第2話

『最後に聞かせてください! じゃぁ、君の理想は……』


 その台詞が一周頭を回った直後、目が覚めた。顔に乗っかっていた漫画雑誌を気だるげに取り払うと、陽菜はゆるゆるとベッドから体を起こす。日頃の疲れが溜まっている為か、背伸びをするとぽきぽきと骨が鳴った。

「あー。昨日あのまま寝ちゃったのか。まぁ、お風呂入ってたし……合格点?」

 そう一人ごちた後、陽菜はベット脇に置いてあるカレンダーを眺めて、にんまりと微笑んだ。

 今日は土曜日、休日である。更に言うなら、久々に高校生からの親友とご飯を食べにいく、約束の日だ。カレンダーについている赤い星印を指でなぞり、彼女はベッドから立ち上がった。

「あーもー! 今日は長谷川さんに悩まされないし、友達とご飯行けるし、ほんっとサイコー!」

 隣に聞こえるような大きな声でそう言うと、陽菜はシャッと小気味良い音を立てながらカーテンを開けた。少し高くなった日の光が窓から入り、室内を照らす。

 長谷川から例のノートを見せてもらってから今日で五日が経っていた。陽菜としては結構ハッキリとフったつもりだったのだが、彼はやはり『諦める』という言葉を知らないようで、以前にも増して陽菜を見つめるようになった。更に、事ある毎に陽菜に話しかけて来るようにもなり、陽菜の心労は数倍にも膨れ上がった。お昼の誘いも相変わらず続いている。

 一度「いい加減諦めてください」と言ったこともあったのだが、彼の答えは至ってシンプルだった。

『そんなの俺の勝手でしょう?』

 その言葉を聞いた直後、陽菜は色々諦めた。もう飽きるまでやらせようと思ったのだ。何を言っても聞いてくれそうにないし、どうせ自分の理想通りの女性が見つかれば、彼はすぐそっちに鞍替えをする。陽菜はそう思っていた。

 スリーサイズはアレだが、家庭的で可愛らしい女性なんて探せば結構居るものだ。長谷川だってみてくれは良いし、仕事だって出来る男だ。付き合いたいと思う女性は多い。会社でも彼を好きだという女性は少なくないのだ。

(まぁ、一ヶ月の我慢ってところかな! ……それに……)

「流石に私が男でもこの部屋に住んでる女はアウトだわ……」

 陽菜は一人暮らしをしているマンションの部屋を見渡して、苦笑いを浮かべた。踏み場がないと言うほどではないが、床には漫画雑誌が広げられていて、テーブルの上には化粧道具がバラバラに置かれている。引っ越した当初に買った赤いソファーには、畳まれていない洗濯物が山のように重なっていた。

「ホント、そろそろ片づけないと……」

 長谷川の理想である『家庭的な女性』とはほど遠い部屋に、陽菜はため息をもらす。あんまりしつこく言い寄ってくるようだったらこの部屋を見せても良いかもしれない。そんな考えがふと頭をよぎったとき、窓の外からトラックが後退する時の警告音が聞こえてきた。ピーピー、という規則正しい音に陽菜がベランダから下を覗くと、駐車場に引っ越し用のトラックが一台止まろうとしているところだった。どうやらこのマンションに誰か引っ越してくるらしい。

 こんな時期に珍しいな、そう思ったが特に気にすることなく、陽菜は部屋に戻り冷蔵庫を開いた。ストックしてあったミネラルウォーターを一口飲んでから朝ご飯になりそうなものを探る。しかし、冷蔵庫にあったのは缶ビールが数本だけ。

「仕方ない。コンビニに買いに行くか……」

 このままでは友人と会う夕方まで何も食べないという事態になってしまう。陽菜は部屋着にしているジャージを手早く着替えて、ノーメイクの顔を出来るだけ見られないようにマスクをし、黒縁の眼鏡をかけた。そして財布だけ持つと玄関から出て鍵を閉める。エレベーターで一番下のロビーまで降りると、先ほど見た引っ越しのトラックから引っ越し業者が荷物を運び出しているところだった。そして、それを見守る新しい居住者の後ろ姿。陽菜はその後ろ姿を目に留めて、ビクリと肩を震わせた。

 のりの利いた新品を思わせるシャツに、伸びた背筋。折り目正しい雰囲気を纏うその男の後ろ姿は長谷川にそっくりだった。

(いやいや、まさかそんな訳ないよね! 他人の空似に決まってる! ここのところ色々悩まされてたし、今日も夢に見るしで、私おかしくなっちゃってるんだ! そう! 絶対そう!)

