『侵蝕』「灰よ、あの人に告げて」

小柄宗

第1話 「灰管区」

 灰が舞い上がる。

 噴き上がった灰が視界を埋めるなか、その幕を割って唐突に青年が出現した。煙った景色に唯一光る琥珀色の瞳が激しく移動するごとに、灰が四方に吹き荒れる。一帯に灰が充満しているのは、彼のせいであるらしい。

「アグレイ、暴れ過ぎ! 何にも見えないよ!?」

 どこからか、女性と称するにはやや幼い少女の声で抗議が上がった。

「動いてなきゃやられちまうだろ!どうしろってんだ!?」

 アグレイと呼ばれた青年が大声で答えた。視覚が役に立たず、相手の居場所が分からないため、自然と声が高くなる。返事の直後、アグレイが何者かに拳を見舞って打撃音を響かせた。

 少女の声が先ほどより近くで聞こえる。

「静かに戦って!」

「できるか! キクは離れてろよ、俺が一人でやってやる!」

 そう言い置くと、アグレイが遠ざかっていく気配をキクは感じた。地団駄を踏みそうな勢いで悔しげに呻く。

「きーっ! あいつは何で人の言うことを聞けないの!?」

「例えるならば、彼は地上の猛禽か。誰の手にも囚われず、自由に世界を飛び回る。その目に映るのはただ獲者のみ。それ故に……」

「まあ、キク。よかった、無事でしたの」

 芝居がかった男の口調と、それを遮るこの状況にあってものほほんとした女性の声音がキクの背後から放たれた。

「あ、ユーヴ、リュー! よくここが分かったね」

 キクはいつの間にか近寄っていた二人の仲間を振り返る。

 リューシュは、異性であれば思わず見惚れ、同性であれば嫉妬するほどの端正で気品ある容貌と、陽光を織りこんだような輝く金髪を揺らして左右を見渡し、キクに穏やかな翡翠の瞳を当てる。

「ええ、あれだけ騒いでいたんですもの。それよりも、この灰をどうにかしなければ、アグレイの援護はできませんわねえ」

 悩むように小首を傾げるリューシュには、どこか余裕やゆとりが感じられた。それは器量の大きさと受けとられるが、少し見知った者であれば単にのんびりしているだけという的確な評価を与えられる。

 胸の内で「頼りないなあ」とキクは呟いたが、慌てふためかれるよりはましだと思い直し、対策を考える。

 ユーヴは光加減によっては緑色に見える不思議な黒髪をしており、それと似た色合いの瞳を宙に据えて、まだ台詞の先を続けていた。

「あ、そうだ。ユーヴなら何とかなんない?」

 気軽に尋ねるキクを、独り言を中断されたユーヴが恨めしそうに見やった。

「何回も言うがね、僕の方が十歳は年上なんだよ。まあ、いいか、……迷える子羊達に正しき道を示す、これ啓蒙というのも詩人の役目というわけだね」

 ユーヴが空中に文字を書くように万年筆を動かす。

 それをきっかけにして、濃密に漂っていた灰が唐突に消えた。周囲が真空状態になったかのように、一気にバサッと音を立てて灰が地に落ちたのだった。

 三人は身体に付着した灰を払い落しながら、ようやく開けた世界に目を馳せる。


 白一面の景観だった。広々とした平野は見渡す限りの地面や木々が白く染まっていて、空からも白いものが降り続いている。天に広がる雲はよほど厚いのか、病人の顔色のように暗くて重々しい。そこから止むことなく落ちてくる皓々とした粒が、大地の全てを塗り潰している。

 だが、それは雪ではなく、灰だ。

 一年中灰が降り積もり、白い世界が広がる地域。侵蝕域第三八管区、通称「灰管区はいかんく」と呼ばれる場所を一行は訪れていた。

 この区画に足を踏み入れて早々に侵蝕が生み出す怪物、〈喰禍くうま〉と出くわしてしまい、独走したアグレイが暴れまくって灰が立ちこめたため、他の三人は動きがとれなくなっていたのだった。

 三人はこの事態を招いた張本人を見出すべく、視線を四方に迷わせる。

「あ、アグレイ。あそこにいますわね」

 リューシュが言って、もどかしいほどにゆっくりと指差すと、その先で確かにアグレイが一人で戦っていた。

 アグレイが相手どっているのは、出来損ないの人形のような怪物達だった。体長は大人よりも二回りは小さく、頭部とその下がほぼ同じ比率の二等身で酷く不均衡だ。体表が緑色の岩のようで、いかにも頑丈そうな出で立ちをしている。手にはいびつな形の鈍器を持っていた。

