな号令で陽菜の部屋の掃除は始まった。

「大体、物が多いっ! なんですかこのマンガ雑誌の山はっ!」

「なんで私怒られてるんですかー!? ここ私の部屋ですよね!?」

「うるさいっ! 手を動かしてくださいっ! こんな部屋に男性を連れ込んでるとか、正気の沙汰じゃないでしょう! 連れ込まれる男性も連れ込まれる男性ですがっ!」

「長谷川さんが勝手に入ったんじゃないですかっ!」

「俺の話はしてないっ!」

 ぴしゃりとそう言われて陽菜は小さく悲鳴を上げた。それもそうだろう、鉄仮面が声を上げて怒るところなんて初めて見たのだ。

(まぁ、人間なんだもん。怒ることも笑うこともあるか……)

 読まなくなったマンガ雑誌を縛りながら、陽菜は長谷川をちらりと見る。彼はぶつぶつ文句を言いながら、それでも真剣に陽菜の部屋を掃除していた。

 てっきり感情が無い人なのだと思っていた。誰が何を言っても冷静沈着で物怖じしない。嬉しいという感情も悲しいという感情も彼の前では等しくゼロなのだと、陽菜は今までそう思っていた。

(まぁ、普通に考えたらそんな人間はいないよね……)

 感情が表情に表れにくいからといって感情がない人間なんていないのだ。そのことに思い当たり、陽菜は掃除をしながら少しだけ笑ってしまっていた。


◆◇◆


 夕日が部屋に射し込むような時刻になって、ようやく陽菜の部屋は綺麗になった。ぴかぴかに掃除された部屋を眺めながら陽菜は達成感と満足感にほぉっと息をついた。その隣で長谷川はどこかぐったりとしている。

「なんかすみません、長谷川さん。助かりました」

「定期的に掃除をしていれば、あんなに汚くなることはないんですよ! これからは定期的に掃除をするように! 毎日は無理でも三日に一度は掃除機をかけてくださいね」

「えー」

「返事は『はい』しか受け付けてません。従わないようなら、また掃除にきますよ……」

「ははは……」

 乾いた笑いを零す。そして、そのまま陽菜はキッチンに立った。

「珈琲入れますからその辺座っててください。長谷川さんは砂糖一つですよね?」

「……よろしくお願いします」

 元の仏頂面に戻った長谷川はソファに腰掛ける。何となく居心地の悪そうな、奥歯に物が挟まったような形容しがたい雰囲気に陽菜は首を傾げながら珈琲を出した。

「どうかしたんですか?」

「いえ、俺の珈琲の好みを覚えてるんだな、と思いまして……」

「あぁ、前一緒に仕事したときに覚えちゃいました」

 営業の長谷川に対して、陽菜は会社でも営業補助という立場にある。営業が取ってきた仕事の資料を作ったり、店の予約をしたり、時には一緒にお客さんに会いに行ったりするのが彼女の役割だ。なので営業と営業補助はコンビを組んで仕事することも多い。陽菜は入社したての頃、何度か長谷川と組んで仕事をしたことがある。珈琲はその時に覚えたのだ。

「ありがとうございます」

 そういって長谷川はマグカップに入った珈琲を受け取る。陽菜は自分の珈琲を机置くと、そのまま長谷川の隣に腰掛けた。狭いソファなので二人の身体がぴったりとくっつく。その瞬間、長谷川の肩が跳ねた。

「君は……」

「へ? なにか?」

「いえ、何でもありません……」

 部屋には一つしかソファがない。だからそこに腰掛けるのは当然だと彼女は思っていたのだが、長谷川は隣に座った陽菜に何故か険しい表情を向ける。

 そんなときだった。マンション下の道路を軽トラックが『いしや~きいも~』と間延びした声を響かせながら通過した。もうそんな季節になったのかと思ったと同時に、陽菜の腹の虫がこれでもかと大きな音を鳴らした。それもそのはずだ。朝食はちゃんと食べたものの、昼食は抜いたまま部屋の掃除をしていたのだから……

 静かな部屋にぐーと間抜けな音が鳴る。

「くっ……」

 長谷川は口元に手を当てて明らかに笑いをこらえている。陽菜は羞恥で真っ赤になりながら、ぼそりと音を漏らした。

「……今日一緒にご飯食べます?」

 その言葉に長谷川は思わず咽せた。

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