『悪魔』(2006年12月25日)
矢口晃
第1話
悪魔になるための修行は、壮絶を極めるものです。毎日山間の険しい岨道を、百キロもの行程の持久走を、朝夕二度しなくてはなりません。それも標高二千五百メートル付近の空気の非常に薄い場所を、重さが三百キロもある砂袋を背負って行わなくてはならないのですから並大抵ではありません。さらにおぞましい精神を育成するために、毎日五時間から六時間の、主に放火、強盗、殺人の方法についての講義を受けます。これに予習、復讐の時間を入れたら、一日の内に睡眠をとる時間はほとんどありません。もっとも、精神を常にささくれ立った、苛々した悪魔らしい状態に保つためには、寝不足気味でいるほうが却って好都合でよいのです。
また、悪魔らしい外見を作るために、身だしなみにも日頃から気をつけなければ、必ず先輩からの折檻の対象となるから注意が必要です。大抵の悪魔は、みな寝る前に左右の牙と手足の爪に丹念に鑢をかけることを怠りません。もちろん虫歯などあっては咀嚼に力が入りませんので、そういう場合は一刻も早い治療を要します。ただし悪魔の場合、生きている限り歯は永久に生え変わりますから、虫歯は抜いてしまいさえすればそれでよいのです。しかし、抜歯の際、いくら痛いからといって、涙など見せては悪魔失格です。悪魔は、どんな時にも泣いてはいけないのです。同情、感動、理性の三つは、特に徹底して排除するべく幼少の頃から厳しく教育されます。
悪魔の食事は、一日一回です。悪魔はいつも飢えていなければ殺戮の欲求も減退してしまいますので、食事は必要最低限に抑えられているのです。悪魔の食事は極めて特徴的です。毎日、お茶碗に大盛りの天使を食べているのです。もちろん、これによって天使に対する敵愾心を養うのが一つの目的です。毎日天使を食することによって、悪魔は一目天使を見ればたちまち涎を垂らし牙をむく習性を養われるのです。天使の体長は大よそ蚤か虱くらいの大きさなので、茶碗に盛るには大変好都合です。焼いたり煮たりして食べることも時々ありますが、大抵は生のまま、箸を使って口の中に掻きこむようにして食べているようです。
しかし、悪魔全員が食べられるだけの量の天使を、外から捕まえてくるのは非常に大変です。なぜなら、天使は普通、昼間にならないと活動をしないからです。もちろん、悪魔達は昼の太陽の光が苦手ですから、天使を捕まえに行くのは、大抵夜間と言うことになります。ただ、夜間天使たちは、砂場の砂の隙間やスポンジの孔の中など、大変狭いところに身を潜めていますから、その中から爪の長い悪魔が天使を一つずつ取り出すのは、大変骨が折れます。自分が食べる量の天使さえ、とても集めることなどできっこありません。ですから悪魔達は、自分たちで食べる分の天使は、自分たち自身で養殖しているのです。
悪魔達が一斉に眠る大きな寝室から、扉一枚隔てたところに、倉庫のような部屋があります。内壁は真っ白に塗装され、天井は三角形に組まれています。窓はありません。天井のすぐ近くには白い換気扇があり、静かに音を立てながら室内の空気を新鮮に保っています。部屋の四方の壁にはびっしりと棚が備えつけられています。そして部屋の中央にも隙間なくテーブルが置かれています。その棚やテーブルの上には、夥しい数のガラス張りの水槽が、所狭しと並べられているのです。中に水はありません。水槽にはガーゼのような薄い布で蓋が締められています。一つ一つの水槽からは細い管のようなものが通され、そのホースを辿るって行くと、部屋の隅にある巨大な酸素吸入器に接続されています。天使たちは、九十パーセント以上の濃度の酸素の中で育てられているのです。水槽の中では、羽を持った天使たちが、音も立てずに飛び回っています。そして水槽の壁の内側に、次々と卵を産みつけています。卵はおよそ二十四時間で孵化し、孵化した後はすぐに羽を飛び始め、約二時間おきに一個の卵を水槽の壁に産みつけるのです。この天使の培養方法を考え出すまでに、悪魔達がどれほど悪戦苦闘したかは、言うまでもありません。天使の培養に最も大きな功績を残した悪魔の肖像は、今でも悪魔の学校の校長室の壁に、額に入れて大切に飾ってあると言うことです。このお蔭もあって、後の悪魔達は、のびのびと悪魔の修行に打ち込むことができるようになったのです。
ただ、これは悪魔達自身もまだ気がついていないようですが、これだけ無尽蔵の天使たちと壁一枚隔てたところに生活している悪魔達は、無意識の内に、大抵心のどこかに天使らしい一面を備えていることを常としているようです。
『悪魔』(2006年12月25日) 矢口晃 @yaguti
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