 キクが目を向けると、ユーヴの補足説明が入る。

「あれは突撃型〈喰禍〉の、岩魔がんまだね。丈夫なだけが取り柄の奴さ。彼一人でも平気だよ」

 アグレイは十数体の〈岩魔〉に囲まれながらも、怯んだ様子はない。正面から振り落とされた鈍器を右に躱して、敵の懐に入ると青白く発光している右拳を顔面に叩きこんだ。岩魔の顔がヒビ割れ、拳が手首まで埋まる。勢いで岩魔が後方に飛び、自然とアグレイの手が抜けた。直後、岩魔の身体が爆発したように粉砕し、弾け飛んだ四肢が塵となって虚空に溶けて消えていく。

「やはりね。あの程度この僕の敵ではないし、彼に任せておこうか」

 口だけのユーヴが余裕を見せたとき、その言葉を意に介さずキクがアグレイの方に走りだした。その背を腑に落ちない表情のユーヴが見送る。

「どうにも、必要とされているのは僕の知識だけで、意見は無視されている気がするね」

「キクは優しいから、放っておけないんですのよ」

 溜息を吐くユーヴの隣で、リューシュがたおやかに微笑んだ。

 二人が見る先では、キクがアグレイの隣に並ぶところだった。

 黒髪黒瞳を有するキクは十七、十八歳になるだろう見た目をしている。

「何で来たんだ!? 俺一人で充分だって言っただろ」

 アグレイは近寄ってきた足音に振り返り、それがキクのものだったと認めると、うざったそうにがなる。

「うっさい! 人任せにしたくないのよ!!」

 負けじとキクも怒鳴り返した。自分を上回る声量で反撃され、アグレイはたじろいで黙りこむ。彼はその鬱憤を近くにいた岩魔にぶつけた。拳を顎に食らった岩魔は一回転して地上に落下し、うつ伏せのまま微粒子となっていった。

「勝手にしろよ」

「するわよ——」

 後ろ向きで言ったアグレイに対するキクの返答は、語尾が上に流れる。キクの背後から岩魔が横薙ぎの一撃を浴びせ、それをキクが身軽に後方宙返りで避けたのだった。

 キクは岩魔の頭上に手をついて、逆立ちの要領で着地した。全身を直線にして均衡を保つ彼女の短い裾からはすらりとした両脚が伸びているが、その右脚は青い鉄のような硬質の輝きを放っている。

 突如、その人体にあっては異質で冷然とした右脚が淡く発光した。太腿より下が粒子の集合体と化したように希薄になり、粒子が拡散して瞬時に結合すると、キクの右脚は一本の剣に変形していた。

 そのまま振り子の原理で剣状の脚を振り下ろすのと連動して手を放す。キクの右脚から放たれた斬撃は岩魔の頭部と胴体の半分を泥のように切断、灰塵へと帰さしめた。

 全ては一瞬の出来事。

 キクは左足から着地し、しゃがみこみながら両手をついて衝撃を殺す。剣状の右脚は横に伸ばすことで邪魔にならない姿勢をとっており、それが彼女の通常の構えだ。

 キクがしゃがんだ体勢のところに三体の岩魔が殺到する。その細い身体が岩魔の打ち下ろす鈍器の影に飲みこまれて見えなくなったが、周囲の岩魔に亀裂が入り灰が四散すると、キクが無事な姿を現した。

 それを確認して安心したアグレイは敵に向かってさらに拳を繰り出す。右から攻めてきた岩魔の鈍器を右拳で迎撃し、拮抗したかに見えた両者の攻撃力はアグレイが打ち勝った。仰け反る岩魔に対し、右と入れ換えて左拳を突き出す。左鉤打ちフックが側頭部を直撃した岩魔は地面に叩きつけられて、滑走しながら消えていった。

 岩魔を撲殺したアグレイの左手は青白く光り、右手は普通の状態に戻っている。

「おっと」

 横から振り回された鈍器を危なげなく上体を傾けてやり過ごし、アグレイは向き直る。その両手からは光が失われ、何ら変哲のない普通の手になっていた。

「手から足に移動するのは時間がかかるんだよな」

 自身にしか意味の分からない呟きを残して、鈍器を高く持ち上げた岩魔へ大きく踏みこむ。前に出した左足を軸にして時計回りに回転したアグレイは、バネの利いた右回し突き蹴りを相手の顔面にねじこんだ。その一撃で岩魔の頭部が爆砕し、遅れて胴体が塵となって後を追う。

