第2話 襲われる女性
「あ、あれじゃない!? あれ街でしょ!」
見えない目的地を目指すこと一時間、キクが声を上げて示した地平の先に薄く浮かぶ影の群れがあった。
「はい。もう一時間もあれば到着するでしょう」
朗らかなリューシュの答えだったが、アグレイが耐えかねてうんざりと不満を漏らす。
「げえ、まだまだじゃねえか。歩き飽きたぜ、俺ー。誰か休憩希望の賛同者を求む」
「体力はあっても忍耐力が足りないな、青年。気が長いのは寝台の上だけかい?」
そう言ったのはユーヴで、返ってきたのが笑いではなく険悪な視線だと知ると、慌てて目を逸らす。
その先でキクの凍えるような黒い瞳と遭遇し、ユーヴは口元を引きつらせて俯いた。それからは軽口を叩こうとする気配は見えなくなった。
キクは黒曜石にも似た冷たく輝く双玉の焦点をユーヴから離してリューシュに当てる。その温度差たるや、であった。
「リューって凄いよね。普通あんなに遠くからじゃ街なんて見えないのに、分かるんだもん。何か秘訣でもあるの?」
リューシュは面映ゆそうに遠い目をした。
「そんな大したものではありませんわ。わたくしは幼少の頃より弓を習っておりましたので、自然と遠くを眺めることに慣れていただけです。それに雪国のこういう景色で育ったものですから」
「凄いことに変わりないよ」
キクのリューシュを慕う表情は正真正銘の本物だった。その温かい眼差しを受けなくなって久しい男どもは、後ろで沈みこんでいる。
「もう歩きたくねえ……」
「ぼ、僕だってみんなを和ませようと……」
それぞれ異なった感情を抱いていた一行が足を止めたのは、女性の叫び声をきっかけとしてだった。切羽詰まった声が灰の幕を破って響いてくる。目つきを変えたアグレイが四方に警戒を走らせるが、灰が視界を遮って出どころを発見できない。
「今のは!?」
「悲鳴のようだったがね……」
「リュー、分かる?」
背負っていた巨大な弩を手にして構えながらリューシュが答える。
「左斜め前方、三百メートル地点です。女性が〈喰禍〉八体に襲われています」
リューシュは矢をつがえずに弩の弦を引いた。そうすると空間が揺らめいて虚空から矢が出現し、矢が構えられた状態になる。リューシュの白い指が引き金を弾くと、矢は高い音を残して灰を切り裂いていった。
立て続けにリューシュが弩を射ると、その都度矢は何もない空間から現れて放たれていく。
矢が消えた方向を目印にして、アグレイとキクが疾駆する。速力に自信のある二人が十数秒も走ると、不明瞭ながら遠方に幾つかの影を見出した。
尻もちをついて逃げようとしている女性と、そこにゆっくりと詰め寄る岩魔の群れ。岩魔はリューシュの射撃によって五体までにその数を減らしていた。
先頭の岩魔が女性に追いついて鈍器を振りかぶる。女性は両腕を頭上に上げて防御らしき姿勢をとるが、その細腕では何の意味もないだろう。
「止め……!」
アグレイが焦って怒声を上げかけたとき、その背後から一条の軌跡を描いて矢が飛来する。普通ならば届くはずのない距離をものともせず、直線的な軌道で飛んできた矢は一瞬でアグレイを追い抜いて岩魔に着弾。側頭部に命中した。鈍器を振り下ろす間もなく岩魔は塵へと帰るが、安堵の吐息を漏らす隙を与えずに、そのすぐ後ろから別の一体が肉迫する。
「くそ!ユーヴ、頼む!!」
アグレイの大声に即応して、周囲の空間が波打つかのように揺らめいた。その波紋が二人を包みこんでから消え去ると、アグレイとキクは体重が消失でもしたように急加速する。
見る間に距離を縮めたアグレイは女性に最も近い岩魔に右直拳を揮った。頭部に受けた衝撃で体勢を崩したが、岩魔は死なずに鈍器を振り回してアグレイを退ける。
「さすがに強化しなけりゃ無理か……?」
そう言って、アグレイは左手を引く。その拳が青白く発光し、陽炎を浮かばせた。突撃しつつ打ちこまれた左拳は、今度こそ岩魔を冥途へと導いた。
女性を庇ってアグレイはもう一体の岩魔に相対する。突き出された鈍器を左拳で横殴りして方向を逸らし、さらに拳は下から上へと縦の軌道を描いた。踏みこみの勢いを乗せて放たれた
そいつの死に様には目もくれず、アグレイは視線だけを動かしてキクがいる方を見渡した。そこで、ちょうどキクも他の岩魔を倒し終わって無事に立っているのを認めると、緊張を解いて後ろの女性に向き直る。
「あんた、怪我はないか」
女性は何が起こったのか分からずに目を瞬かせた。自身を襲ってきた〈喰禍〉が、あっという間に突然現れた人間によって倒されたのだ。状況を理解できないのは当然だったろう。それでも命が助かったということだけは察知したようで、極限の恐怖から解放されて全身を弛緩させた。
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