 しかし、嫌な予感というのは良く当たるもので……

「あぁ、卯月陽菜さん。おはようございます。早速会えるとは思いませんでした」

「は、長谷川ぁっ!!!?」

「これから隣人ですね。どうぞ、よろしくお願いします」

 澄ました顔でそういう彼に陽菜は頬をひきつらせる。マスクの上から口を覆い、距離をとるように一歩引いた。

「……何故、ここに居るんですか?」

「観察力が欠如しているんですか? 俺がここにいるのは引っ越してきたからに決まって……」

「そうじゃなくてっ! 何でこのマンションに引っ越してきたんですかっ!? 偶然? 偶然だと言ってください!」

 まさか自分を追いかけて来たのではないかと、陽菜の背筋には冷や汗が流れる。一方の長谷川は一度目を眇めると、不機嫌そうに腕を組み陽菜に向き直った。

「偶然? 君が言ったのでしょう? 『私の理想は優しくて、常に側にいて一緒に笑いあえる男性』だと。だから、俺は俺なりに努力して君の理想に近づこうとしただけですが?」

「え?」

「手始めに『常に側にいて』というところから始めてみようかと……」

「どうしてそうなるんですかっ!」

 確かにそう答えた記憶はある。あのノートを見せてもらった日のことだ。休憩時間の終了を知らせるチャイムが鳴り、陽菜がオフィスに戻ろうとしていた時、あまりにも必死に腕を掴んでくるものだから、陽菜も渋々答えたのだ。

 しかし、まさかこんな事になるとは、その時は夢にも思わなかった。

「『一緒に笑いあえる』というのは趣味の共有や感性の擦り合わせを必要とするのでこれからですが、俺なりに努力していきたいと思っています」

「なんでそこまで……」

「もちろん、君が好きだからですよ。君ばかりに俺の理想を押しつけても仕方ないでしょう? 俺も君の理想になれるよう努力をしてみることにしたんです」

 さらりとそう言われて、陽菜は少しだけ顔が熱くなった。やっていることは常識はずれだが、相手を自分の理想に近づけようとするのではなく、自分が相手の理想に近づこうとする、その姿勢は好ましいように思えた。

「それとこれを……」

「え? これは……?」

 長谷川はクリアファイルに入った書類を取り出した。その書類の一ページ目には『計画書』と打たれている。

「とりあえず、これまで見てきた君の生活態度の改善要求と、一年間の計画書です。改善要求の項目は今後も順次増やしてく予定ですが、その項目を遵守し、計画通りに生活して頂けたら一年後には俺の理想の女性に……」

「はぁあぁっ!」

 陽菜は長谷川の手からその書類をはたき落とす。そして、陽菜は彼をキッっと睨みつけた。

「んな、計画書いらんわっ!」

「では、ポストに入れておきますね。後でじっくり読んでみてください」

「読まないので、いりませんっ!」

「そうですか? これを読んでいただければ、休日にそんな府抜けた格好で外を出歩くことなんてなくなると思ったのですが?」

 その言葉に、陽菜は恐る恐る自分の格好を見直した。着ているパーカーの袖は解れているし、ジーパンの色は褪せきってしまっている。櫛の通していない髪の毛はぼさぼさで、おまけにノーメイクを隠すために眼鏡とマスクを付けている。ハッキリ言って女子力ゼロの格好である。

「――――っ!」

「必要なようなのでポストに入れておきますね。今からコンビニにでも行くのでしょう? 朝食の買い出しご苦労様です」

 まるで意趣返しのようなやりとりの後、まるでほくそ笑むかのように長谷川がわずかに口の端を上げて笑う。

 陽菜は怒りで顔を真っ赤に染めた後、まるで逃げるようにその場を後にした。

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