第3話

「ホント最悪! あの陰険眼鏡ストーカー野郎ぉっ!!」

「こら、陽菜。もうやめときなって! それ以上飲んだら帰れなくなるし、明日に響くよ?」

「へーきへーき! 明日は日曜だし、予定もないしー」

 ぐったりと居酒屋の机の上に頬を押しつけながら、陽菜は親友の前でへらへらと笑う。右手にはビールの入ったジョッキを握って、左手はだらしなくぶら下がっていた。


 夜遅くまでやっている居酒屋の個室で、二人はもう長いこと駄弁っていた。それぞれの近況報告から始まり、会社の愚痴、共通の友人の噂、最近の芸能ニュースにまで話を飛ばして二人はずっと喋りっぱなしだった。

 ある程度話のネタが尽きかけた時、急に話の矛先は陽菜の恋愛話になった。陽菜はここぞとばかりに長谷川のことを愚痴り、そして、その勢いに任せて酒を飲んだ。結果、気が付いた時には完全に酔いが回ってしまっていたのだった。

 完全にできあがっている陽菜を介抱するのは親友の由美だ。時刻はもうすでに夜の十時を回っている。

「というか、なんでその男が嫌なの? ルックス良くて、仕事できて、真面目なんでしょ? 言うことないじゃん! 少しぐらいの欠点、目を瞑らないと嫁き遅れるわよ!」

 呆れたような表情で由美がそう言う。陽菜はその言葉を聞きながら不満げに口を尖らせた。

「別に結婚だけが人生の幸せじゃないでしょ! あんな奴とどうこうなるぐらいなら一生独身の方がマシだわ! というか、そもそも私は嫁き遅れてるしねー」

「……そんなことないでしょ」

「黙れ、既婚者ぁー」

 陽菜は呂律の回っていない口調でそう言いながら、由美を拳で軽く小突く。そして、再び深く机に突っ伏した。

 陽菜も由美も今年で二十八歳になる。結婚の話題には敏感な年齢だ。

 友人全員というわけではないが、六割ぐらいは家庭を持っていたりする現状である。由美も去年、七年間付き合った男と結婚したばかりの新婚だった。

 机に突っ伏したままの陽菜の背中を撫でながら、由美は器用に片手で枝豆を食べる。

「好きだって言ってくれてるんだから、一度付き合ってみたらいいじゃない! で、ダメだったら別れる! 簡単でしょ?」

「えー……」

 由美のその提案に陽菜はあからさまに渋い顔をした。正直、お試しでも付き合いたくない相手である。付き合ったら最後、胃がねじ切れそうなほどのお小言が待ってるに違いない。

 それに陽菜は今、恋愛をする気になれないのだ。その理由は……

「アンタ、まだ元カレのこと引きずってるんでしょ?」

「ぅ……」

 由美のその的確な指摘に陽菜の肩が跳ねる。そして、げっそりと痩せこけたような声を腹の底から響かせた。

「そんな訳ないじゃない……」

「うわ、冗談で言ったのに当たりとか。アンタ隠すの下手すぎ……」

「…………」

 ぐっと言葉に詰まる。陽菜は由美から顔を背け、眉間に皺を寄せた。

「あんなヒモ男の事なんて忘れちゃいなさいよ!」

「ヒデくんはヒモ男じゃないっ! バンドマン! 夢を一生懸命追いかけてる人とヒモ男を一緒にしないで!」

「はいはい。んで、その夢を追いかけるバンドマンに『もう女として見れない』って言われてフられたんだっけ?」

「ゆみのばぁかぁぁあぁっ!!」

 隣の個室にまで響くような声を出しながら陽菜は机に顔を埋めた。酒の力も借りてか、涙がぽろぽろと溢れ出る。元カレと別れてからもう半年が経つというのに、陽菜はまだ彼のことを忘れられないでいた。

「ごめん、ごめん。……でもさ、何度も言うけど、そんな最低男のことなんてもう忘れちゃいなって! 失恋には新しい恋よ?」

「だから、長谷川さんと付き合えって? ぜぇっっったいに、やだぁあぁっ!!」

 子供のようにそう叫ぶと、タイミング良く店員がラストオーダーの注文を聞きに来た。最後にデザートを注文した二人は、その後解散したのだった。


 電車から降りた後、川沿いの遊歩道を陽菜はふらふらしながら歩く。途中で自転車にぶつかりそうになり、鞄の中身を全てぶちまける事件はあったが、彼女はなんとか無事にマンションにたどり着いた。

 エレベーターに乗り込むと、だらりと壁にもたれ掛かりながら『5』の数字を押す。そして、部屋の前にたどり着いた陽菜は家の鍵を取り出すために鞄の底を漁った。

「あれ?」

 何度も確かめるように鞄の中に手を突っ込む。しかし何度漁ってもお目当ての感触が見つからない。とうとう陽菜は鞄の中身を全部出すようにして鍵を探し始めた。その表情からは血の気が失せている。

「え? ないっ! ないっ! 携帯電話も!? えぇえぇえぇ――――!?」

「……何をしているんですか?」

 そのいつの間にか聞き慣れた冷静な声に陽菜は思わず顔を上げる。その声の主はじっとりとした目で彼女を見下ろしていた。

「は、長谷川さん?」

「人の部屋の前で何をしているんですか?」

 長谷川は右手に鍵を持ったまま固まっていた。表情は固定されたままだが、少しだけ困惑しているような雰囲気が伝わってくる。陽菜はもう一度自分の部屋の扉に目を移す。

「……人の部屋? ここ私の部屋だけど……」

「違います。その部屋の隣、……こっちが俺の部屋です」

「え――っ!? と、と、と、と、隣!?」

 あまりにもびっくりしすぎて素っ頓狂な声がでる。そんな陽菜に長谷川は低い声を出した。

「何を驚いているんですか? 今朝『これから隣人ですね』と言いましたよね? まさか、もう忘れたと? 記憶力が乏しすぎますね。計画表に記憶力を高めるような項目を追加しておきましょう」

「いやいやいやいや! 『隣人』って言うのは比喩だと思ったんですよ

! まさかホントに『隣人』だと思わなくて……」

「そうですか。まぁ、それはいったん置いときましょう。……それで最初の質問に戻るんですが、君はここで何をしているんですか?」

「それは……」

 陽菜の目が泳ぐ。正直に言ってしまえば、馬鹿にされるのは目に見えている。職場では割と出来る女で通しているのだ。今朝のことも含め、このままでは長谷川に『出来ない女』のレッテルを貼られかねない。

 しかし、そんな陽菜の想いを嘲笑うかのように、長谷川はさらりと言葉を紡いだ。

「まさか、『どこかで鍵を無くしてしまい部屋に入れない』なんてオチじゃないですよね?」

「…………」

 冷や汗が浮き出るのを感じる。陽菜は表情を強ばらせると、長谷川から視線を反らした。その反応を見て長谷川は一つうなずく。

「ほぉ。……携帯電話は?」

「一緒になくしました……」

「財布の中の残金と、クレジットカードの有無は?」

「現金は残り千五百円と、クレジットカードは家の中にあります……」

「そうですか……」

 そのまま長谷川は口元に手を置いたまま黙り込んだ。数十秒は黙り込んだだろうか。思考が終わった長谷川はゆっくりと顔を上げると、やはり業務連絡のような抑揚のない声で、陽菜にこう言い放った。


「それでは選んでください。今日は黙って俺の部屋で世話になるか、野宿か。どちらが良いですか?」

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