第5話

 長谷川がシャワーから上がると時刻はもう十二時を回っていた。そのまま必要最低限の会話だけを済ませて二人は床につく。

 長谷川はベッドを譲ると言ったのだが、陽菜は流石にそれは心苦しいとソファを選んだ。二人掛けのソファだったが少し大きめに作ってあるらしく、少し丸まれば一晩寝るぐらいどうということもない。陽菜は貸して貰った毛布を鼻の頭まで被りながらベッドの上の長谷川を眺めた。

「それじゃぁ、寝ましょうか。明日の起床時刻は六時半、朝食は七時からの予定ですので」

「……明日、日曜ですよ? 早すぎませんか?」

「休日だからといって、たるんだ生活をするわけにはいきませんから。惰眠を貪りたいなら止めはしませんが、その場合は朝食抜きになりますから、その覚悟で」

「はーい」

 陽菜がそう返事をした後、長谷川は電気を消した。真っ暗になり、しんと静まりかえる室内。

 陽菜は借りたソファの上で寝返りを打ちながら、ちっともやってこない眠気に小さくため息を付いた。枕が変わると眠れないという質ではないのだが、どうにも落ち着かない。陽菜は枕代わりにしているクッションに顔を押しつけ、ぎゅっと目をつむる。しかし、何十分目を閉じていても状況が変わることはなく、むしろ頭も目も冴えわたる一方だ。

「寝れないんですか?」

 そんなとき、沈黙を破るように長谷川の声が部屋に響いた。

「はい。まぁ……」

「では、安眠に効果的なツボを教えましょう。耳の後ろにある……」

「あぁ、いいです、そういうの。長くなりそうなんで……」

 そうは言ったものの、全く眠れる気がしない。だからといって長いツボの話など聞きたくはないのだが……

「そうですか? ……では、話をしましょうか?」

「話?」

「この際ですから趣味や感性の擦り合わせを試みたいと思いまして……」

「感性の擦り合わせ……?」

「わかりやすく言い直すと君のことが知りたいんです。卯月陽菜さん」

 その言葉に陽菜は改めて長谷川の方を見る。彼は肘で身体を起こしながら、目線だけを彼女に向けていた。眼鏡越しではないその視線に、一瞬ドキリとする。

「別に良いですけど、まずそのフルネームで呼ぶの止めませんか? 何というか、……取っ付きにくいです」

「そうですか? それでは今後から『陽菜さん』と呼びますね」

「何で名前……」

「名字は変わる可能性があるでしょう?」

 結婚したら名字は変わるだろうと暗に言われて、陽菜はぶすっと顔をしかめた。

「……今のところその予定はありませんが……」

「それは良かったです。予定があったら困っていたところでした」

「…………」

 長谷川は感情を全く表さない声色で『陽菜に結婚の予定があったら困る』という。本当にそう思っているのなら、もう少し表情だって声色だって変わるもんじゃないのだろうか。そう思っていたからか、気が付いたら陽菜は先ほどよりも低い声を長谷川に向けていた。

「長谷川さんって私のこと本当に好きなんですか?」

「そうですよ? 何度も聞いてきますが、信じられませんか?」

 また澄ました顔で長谷川はそう肯定した。なんだかそれが少し気にくわない。

「そりゃ、いつも無表情ですし、あんなに『理想とかけ離れてる』なんて何度も言われたら、信じれるものも信じられないですよ」

「君が俺の理想とかけ離れているのも、俺が君のことを好きなのも事実ですよ? 大体、俺は何とも思っていない人のことを家に泊めようとは思いません。俺は君が好きですよ」

「そ、そうですか……」

 何度目になるかもよくわからない告白になかどぎまぎした。暗い室内がそうさせているのだろうか、いつもより声色に真剣みが増している気がする。

 少しだけこそばゆい気持ちになった陽菜はソファーの背もたれの方に身体を向けた。その背に長谷川は声をかけてくる。

「俺からも一つ質問があります。良いですか?」

「なんですか?」

「今日は誰と出かけていたんですか?」

「へ?」

 思いもよらぬ問いに間抜けな声が出た。顔だけ長谷川の方に向けると、彼は至って真面目な表情で陽菜を見つめていた。

「顔が赤かったのでお酒を飲んでいたのでしょう? しかも、こんな夜遅くまで……。結構、飲んでいたように見えましたが、相手は君を送るとは言い出さなかったんですか?」

「えっと、それは、相手も家庭があるので……」

「は?」

 聞いたこともないような低い声だった。いつも冷静で、感情に乏しい彼が出したとは思えない声に、陽菜の肩はぴくりと反応する。

「君は家庭がある人と付き合ってるんですか?」

「はい。まぁ、普通に……? 知り合ったときは結婚してなかったので……」

「…………」

「…………」

 顔を見なくても怒っているとわかる雰囲気だった。まるで長谷川が冷気を放っているのではないかと思うぐらいに一気に場が冷え込む。

(んんん? なんで怒ってるの? 私何かまずいこと言った?)

 陽菜が長谷川から視線を逸らしたまま冷や汗を流していると、背後で彼が動く気配がした。次いで、ベランダの戸が開く音。

「……頭を冷やしてきます」

 そう言って、長谷川はベランダに消えていった。


◆◇◆


 肉の焼ける香ばしい匂いに陽菜はゆっくりと覚醒した。ふわふわの上質なマットレスに横たわる自分を確認して、はっと息を飲む。飛び起きると案の定、そこは長谷川のベッドの上だった。

「へ? なんで?」

 陽菜は慌てて昨日の夜自分が寝付いただろうソファを確認する。そこには昨晩陽菜が借りた毛布が畳まれて置いてあるだけだった。

「おはようございます。……ようやく起きましたか。約三十分の遅刻ですよ」

 そう言いながら長谷川はセンターテーブルにベーコンと目玉焼きの乗った皿を置いた。次いで、食パンとサラダも置いていく。

「言っておきますが、昨日は俺がソファで寝たんです。君が心配するようなことは、一切、何もしていませんからね」

「いや、あんまりそこは心配してないんですが……」

 何となく、長谷川がそんな不埒な真似をするとは思えない。陽菜はそういうつもりで言ったのだが、長谷川はじっとりと睨むような視線を向けてきた。

「そこは心配してください」

「え? なんで?」

「ガードが緩すぎます。君はもう少し男性に警戒心を……」

「いや、長谷川さんだからですよ? ほかの男性にはもう少し警戒を……」

「…………」

 とたんに急降下した機嫌に陽菜は息を飲む。表情は変わらないのだが、明らかに眼光の鋭さが五割り増しになっている。陽菜は自分がいつの間にか鉄仮面の表情を探れるようになっていることにも気づかないまま、首をひねった。

 そんな陽菜の様子に長谷川は一つ息を吐き出して、入ったばかりの珈琲を手渡した。そして、少しだけ口の端をあげる。

「さて、朝食にしましょうか」

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