 アグレイ達と〈岩魔〉の力量の差は歴然たるもので、〈岩魔〉が全滅するのに時間はかからなかった。最後の一体をアグレイが殴り倒すと、場に静けさが戻る。

 ユーヴが顎に手を添えて言う。

「フッ、こんなものだな」

「お前が言うな」

 アグレイの景色に同化しそうな灰色の髪の下で、琥珀の瞳がつまらなそうにユーヴを捉えた。戦闘後にも関わらず、息は全く乱れていない。

「それにしても物騒ですわね。灰管区に入った途端に〈喰禍〉が襲ってくるなんて。思った以上に侵蝕が激しい地域のようです」

 内容に比べてやや緊張感が欠ける口調でリューシュが言った。それでも警戒は怠らず、背負った巨大なクロスボウの位置を直している。

 リューシュに同調してキクが首を縦に振る。掌を出して積もった灰を吐息で散らしてみせた。彼女の脚部は普通の状態に戻っている。

「不思議。最初は雪かと思ったけど、本当に灰が降ってる。侵蝕でこれだけ異常になっているってことは、もしかしたらもっと強い〈喰禍〉がいるかもね」

「あり得るよ。〈岩魔〉どころか、侵蝕を司る指揮官級の〈禍大喰まおおぐい〉がいたっておかしくない。これほどの侵蝕度で特別管区に指定されていないのが珍しいくらいだ」

 そう言ったユーヴの表情には深淵な知性が宿り、先ほどまでのおどけていた調子は残滓も窺えない。

「向こうが戦いたいってんなら、<喰禍>結構、<禍大喰>尚上等だ。片っ端から塵に帰って頂くだけさ。冥途の土産に後悔の大安売りってな」

 アグレイは拳を掲げて握り締める。

「あーら、頼りになるわー。それでついでに仲間のことも考えてくれれば上出来なのにねー」

 そっぽを向いて言い放ったキクの皮肉に、アグレイが怪訝な眼差しで応じる。

「何が?」

「あんたね!一人で暴走し過ぎなのっ! 灰のせいで私達なぁんにも見えなかったじゃない」

 キクの剣幕に気圧され、アグレイは困惑しながらも反論する。

「いや、見えなかったのは敵も同じだぜ……? 今のは出会い頭の遭遇戦だったから、敵の視界を潰さないとお前はいいけど、近距離の苦手なユーヴとリューが危なかったろ」

「え……」

 突然出てきた正論にキクが口ごもった。ユーヴが頷いて横合いから代わりに口を出す。

「確かに、少人数で多人数を相手にする場合は奇襲の方が戦術的観点からして……」

「うっさい!」

 アグレイへの助け船を即座に沈没させると、落ちこむユーヴを尻目にしてキクはアグレイに顔を向ける。どうにか無表情を保とうとしているが、悔しさが口元に滲み出ていた。

「ま、まあ、今回のことは許したげるわ」

 相手の反応も待たずに踵を返してさっさと歩きだしたキクを、アグレイが呆然と見やる。

「俺が悪いっていう流れのまま終わるのかよ」

 その二人に視線を往復させると、リューシュは微笑んでキクの後に続いていった。追いついてからは、何やら小声で話しかけている。

 アグレイには分からないが、キクを宥めるか諭してかいるのだろう。お姉さん的存在としての強みか、彼女の言うことならキクも素直に聞き入れる。そうは言ってもアグレイは反発されるしユーヴは舐め切られているから、年上の威厳を保てるのはリューシュしかいないのだが。

 一人、誰からも相手にされていないユーヴが遠い目をして呟いた。

「基本、僕は放置のようだ。僕の存在意義や如何に。……次回に続く」

「ねえだろ、そんなもん」

 友好的とは縁遠い、うんざりした返答しかできないアグレイだった。

 二人が女性陣の背を追って歩いていくと、先を進んでいたキクとリューシュが立ち止まって待っている。小高い丘に立って遠方に目を凝らしているキクを横にして、リューシュが丘の向こうを指で示していた。

「あちらに街があるようです」

「お、そりゃいいや」

 灰が降り頻るなかを移動することにすっかり辟易していたアグレイは、喜々とした笑みを浮かべて坂を登る。キクに並んでリューシュが指す方向を眺めたアグレイ、その目が点になり、次いで極限まで細められた。

「えーと、どちらに街が?」

 眼下に広がる景色には街らしき影どころか、他の物体すら窺えない。果てしない荒涼とした灰の地平が両手を広げてアグレイを歓迎している。

「私にも、見えないんだけど……」

 額に手をつけて必死に前方を探るキクも同様の意見を発する。

「ですから、あちらに」

 そう答えるリューシュには迷いがない。弩の心得があるリューシュは、常人の群を抜いて視力が優れていて、その信用性は疑いの割って入る余地がないほどだ。

「わ、分かった。じゃあ、あちらとやらに行ってみるとしようぜ」

 アグレイが言って、真っ先に斜面を駆け下りていった。急いたその様子を見てキクが腰に手を当てて、嘆息する。

「全く、焦んなくてもいいのに。子どもなんだから。ねー?」

 リューシュに同意を得るように愛想笑いを向けて、キクも負けじとアグレイを追っていく。余裕を保っているように見えても、一番乗りで街にいきたいというのが隠し切れていなかった。興味なさげに大人ぶって振る舞っていたことが、余計にリューシュの微笑を誘う。

「ええ、そうですわね。キク」

 聞こえないだろうとは分かっていながらも返答を放ち、本物の余裕の足どりでリューシュは坂を下りていく。

 その柔らかい光を包含する瞳が前方に注がれていたので、背後からの「リューシュ君、街がどこにあるか見えないのだが」、というユーヴの問いは、耳に届いていないようだった。

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